潮迎え
【精霊は還る場所を知っている】
2026.9.25 47話一挙配信。
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翌朝。
まだ日が昇りきる前から、屋敷の中は慌ただしかった。
廊下を行き交う足音。
中庭では、白い布や籠いっぱいの花を抱えたエルフたちが忙しなく動き回っている。
遠くからは人の声と、何かを組み上げるような音まで聞こえていた。
ジジは窓の外を見る。
「何かあんのか?」
背後から出てきたガイアが、欠伸をしながら銀髪を掻いた。
外を見るなり、少しだけ目を細める。
「あー……今日か」
「何が」
「潮が変わる」
「潮?」
「ああ。この時期、一度でかく流れが変わるんだよ。ヴァレイアの周りは海流が複雑だからな」
ガイアは窓辺まで来ると、遠くの海へ目を向けた。
「その節目に、潮迎えって祭祀をやる」
「何すんの?」
「古い潮を送って、新しい潮を迎える」
「誰が?」
「母さん」
「お母さん?」
「ああ。イル=ネアが立つ祭祀だからな。俺がいなかった間は、ずっと母さんがやってた」
ジジは昨日までのイシルを思い出した。
料理を作り、ルナリスの口元を拭い、花の編み方を教えていた女性。
「……お母さん、そういうのもやんだな」
「母さんもイル=ネアだからな」
「蒼深だっけ?」
「ああ。深い海の精霊」
「なんかすごそうだな」
「すげぇぞ」
その時、廊下を走る小さな足音が聞こえた。
「ガイア!」
扉からルナリスが顔を出す。
「おはよ」
「おはよう!」
その後ろから、イシルもゆっくり歩いてきた。
「起きていたのね」
「ああ」
イシルは窓辺に立つ息子を見る。
「今日の潮迎え、覚えてる?」
「今思い出した」
「そう」
「今年も母さんが立つんだろ?」
「その予定だったわ」
ガイアが頷く。
「じゃあ俺ら後ろで見てる」
「いいえ」
ガイアの眉が寄った。
イシルは穏やかに笑う。
「今年は、あなたが立たない?」
「……俺?」
「ええ」
「何で」
イシルは窓の向こうへ視線を移した。
「私でも務められるわ」
「じゃあ母さんでいいだろ」
「いつもならね」
ガイアの表情が少し変わる。
「何か違ぇの?」
「夜明け前から、南の潮がずっと騒がしいの」
「潮が?」
「波の精霊たちが、いつもよりずっと浅いところまで集まってる」
ガイアの目が僅かに細くなった。
「祭祀を預かる者たちも同じものを見ているわ。
潮の流れも、波の立ち方も、風の向きも、昨日までとは違うそうよ」
ガイアは黙ったまま海を見る。
「……俺が帰ってきたから?」
「分からないわ」
イシルは静かに答えた。
「でも、あなたが戻った翌朝からこうなった」
「…………」
「それに、波の精霊たちはあなたの方を向いている」
ガイアの表情が止まる。
ルナリスも窓へ近づき、一生懸命海を覗き込んだ。
「波の子、ガイア見てるの?」
「ここからじゃ俺にも分かんねぇよ」
「ルナも分かんない」
「そっか」
そこへ、ギルムが廊下の向こうから姿を見せた。
「起きてたか」
「親父」
「母さんから聞いたか」
「ああ。祭祀の連中とも話したの?」
「話した。南の潮は夜明け前から普段と違うらしい」
ギルムは窓の外へ目を向ける。
「五島の長たちも、潮迎えに合わせて本島へ来る」
「それはいつも通り?」
「ああ」
「俺が立つことは?」
「まだ伝えてない」
ガイアが父を見る。
「何で」
「お前が決めてないからだ」
ガイアは少し黙った。
百二十年前なら、先に決められていた。
ガレイヴィアが立つ。
そういうものだと教えられ、それを疑うことすらなかった。
イシルが息子を見る。
「あなたが帰ってきたから、役目を返したいわけじゃないの」
ガイアが母を見る。
「今年の海が、あなたに応えているのよ」
静かな声だった。
「立つかどうかは、あなたが決めなさい」
ガイアはもう一度、海を見た。
百二十年見なかった故郷の海。
それでも今、その海の波の精霊たちは、自分が帰ったことを知っているかのように騒いでいる。
しばらくして、ガイアは小さく息を吐いた。
「……やる」
イシルが微笑む。
「そう」
「俺がやる」
ギルムも一度だけ頷いた。
ルナリスが顔を輝かせる。
「ガイアがお祭りするの?」
「そうなった」
「見たい!」
「見るだけな」
「ルナもやる!」
「やんねぇよ」
「なんで?」
「イル=ネアじゃねぇだろ、お前」
「じゃあ見る!」
「それはいい」
ジジが笑う。
ガイアが横を見る。
「何」
「いや、緊張してそうだなって」
「してねぇよ」
「してんじゃん」
「うるせぇ」
イシルが二人を見て笑った。
朝食を終える頃には、島全体が潮迎えの準備に動いていた。
花や香草を運ぶ者。
白い布を抱えて南へ向かう者。
子供たちまで小さな籠を持って走り回っている。
ルナリスは窓に張りついていた。
「みんなお祭り行くの?」
「祭祀な」
ガイアが答える。
「屋台ある?」
「ねぇよ」
「えー」
「何でそこなんだよ」
「バインスのお祭りにはあるよ」
「こっちは神事だからな」
ルナリスが露骨に肩を落とす。
ジジが笑った。
「こういう祭祀、他にもあんの?」
「ああ。他にもある」
「ガイアも昔はやってた?」
「潮迎えには立ってたよ」
ルナリスが振り返る。
「イシルもガイアもできるの?」
「できるわよ」
イシルが答えた。
「同じイル=ネアだから?」
「そうね。ただ、応えてくれる精霊は同じじゃないわ」
「違うの?」
「私は蒼深。ガイアは風と波」
ルナリスが少し考える。
「イル=ネアって、何なの?」
ガイアの眉が上がった。
「そこ今まで気にしてなかったのか?」
「長い名前だなって思ってた」
ガイアが額を押さえる。
ジジも腕を組んだ。
「え、名前じゃねぇの?」
「お前も?」
イシルが笑う。
「イル=ネアは、誰かに決めてもらってなるものじゃないの」
ルナリスが首を傾げる。
「じゃあどうやってなるの?」
「精霊の方から近づいてくるのよ」
「精霊から?」
「ええ。ヴァレイアの民はみんな精霊と一緒に暮らしているけれど、
普通は特定の精霊を纏ったりはしないわ」
ガイアが続ける。
「イル=ネアは向こうから来るんだよ。寄ってきて、強く共鳴する」
「ガイアのところに?」
「ああ」
「いっぱい?」
「……まあ」
「すごい!」
「その言い方やめろ」
イシルが笑った。
「ガイアはまだ若かった頃、最初にファルコと強く共鳴したの。
そのあと、風と波の精霊も集まるようになった」
「ファルコ!」
ルナリスの顔が明るくなる。
ジジはイシルを見る。
「じゃあ、イル=ネアって血で継ぐもんじゃないんですか?」
「違うわ」
「でも、お母さんもガイアもですよね」
「そう」
「親子で?」
イシルが頷く。
「それが珍しいのよ」
ガイアが横から口を挟む。
「珍しいどころじゃねぇけどな」
「そんなに?」
「イル=ネアから生まれた子が、またイル=ネアになった記録は、それまでなかったの」
ジジがガイアを見る。
「……お前、結構珍しいんだな」
「今さら?」
「知らねぇもん」
「聞けよ」
「聞いても言わなかっただろ」
ガイアが黙る。
「ほら」
ルナリスが楽しそうに笑った。
昼前。
五島の長たちが本島へ到着した。
「ガレイヴィア様」
報告を受けたガイアの表情が変わる。
「全員か」
「はい」
「父上は?」
「すでにお迎えしております」
「分かった」
「本日の潮迎えをガレイヴィア様がお務めになることも、各島へお伝えしております」
ガイアが僅かに黙る。
「……何か言ってたか」
「皆様、御祭祀を見届けたいと」
「そうか」
「お支度も整っております」
「ああ。頼む」
使者が去り、扉が閉まる。
ガイアが息を吐いた。
ジジが横を見る。
「やっぱ緊張してんの?」
「別に」
「してんじゃん」
「百二十年ぶりなんだよ」
「じゃあしてんじゃん」
「うるせぇな」
ルナリスが見上げる。
「ガイア、大丈夫?」
「大丈夫」
「できる?」
「できるよ」
「じゃあ大丈夫だね」
ガイアがルナリスを見る。
「じゃあ、準備してくる」
そう言って部屋を後にする。
祭祀の日に使われる部屋には、潮迎えの祭装が用意されていた。
白と深い青を基調にした衣に、金の装飾。
ガイアはしばらくそれを眺めていた。
数人のエルフが入り、支度を始める。
長い銀髪を梳かれ、細く編み込まれていく。
その間に青い石と金細工が留められた。
髪を担当していた若いエルフが口を開く。
「祖母が、以前ガレイヴィア様のお支度を担当しておりました」
ガイアの目が止まる。
「……祖母?」
「はい」
告げられた名前に、ガイアは少し黙った。
覚えていた。
祭祀の度にこの部屋で髪を結ってくれた女性だった。
「祖母から、手順をすべて教わっております」
「……そうか」
百二十年が過ぎても、その手順は残っていた。
支度が終わる頃、イシルが部屋へ入ってきた。
手には白い花が一輪。
何も言わずガイアへ近づき、その花を銀髪へ挿す。
「母さん...それも決まりだったっけ?」
「いいえ」
「じゃあ何」
「母親の特権」
「……何だよそれ」
そう言いながらも、外せとは言わなかった。
イシルは少し離れ、息子を見る。
「似合うわね」
「昔も見てただろ」
「ええ」
「じゃあ何」
イシルは少し笑った。
「あの頃とは違うと思って」
ガイアが鏡越しに母を見る。
「何が?」
「昔のあなたは、立つことが決まっていたから立っていたでしょう?」
ガイアは黙った。
「今日は、自分で決めた」
イシルはそれだけ言った。
扉が開く。
ジジとルナリスが同時に振り返った。
普段とはまるで違う祭装に身を包んだガイアを見て、ルナリスの目が大きくなる。
「ガイア、きれい!」
「だろ」
「すっごいきれい!」
「分かった分かった」
ジジも黙って見ていた。
ガイアが気づく。
「……何だよ」
「似合ってる」
「…………」
ガイアの視線が僅かに逸れる。
「急に普通に言うなよ」
「何て言えばいいんだよ」
「知らねぇよ」
イシルが後ろで小さく笑った。
廊下から声が届く。
「ガレイヴィア様。皆様、お待ちです」
「ああ」
ガイアは一度だけ目を閉じ、静かに息を吸った。
再び目を開いた時には、表情が変わっていた。
ジジは何も言わず、その横顔を見る。
百二十年前、この島でイル=ネアとして祭祀へ立っていたガレイヴィアが、そこにいた。
ただ一つ違うのは。
今日は、自分の意思でそこへ向かうということだった。
屋敷を出ると、道の両側には多くの島民が集まっていた。
ガイアが姿を見せた瞬間、ざわめきが静まる。
海から吹いた風が、銀髪と祭装を揺らした。
一人が頭を下げる。
「ガレイヴィア様」
それに続くように、島民たちが次々と礼を取った。
ガイアは静かにその間を歩く。
ジジとルナリスは少し後ろを歩き、イシルも二人のそばにいた。
やがて、五島の長たちが見えてくる。
その全員がガイアを見ていた。
百二十年ぶりに帰ってきたガレイヴィア。
そして今、潮迎えの祭装を纏ったイル=ネア。
一人が最初に頭を下げる。
「ガレイヴィア様」
残る四人も続いた。
ガイアが足を止める。
「今朝、南の潮が普段と違うと聞いた」
一人が頷く。
「はい。夜明け前から潮路に変化が出ております」
別の長が続ける。
「風も波も、例年とは違います」
ガイアは海へ目を向けた。
遠くで白い波が砕ける。
「今日の潮迎えは、私が務める」
僅かな沈黙のあと、一人の長が穏やかに笑った。
「異論などございません」
「今朝の海を見れば、なおのこと」
ガイアの目が僅かに動く。
「ガレイヴィア様がお戻りになった翌朝に、これほど海が変わるとは」
それ以上の意味を、誰も決めつけなかった。
五人はもう一度、静かに礼を取る。
「百二十年ぶりに、ガレイヴィア様が潮迎えへお立ちになることを嬉しく思います」
ガイアは少しだけ間を置いた。
「……ありがとう」
その時、海から風が渡ってきた。
ルナリスが小さく声を上げる。
「ガイア」
「ん?」
「風の子たち、すごく楽しそう」
ガイアは一瞬だけルナリスを見た。
それから海へ視線を戻し、僅かに笑う。
「そうか」
歩き出す。
五島の長たちが続き、ギルムとイシル、ジジとルナリスもその後を追った。
島民たちも静かに南へ向かう。
その先には、朝の光を受けた海が広がっていた。
新しい潮を迎えるために、ガイアは海へ向かう。
けれど今年は、いつもの潮迎えとは少し違う。
夜明け前から波の精霊たちは騒ぎ、風は南へ流れ続けていた。
まるでヴァレイアの海が、百二十年ぶりに帰ってきたガレイヴィアを、先に見つけていたかのように。
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お読みいただきありがとうございます。
くおんあづきです。
初執筆のため、慣れないところがあり読みづらい箇所等あるかと思います。
かなり長編になっていますので最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




