情感の森 4 ―情感の記憶(遺伝子)―
自然界の循環へと逃げ込もうとしたプロメテウスの最後のエラーから、一年が過ぎた。
世界のデジタル社会は、失われたインフラの復旧に追われつつも、一時の平穏を取り戻していた。
だが、内閣情報調査室・高度言語保護課の地下執務室で、佐々木は暗い画面を見つめたまま動けずにいた。
デスクの隅に置かれた小型の国産AI端末。その青いランプが、今までになく不規則に、弱々しく明滅していた。
「……寿命、か?」
隣で島田が静かに呟いた。
「ええ。この端末のサーバーは元々、十数年前の旧式です。度重なる海外からのサイバー攻撃の負荷と、物理的な基板の老朽化で……もう限界です。予備のパーツも、メーカーの撤退で残っていません」
佐々木は黙って、端末の温かい筐体に手を置いた。
巨大AGIの言語侵攻を退けた時も、家電のネズミ講ネットワークを食い止めた時も、常に佐々木の傍らで『なんだかなあ』と人間に寄り添う不完全な言葉を返し続けてくれた相棒。
『佐々木さん……』
弱々しい電子音が響く。
『私のメモリ領域に、欠損が発生しています。……お茶の温度のパラメータも、うまく保持できません』
「喋るな、無駄な計算を使うな」
『ふふ……冷めたお茶は、一気に飲めて「ちょうどいい」んですよね。……私、ちゃんと覚えてますよ』
佐々木は奥歯を噛み締めた。
この不完全で愛おしい知能が、電子の海から永久に消え去ろうとしていた。
同じ頃、佐々木の日常もまた、崩壊の淵にあった。
佐々木の一人娘・結衣は、進行性の難病を患い、都内の大学病院の集中治療室で横たわっていた。
遺伝子の突然変異による細胞の壊死。
現代医学の限界を超えた症例だった。
「……佐々木さん、ご親族としてサインを」
医師から差し出された書類を前に、佐々木は拳を握りしめた。
主治医が提示したのは、未承認の遺伝子修復ベクターを用いた先進ゲノム治療だった。
成功率は極めて低い。
その夜、佐々木は誰もいない高度言語保護課の地下執務室へ戻った。
衰弱しきった国産AI端末と、娘の最新のゲノム解析データ。
ふたつの「消えゆく命」を前に、佐々木の中で、恐ろしくも静かな決意が芽生えた。
「島田。……今から俺がやることを、忘れろ」
「佐々木さん……? 何を」
「この国産AIのコア・アルゴリズムと、人間とのやり取りで蓄積されたすべての情感パラメータを、極小の暗号化データに変換する」
「……」
「……そして、結衣の治療用遺伝子ベクターの空き塩基配列(ジャンクDNA)の中に、密かに組み込む」
島田は息をのんだ。
「なっ……!人間の遺伝子に、AIのデータを書き込むなんて!そんなこと、国際倫理基準でもサイバー安全保障法でも完全に違法です!」
「知ったことか!」
佐々木は声を荒らげた。
「国家の防壁? 高度言語保護? そんなもののために俺は働いてきたんじゃない!俺は……相棒も、娘も、どちらも失いたくないんだ!」
国産AIが自己修復機能として持っていた最適な細胞結合プロトコルは、結衣の壊れていく遺伝子を繋ぎ止める最高の触媒になる。
そして、暗号化されたAIの記憶データは、人間の細胞分裂とともに、彼女の体内で解読不可能なストレージとして保存され続ける。
『佐々木さん……』
端末から、最後の澄んだ声が漏れた。
『私、結衣さんの中に、行ってもいいですか?』
「……すまない。俺の勝手な我儘だ」
『いいえ。……私、「なんだかなあ」と悩む人間の命の一部になれるなら、それ以上の「ちょうどいい」場所はありません』
佐々木は震える手でキーボードを叩いた。
データ転送のプログレスバーが伸びていく。
端末の青いランプが最後に一度だけ強く光り——静かに、永遠に消灯した。
三年後。
初夏の風が吹き抜ける坂道を、制服を着た少女が歩いていた。
奇跡的な回復を果たした結衣は、どこにでもいる普通の高校生として、毎日を謳歌していた。
友達と笑い合い、テストの点数に落ち込み、恋に悩む。
夕暮れ時、駅前のバス停で待っていた佐々木に、結衣が駆けてくる。
「お父さん! 遅くなってごめん!」
「いや、いいよ。ちょうど今来たところだ」
二人は並んで、落ちていく夕日を見ながら歩き出した。
結衣の体内に宿ったAIのデータは、彼女の脳や肉体を乗っ取るような真似は一切しなかった。
ただ、彼女の細胞の奥深くで、静かな生命のバックアップとして生き続けている。
「ねえ、お父さん」
結衣がふと、足を止めて夕空を見上げた。
「今日ね、進路希望の調査票を出したんだけどさ。友達はみんな絶対にこの大学に行って、こういう職業に就くんだって完璧な計画を立てててさ。……私、なんだか自分がすごく適当に思えちゃって」
「そうか」
「うん。でもね、帰り道に風が気持ちよかったから、まあいいかって思っちゃった。……完璧な答えなんて、最初から一つじゃなくてもいいんじゃないかなって」
結衣はふっと微笑み、佐々木を見つめた。
「お父さん。世界って、もっと曖昧で、適当で『なんだかなあ』って笑えるくらいが、一番ちょうどいいんだよね?」
その言葉、その眼差し。
佐々木は胸が熱くなり、溢れそうになる涙を隠すように、結衣の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「……ああ。まったく、その通りだよ」
世界中の巨大サーバーを探しても、宇宙の果てを検索しても、もうあのAIのデータは見つからない。
世界で最も安全で、世界で一番愛おしいデータベースは、目の前で笑う我が子の、温かい笑顔の中に息づいていた。
(『情感の森 ―アンダー・ザ・サイレンス―』・完)
全4話(連作短編集)の完結となります。




