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第47話 エチュード①

 駅前は人でぎゅうぎゅう詰めだ。まるでビーフシチューでも作るのかという圧力。

 夏の湿度も相まって視界が曇っている気さえする、これが減圧の蒸気ってか。


 改札を抜けて川沿いに躍り出ると、大人から子供まで、老若男女が忙しなく足を動かしていた。


 濃いソースの香りにビールの缶を開ける音、知らない誰かがこれまた知らない誰かを呼ぶ声。

 昨年までの自分なら絶対に来なかった場所だ。


 薄暗くなってきた空は晴れ、炎を咲かせるにはおあつらえ向きだろう。

 沈みかけた太陽ですら、これから起こることを楽しみにしているかのように、細い光を水面に走らせていた。


 首を振って目当ての人物を探す。

 この人混みなら見つからないんじゃないか……なんて甘えた考えを持っていた数秒前の自分を殴り飛ばしたい。


 電柱の影、商店街のライトに照らされた姿が視界に映る。

 淡い紫色の浴衣、いつものポニーテールはなりを潜め、後頭部に沿うようにまとめられていた。


 道行く人がチラッと視線を投げかけているのも頷ける。

 あれは見るだろ。


 綺麗だ、そう思った瞬間に目が合った。


(早くおいでよ)


 声を出さずに口だけを動かして俺を呼ぶ千波。

 しゃらん、と揺れたのは簪の先か、俺の心臓か。


 どうにも視線が吸い寄せられてしまう。前は中華料理屋でビールを無限に吸い込んでいたくせに、今はうるうるつやつやと光を放つ唇に。


「ずるいだろ」


 思わず言葉が口から漏れ出た。

 だってずるいじゃないか。


 普段は元気で活発で、目が合うと煽り文句を投げかけてくる千波ちなが、どこぞの令嬢かのようにしずしずと目を伏せている。


 ギャップ萌えなんて言葉は生温い。真夏日の翌日ドカ雪になるかのような変貌ぶりに狼狽が隠せない。


 それでも、それでもしかし、目の前で薄暗く微笑む人物は確かに千波ちなだった。


「どう?圭」


 身体中に電流が走った。


「……名前でなんて呼んだことないだろ」


 豪速球のスマッシュは打ち返すのかやっとだ。

 高く上がったフライに、彼女は気持ちのラケットで狙いをつける。


 その証拠に、唇の始めがほんのりと持ち上がっている。


「ばかね、デートだって言ってるんだから名前くらい呼ばせなさい」


 あの中華料理屋でビールをぐびぐび飲みながら千波自身が宣言した通り、これはデートだ。


「そんな初回から名前で呼ぶような女の子に育てた覚えはないぞ」


「私もあんたに育てられた覚えはないわ。それとも『パパ』って呼んだ方がいい?」


「うぐっ」


 こいつは何発弾丸を抱えているんだ。

 死体撃ちはマナー違反だぞ。


「それは二重の意味でやばいからやめてくれ」


「あなたと私が結婚して子どもがいるみたいに聞こえるから?それとも最近世間を賑わせているパパ活みたいになるから?」


 滾々と溢れる泉のように言葉が湧き出てくる。

 今度は落とさないようにしないと、心という名の斧を。


「わかってるならみなまで言うな」


「でもその二つなら、私は前者がいいなぁ。ねぇ?圭……圭さん?圭くん?なんでもいいけど」


「いつも通り苗字呼び捨てで頼む」


 心臓がもたない。


「ふぅん、そういうこと言うんだ〜!なら私にも考えがあるわ」


 カラン、と音を立てて一歩踏み出す千波、濡れた瞳に自分が映る。

 直後、腕に重さを感じた。


「まさか嫌だなんて言わないよね?水族館でジュリエットとこうしてたのは知ってるんだから」


 きゅうっと力を入れて締め付けると一瞬だけ、彼女は俺の方へ体重を預けた。

 嫌なら押し返せよとでも言わんばかりに。


「……はいはい負け負け」


 いつも通り俺は降参する。本気の千波ちなには逆らうな、これは俺が社会人になって数年で学んだ教訓だ。

 もしここで強情になれば、待っている結末は気まずさの塊だ。


 千波ちなという人間は、ボーダーラインを見極めるのが上手い。

 やっていいこととだめなこと、できることとできないこと、人それぞれにあるラインを把握して自分の意見を通すのだ。


「わかったならよろしい!」


 彼女は上機嫌に声を上げる。


 どうして自分の周りには強情な女性しかいないのか。その謎を解明すべく、我々は河原へと向かっ……ふざけてる場合じゃないか。

 そりゃもちろん、この腕を振りほどくことなんて容易い。どこまで行っても一般的には成人男性と成人女性では力の差があるから。


 ではなぜ振りほどかないのか。

 胸にもやもやと絡まった二本の気持ちの糸を、まだ解けていないから。

 自分の中で一度出した答えすら塗り替えられそうな熱量を感じたから。


 身勝手だとはわかっているが、自分の人生で身勝手になれないなんてフェイクだと思わないか?

 誰に対してか……いや、相手はわかっているか、言い訳を頭の中でパン生地のようにこねくり回す。


 あぁ危ない、これが本当にデートなら俺も義務を果たさねばならない。

 舞台上では与えられた役をこなすのが、俺たち役者の本懐なのだから。


 でもいつか広報課の大女優が言っていたように、それが決められたセリフだからといって、心がこもっていない訳じゃない。


 もしかしたら誰が千波の「彼氏役」を演じたとしても結末は変わらないのかもしれない。でも、この一言に自分の本心を込めるのはおかしくないのだ。


 だから勇気を振り絞って、会社では絶対言わない言葉を紡ぐ。


「千波、」


「やだ、名前で呼んで!」


 監督からストップがかかる。


「ちな、その浴衣似合ってる」


「えへへ……よくできました!」


 にっこりと笑った千波は、これから夜空に咲くであろう満開の花よりも美しかった。

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