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大学に入学して間もない春の季節に、俺は 白鬮木綿と出会った。
東京都内に校舎を構える、中堅の私立大学。俺と彼女は所属する学科は異なったが、偶然にも同じ、天文サークル(大学非公認)に所属することを決めていた。
このサークルは文字通り、天体観測を主な活動としている。しかし本当に星の好きな連中は、天文部(大学公認)に入部するのが通例だった。
天文サークル(大学非公認)に集まる連中は、「星を観察する」といった夜な夜なの集まりを正当化する理由を獲得し、そして悪用した、楽しいことや騒ぐことが好きな有象無象に過ぎなかった。
ここの通称は遊び人サークルであり、真の活動は星空の下でのバーベキュー。大学生活を適当にエンジョイしたいボンクラでチャランポランな俺にとっては、ピッタリなサークルだった。
「はじめまして、よろしくお願いします。私の名前は白鬮木綿です」
初めて白鬮木綿と話した時のことは、今でも鮮明に覚えている。新入生歓迎コンパの居酒屋で、席が隣同士となった時だ。
「えっと、苗字は……木綿さんって言うんですね」
この時は全員、胸元にガムテープを貼り付けて、そこに太い油性ペンで自身の名前を記載していた。
「もしも私たち結婚したら、私の名前は木綿木綿になっちゃいますね」
彼女は恥じらうように、それでいて戯けるように、小さく笑った。
「木綿って書いてユウって読むんだね。ユウちゃんって呼んで良いかな?」
彼女の胸元には、丁寧な美しい筆跡で、自身の名前が記載されていた。
「えぇ、構いませんよ」
「もー! 俺達同学年なんだから、タメ口にしようよ!」
「あっ、うん、わ、分かった!」
彼女は照れくさそうに、俺に微笑みかけた。
白鬮木綿の第一印象は「ちょうど良い」だった。話のトーンや俺との距離感に、全くストレスを感じなかったからだ。
それでも彼女は、この有象無象の集団においては、多少なりとも浮いているように見えた。純粋で無垢な印象を受けて、心配にすらなった。
「ねえ、どうしてユウちゃんはさ、このサークルを──」
「木綿くーん! 一緒に飲もうよぉ!」
2つ年上のS先輩に抱きつかれて、俺の体勢は大きく傾いた。首筋に熱い吐息がかかり、ぞわりと、無意識に鳥肌が立つ。
俺は努めて、明るい声を発した。
「ちょっ! 先輩!? 飲み過ぎじゃないですか!?」
S先輩は、同じ学科の上級生だ。俺が天文サークルに入部すると決める前から、何かとちょっかいをかけてくる人だった。
「おうおう! もうカップル成立か!?」
「木綿君イケメンだもんねぇ」
周囲が俺とS先輩を冷やかし、囃し立てる。俺はげんなりとした。こういったノリは大嫌いだった。
「木綿くーん。ちゅーしよ? ちゅー」
S先輩の腕が、俺の首に回った。俺はやんわりとそれを解こうとしたが、全く上手くいかなかった。つまり、この女性は酔っているわけではないのだ。それを理解した途端、背筋に冷たいものが走った。
「おー! キスしちゃえ!」
「キース! キース! キース!」
周りは熱に浮かされたかのように、どんどんと盛り上がっていく。この流れは、もう誰にも止められないのだと思った。
俺は早々に諦めて、抵抗することをやめた。キスだって初めてではない。別に減るものでもない。そう、自身に言い聞かせて。
しかし本当は、大学では恋だの愛だのとは関わり合いになりたくなかった。それらとは無縁の所で、ただ大学生活を適当に楽しみたかっただけなのに。
「あっ……」
白鬮木綿が呟いた。
「……はっ!?」
「マジか!?」
「タオルある!?」
彼女の手にあった透明のグラスが、するりと、机に自由落下した。
すると、不思議な連鎖によってグラスが次々と倒れ、机の上は一瞬にして、取り返しがつかないほど濡れ汚れてしまった。
さらには、その惨状を飾るかのように、もしくはダメ押しとばかりに、大げさなノイズを奏でながらグラスが粉々に割れる。
「やべーぞ! この店も出禁になっちまう!」
先ほどまでの嫌な熱は一気に冷め、全ての人が、顔を真っ青にした。
S先輩だって、例外ではない。首に回る腕が少し緩んだので、その隙に、俺は牢獄から抜け出した。そして何事も無かったかのように、掃除要員へと成り代わった。
ことの顛末。
あの事件の後、案の定、白鬮木綿は非難される形となった。
しかし意外なことに、この話が広がり大きくなるほど、S先輩や他のメンバーに対する批判が強まっていった。
事実ベースとして、S先輩は付き合っているわけでもない新入生に、無理矢理キスを迫ったのだ。しかも、衆人環視のなかで。
「そんなモノを見せられては、動揺してグラスを落としても致しかたない!」
「まず、周囲も止めるべきでは?」
「そんなこと、内輪ノリでも許されない!」
そのような論理で、まともな感性の人々は白鬮木綿を擁護した。
最終的に、この件は大学側が審判を下す流れとなった。コンプライアンスにうるさい時代だ。大学非公認のサークルといえど、無視するわけにはいかなかったのだろう。──後になって、大学側が非難されないために。
俺は何度か学生課に呼び出されて、事実確認をされた。多分、白鬮木綿も同様に。
S先輩は「酔っていて記憶が曖昧だ」と弁解したようだった。それ以外の言い訳では、分が悪いと考えたのだろう。
そうはいっても、酔っていたという言い訳が通用するわけはない。天文サークル(大学非公認)は1ヶ月の活動停止処分となった。そしてS先輩並びに他のメンバーは正式な場で、俺と白鬮木綿に謝罪をした。
「本当に辞めちゃうの? 天文サークル」
俺は、同じベンチに座る白鬮木綿に声をかけた。
正式な謝罪を受けた後、俺たちふたりは、なんとなく一緒に歩いていた。そして誰もいない公園のベンチに、どちらともなく座った。彼女はこの2週間ほどで、少しやつれたように思う。
「えぇ……、あ、うん。私のせいで不快になった人もいるわけだし、これから先、活動に参加しにくいし。それに、サークルの雰囲気は私に合っていなかったと思うし」
「そっかぁ……」
雰囲気に合っていないという点においては、深く共感できた。
「……あのさ、ずっと気になってたんだけど」
俺は一度言葉を切って、それから黙り込んだ。
ずっと聞こうと思っていて、今まで先延ばしにしてしまったことがある。それを今、確かめなければいけない。
俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「あのさ、俺のこと、もしかして助けてくれた?」
「──えっ?」
彼女は不意を突かれたようだった。目を大きく開たまま固まっている。俺は慌てて、言葉を補足した。
「あ、うん、俺のことを助けようと思って、わざとグラスを落としたんじゃ……」
そこまで聞くと、彼女の表情は花が咲いたようにほころんだ。葉桜となった木々が、風で大きく揺れる。桃色の花弁がまた散って、彼女を引き立てた。俺は心臓の鼓動が、速まるのを感じた。
「ううん! あれは偶然で、たまたまだよ!」
彼女は笑う。美しく笑う。
「でもね、木綿くん。嫌だったら嫌って言わないとダメだと思うよ。そうしないと、心が摩耗しちゃうよ? きっと心に、見えない傷が残っちゃう」
俺は目を見開いた。
──彼女は分かっていたんだ。あの熱に浮かされた歪な空間で、彼女だけが、俺の気持ちを。
「じゃあ、私はもう行くね。木綿くん、さようなら」
「──あっ! 待って!」
俺は咄嗟に彼女の手首を掴んでいた。このまま「さよなら」なんて、そんな悲しい終わりにはしたくなかった。
「木綿くん?」
「あ、あのさ。もし良ければ、連絡先を教えてくれないかな」
彼女は驚いたように目を見開いた。それから恥ずかしそうに、それでいて愛らしく頬を赤らめ、小さく頷いた。




