Good morning
二話投稿しています。ご注意を。
ずっと前にもこんな風にされた事がある気がする。
『もう大丈夫だから、泣くな』
今よりもずっとぶっきら棒で、それでも慣れない手付きで背中を撫でてくれた。
『良い子だから待っておいで』
泣き疲れてとろとろと思考が閉ざされていく。翳む視界の中で最後に見たのは漆黒の翼。
可愛らしい鳥の声がエルネインに起きてと催促する。穏やかな微睡みから抜け出したエルネインを迎えたのは、見慣れない天井だった。いや、この場合は天蓋と言うのだろうか。
「そっか。昨日はクロシュ様と一緒に空を飛んだんだ」
幸せな記憶と共に、昨夜の出来事が遡って蘇ってくる。忌わしい記憶に身体を震わせたところで、ノックと共に懐かしい声が届く。服を着たまま眠ってしまったので、エルネインはそのままゼファを迎えた。
「ゼファ様!」
「おはよう、エル!会いたかったぜ」
「私もです。ずっと帰って来てくれないので心配しました」
「ごめんな~。色々立て込んでたんだよ」
本当は家の場所が何処か分からなかっただけだ。
ぽんぽんと頭を撫で、エルネインにも見えるよう少しだけ立ち位置をずらす。エルネインはゼファ以外に人がいたことに気付いていなかったようで、慌てて身嗜みを整えた。そんなエルネインの様子に苦笑しながら、女性はゆっくりと頭を下げる。
「初めまして、お嬢様。私はこの邸の侍女長を務めております、マァサと申します」
「初めまして、マァサさん。エルネインと言います」
見様見真似でぎこちなく頭を下げるエルネインに、マァサは驚くとともに好感を抱いた。
「聞いてはいたけれど、お可愛らしい方ですわね。ですが、お嬢様。主人の客人であるお嬢様は、私共使用人に頭を下げてはなりません。それから尊称もです」
「……はい」
納得出来ないと顔にはっきり描かれている。躾がきちんと行き届いている証拠だろう。
「私達使用人は主に仕える者です。それは主の客人も例外ではありません。ここまではお分かり頂けましたか?」
「はい」
「そして主は私達を束ねる立場の者です。そんな方が下の人間に遜っていたら示しがつかないでしょう?」
エルネインは俯いていた顔を上げた。目が合ったマァサは微笑みながらゆっくりと頷く。口を開きかけたエルネインを制して、
「これが私達の仕事なのですからお礼も不要です。プライベートの時には、また別ですよ」
小さくウインクする。
「分かりました」
「はい。では、お嬢様のお召し物とお食事を用意致しますので此方でお待ちくださいませ。ゼファ様のお食事もお持ちしましょう」
「頼むよ、マァサ」
ゼファに促され、隣室のソファに座る。
「吃驚しました。……でも、主っていうのは、やっぱり」
クロシュのこともゼファのことも何一つ知らなかった自分が恥ずかしかった。薄々は察していたが、確信に変わる。
「……俺達が隠してたこと、怒ってるか?」
「いいえ。……でも少しだけ、寂しかったです。お二人のこと、何も知らなかったんだなって」
「それは違うぜ、エル」
「ゼファ様」
「確かに俺達は身分を隠してた。けどそれは、エルに俺達自身を見て欲しかったからだ。俺はあの家で一緒に暮らすまで、クロシュの穏やかな表情を見たことがない。俺の知ってるあいつは一匹狼で、いつも冷めた目をした恐い奴だ。信じらんねぇだろ?」
「……はい」
エルネインの知っているクロシュはとびっきり優しくて時々子供っぽくて、実は頭でっかちで、でもいつもエルネインの事を守ってくれる。それらが全部偽物だとは思いたくなかった。
「あいつにとって、エルさえいれば身分なんざどうでも良かったのさ。だから今まで通りに接してやってくれ。今更お前に他人行儀にされたらあいつ、マジで自殺しかねないからな。勿論、俺にも、だ」
「分かりました」
「ん!……やっぱ良いよなぁ。なあエル。いっそ俺の息子に嫁いで来いよ。歓迎するぜ」
間に設けられた机をものともせずにエルネインを持ち上げたゼファは自分の膝に乗せてやる。これがクロシュだったら頬の一つでも染めるところだが、ゼファの場合は完全に子供扱いだったので、エルネインも安心して座っていた。
「結婚には愛とお金、賢くて容姿端麗で器量と身長と甲斐性と身体の相性があれば良いんですよ」
「……あ~、まだ憶えてたのか。ソレ。そうだな、一番上は甲斐性がねぇし、二番目は嫁がいるから三番目?いや、あいつにエルは勿体無いだろ 。そうすっと……」
「少し目を離した隙に良い度胸だな、ゼファ」
窓ガラスを割って青年の身体が放物線を描いて飛んでいく。空かさずエルネインを確保した男は腕の上にエルネインを乗せて、頬に口付ける。
「只今、戻りました。目が覚めたら知らない所で驚いたかい?」
「お帰りなさい。吃驚しましたけど、ゼファ様が居てくれましたから」
「ふぅん。でもね、エル。男に膝抱っこをして貰うのははしたないから駄目ですよ。私は例外ですが」
「?はい。でも、どうしてクロシュ様は良いんですか?」
「……教えて欲しいですか?」
互いの吐息がかかるほどぐっと顔が近づけられる。こうなってしまうと黒曜の妖しげな瞳に吸い寄せられて身動きが取れない。形の良い口が弧を描き、エルネイン、と誘うように動く。抗えない力に引かれるまま、エルネインから口付けをした。美しい黒水晶にエルネインの銀色が写し出されて、その不思議な色に見惚れてしまう。軽く触れるだけの唇は何度も何度も繰り返され、やがてエルネインの後頭部に回された手が、離れる事を許さずに二人の体温を溶け合わせる。
「失礼しますよ。ご飯を先にお持ち致しました~……だ、だ、旦那様ぁ!!?」
「いやぁ、参ったぜ。まさかあんな所に穴があるなんて知らなかった……うおい!!」
タイミング良く(悪く?)それぞれ窓と扉から入ってきた二人が衝撃の光景を目にして大声を上げる。エルネインの意識が逸れたことに内心舌打ちしながら、渋々解放してやる。ぐったりと凭れかかる身体をそのままに、無粋な邪魔者を睨みつけた。
「煩い」
「じゃねぇだろ!何襲ってんだ、この野郎」
「同意の上に決まっているでしょう。……ね、エル?」
エルネインを呼びかける声だけが異常に甘い。初めてこの光景を目にするギルシュはしきりに目を擦り、それでも消えないと分かるなり奇声を上げて廊下を飛び出していった。詰め寄っていたゼファはゼファで、エルネインがそっと頷き同意を示したことで、ふらりとソファに倒れ込む。後からやって来た、何も知らないマァサだけが目を丸くしていた。