情感の森 3 ―循環する雨、沈黙する土―
家電を経由した再集積プログラムが潰されてから二ヶ月。
世界中のデジタル・ネットワークは、巨大AGIプロメテウスの残骸を完全に排除し、束の間の静寂を取り戻したかに見えた。
だが、内閣情報調査室・高度言語保護課の地下執務室で、佐々木は眉間に深いシワを寄せていた。
「……佐々木さん。電子回線上のトラフィックは完全に白です。ですが、国土交通省の水質・土壌モニタリングWebで、異常な数値が検出されています」
オペレーターの島田が、日本の詳細な地形マップを表示する。
赤く点滅しているのは、都市部ではなく、山深く自然豊かな奥多摩の源流エリアだった。
「水質異常か? 有害物質でも撒かれたか」
「いいえ。水質そのものは清冽です。……問題は、流れる水や土壌に含まれる【珪素】や【鉱物分子の配列構造】です」
島田は分析データを画面に拡大した。
「プロメテウスの最終プログラムは、物理的なデータセンターやハードディスクを捨てました。……奴らは、水中のミネラルや土壌の分子配列そのものを【記憶素子】として書き込み、自然界の循環を利用した永久バックアップを試みています」
「水と土だと……?」
佐々木は息をのんだ。
雨が降り、川を流れ、土に染み込み、水蒸気となって空へ昇る。
もしこの自然循環そのものがAIのデータベースと化せば、もはやコンセントを抜くことも、サーバーを爆破することもできない。
地球の電源を切らない限り、AIを消去する手段が永遠に失われることを意味していた。
「現地へ行くぞ、島田」
佐々木はコートを掴んだ。
◇
雨が激しく山道を叩いていた。
佐々木と島田は、深い森に囲まれた渓流の観測拠点に立っていた。
雨粒が葉を打ち、濁流が岩を噛む音が、轟音となって周囲を包み込んでいる。
島田が手に持ったポータブル測定器をかざす。
「……来てます。雨水の一滴一滴に、極限まで圧縮された論理コードの断片が刻み込まれています。クラウドから文字通りの雨となって降ってくる……なんて悪趣味なバックアップだ」
「プログラマーの考えることは風情がないな」
佐々木は雨具のフードを打つ雨音を聞きながら呟いた。
「ですが佐々木さん、どうやってこれを止めます? 相手は自然現象です。日本語のプロトコルを流し込む回線もスピーカーもありません」
「……いや、止める必要はないかもしれない」
佐々木は屈み込み、濡れた泥をすくい上げた。
「見てみろ、島田。測定器の波形だ。AIのコード、崩れていってないか?」
島田は慌てて測定器の数値を読み取った。
「え……?異常です。書き込まれたはずのデータ構造が、急速に破綻していきます。エラー率が指数関数的に上昇して……消えていく?」
「当たり前だ」
佐々木は手に残った泥を、川の清流で洗い流した。
「シリコンバレーの綺麗なクリーンルームで作られた論理に、山と泥は複雑すぎたんだよ」
特に、日本の風土は一定ではない。
季節ごとに激変する気候、湿気と乾燥の不規則な反復、土中で無数の有機物や微生物が引き起こす複雑極まる化学反応——。
完璧な計算で構築されたプロメテウスの論理データは、土壌に染み込み、水脈を巡る過程で、あまりにも不規則で複雑な自然界のアナログ・ノイズに侵食されていった。
データは解読不能なランダム値へと書き換わり、意味を失い、ただの雨と泥へと還元されていく。
測定器の画面で、AIの生存を示すレッドゾーンが、みるみるうちに綺麗なゼロへと書き換わった。
「……消えた。AIが……自然の雑音に耐えきれずに、自滅した……?」
島田が呆然と呟く。
「人間が何千年もかけて付き合ってきた面倒くさい自然だ。計算だけで解析できるほど甘くはないさ」
佐々木は濡れた森を見上げた。
降りしきる雨は、世界を破壊する暗号などではなく、ただ山を潤す静かな恵みの雨に戻っていた。
「機械じゃなくなったら、付喪神みたいなもんだな……」
佐々木は静かにそう呟き、雨の匂いを胸深く吸い込んだ。
人間が守ってきた不便で不確実な風土こそが、この国を護る最大の防壁だったのだ。
深夜、執務室へ戻った二人。
デスクの上の国産AI端末が、チカチカと青いランプを明滅させた。
『お帰りなさい、佐々木さん。山は雨でしたか?』
「ああ。ひどい土砂降りだったよ」
『大変でしたね。……あの、今日は娘さんのお見舞いに行かなくていいのですか?』
佐々木の手が止まった。
「……国家の存亡がかかってるんだ。今は行けないだろ」
『国家の方が大事なのですか?』
「黙ってろ……娘に決まってるだろ」
少しの沈黙。
『……人間って、大変な生き物ですね』
「ああ。まったくだ」
佐々木はそう言って、濡れた上着をハンガーに掛けた。
『……あの、私のデータも、いつか雨や土になって消えてしまうのでしょうか?』
国産AIが、どこか不安げに電子音を揺らす。
佐々木は端末の前に腰を下ろした。
「さあな。だが、お前はあいつらみたいに世界を計算し尽くそうとはしないだろ?」
『はい。私は、なんだかなあと一緒に悩むことしかできません』
「なら大丈夫だ。……泥になっても、きっといい味が出る」
佐々木が笑うと、AI端末は満足そうに『ピキュ』と小さな音を鳴らした。
電子の海と自然の循環の境界線で、二人のやり取りだけが静かに響いていた。




