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第31話 眠れる森のジュリエット①

「いらっしゃ〜い!」


 気の抜けた声で瑚夏さんは俺をリビングへと招いた。

 いつの間にか荷物は手元から離れ、いそいそと部屋の端に寄せられている。


「お、お邪魔します……」


「なに、緊張してるの?」


 振り返りながら彼女は言う。


「そりゃしますよ!」


 何を言ってるんだこの人は。

 同年代の女性の部屋に入ったのなんて何年ぶりだろうか。

 というかそもそもあったっけ?


 疲れた社畜にとって、ここはもはや異世界。

 触れていいものとそうでないものの区別すらつかない。


 それにしても物が少ないな……。

 いつか職場で彼女のデスクを見たことを思い出す。


「部屋、綺麗ですね」


 必要ないものは置かない主義だろうか。

 家具や電化製品、そこにあるものすべてが何に使うかわかる。

 余った空間ですら、意味があるのだろうと邪推してしまう。


「殺風景でしょ」


 ちょっと頬を赤くして瑚夏さんは力なく笑う。

 以前誰かに言われたんだろうか。


 ……自分以外の人間がこの部屋に足を踏み入れたことを考えると、ほんの少しだけ心が痛い。

 その痛みすら感じる権利なんてないのに。だめだな、アルコールに浸かった脳の誤作動なはずだ。


「機能的でいいと思います……あれ、前にも言いましたっけこれ」


「ふへっ、前にも言ってくれたね。見る目あるじゃん」


 目を細める瑚夏さん。

 やっぱり職場で見るオフィスカジュアルじゃない彼女は新鮮だ。


「どしたの、じっと見つめて。私のこと好きになった?」


 タクシーで大人っぽいとか思った自分を殴りたい。

 でもこうやって言葉でじゃれている時間が嫌いじゃなくて。


「安心してください、好きになってないですよ」


「ほんとに?人間として考えても1ミリも?」


「やけに食い下がるじゃないですか」


「そりゃそうだよ!これから同じベッドで寝るんだから、好きのひとつくらいは言わせとかないと」


 衝撃の事実発覚。

 俺は今日ジュリエットと同衾するらしいです。


 は?無理無理。

 潜在ロミオにバレたら殺されるって。


「寝ませんし言いませんよ」


「え〜〜もうこんなところまで来ちゃったんだから、ほら!誰も聞いてないし」


「瑚夏さんがいるじゃないですか……そもそも気持ちがこもってなかったら何言っても意味ないでしょう?」


 本当にこもってないかは、俺しか知るよしがないわけで。


「それはそう」


 まるでテーブルにコップを置くみたいに、彼女は言葉を落とす。

 やけにあっさりと解放されたな……さっきまでの熱意すら演技だったというのか。


「普通ならかっこよく私が『先にお風呂入ってきたら?』って言うんだけど、もう入ってるもんね〜」


「かっこよく言う必要ないでしょ」


「なんか憧れるじゃない。人を家に呼んで先にお風呂入らせるのって」


「ニッチ過ぎでしょ……でも会社で募ったら沢山釣れるんじゃないですか?」


 それこそ入れ食いだぞ。夏の用水路でザリガニを釣るみたいに。

 社内全体チャットで瑚夏さんが「うちくる人〜!」なんて呼びかけた日には、サーバーが落ちる勢いで男どもが返事するだろう。


「……またしょうもないこと考えてるでしょ」


 呆れた声が耳を刺す。


「バレるの早いですって」


「なんかね〜最近わかるようになってきたの!」


 やっぱり頭の中を覗かれてる……!?

 まずいまずい、あんなことやこんなことを妄想……してないから別にいいか。

 どうせ仕事のこと考えてるし。


「じゃあ今何考えてると思います?」


「簡単よ、早くベッドに一緒に入って甘えたいな〜でしょ?」


 子どもあやすような優しい声。


「んなわけないでしょ!この歳になってそれはやばすぎる」


「やばくていいのよ!私しか知らなければそれで!」


「絶対飲み会とかでネタにするじゃないですか!あ、いや、甘えたいって思ってるわけじゃないですよ」


 ただ、瑚夏さんの言った「私しか知らなければそれで」という言葉は響くものがある。

 彼女のこんな一面も、俺以外の誰かが知っているんだろうか。


 所詮は先輩と後輩。

 瑚夏さんは、彼女の一部しか俺へと見せていない。

 まるで地球から見る月が、ずっと同じ面だけをこちらに向けているみたいに。


 月の裏側を見るためには、地球から飛び出さなければならない。


 ……それは逆も然り。


「ふふっ、どーん!」


 小さいけど大きな声で思考が中断される。

 肩に触れる手。直後、柔らかいものに背中が受け止められた。


 遅れて香る彼女の匂い。

 そこでようやく、ベッドに突き飛ばされたことを頭が理解した。


「立野くん」


 いつもみたいに、彼女は俺の名前を呼ぶ。


「なんですか、瑚夏さん」


 のしっとベッドに乗ってきたジュリエット。

 上から覗かれるのは新鮮だ、なんて場違いな感想が頭を過ぎる。


「さっきも言ったけど、難しいことは考えなくてもいいの。私と二人でいる時くらいはね」


 歌うように呟くと、瑚夏さんはゆっくりと俺へと身体を預けた。


「ちょっ……」


 マットレスとは比較にならないほどの柔らかさ、ゆるい体温。

 軽いんだな、とか彼女にバレてはいけない考えがぐるぐると巡る。


「ここは私のお城であなたはお客様、されるがままね」


 お姫様の声が、身体の骨を通じて直接聞こえるみたいだ。

 というか普通なら体勢逆じゃないか?

 いや、普通も何もないんだが……。だめだ。もう何も考えられない。

 疲れと緊張と安心、ぐちゃぐちゃに混ざった思考を一旦整理したい。


「こんな駅近のお城があってたまりますか。すぐ攻められますよ」


 軽口を返す。


「現実の話する立野くんやだ」


「空想じゃ飯は食えないですからね」


「そういうこと言ってんじゃないの!」


 瑚夏さんは親指で溜めを作って、人差し指を弾く。

 いつ以来だ、デコピンなんてされたのは。


「いだっ」


「そのまま寝てなさいな、私着替えてくるから……覗かないでね?」


 パチンッと片目を閉じると、彼女は身体を起こした。

 まったく、心臓に悪い。


 彼女の温度を感じたのは一瞬だったが、もうどこか寂しさを感じている。

 現金な身体め。一度知った幸福は、失うとすぐに恋しくなるのだ。


「あ、でもでも!」


 てくてくとリビングを横切る瑚夏さんが足を止めて振り返る。


「ちょっとくらいなら見てもいいよ?」

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