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第46話 剣聖レオンからの共同依頼

 香草と肉の匂いが、赤猫亭の裏口まで流れていた。


 閉店後である。


 客はほとんど帰り、通りのざわめきも遠い。


 それでも厨房だけは、まだ妙に忙しかった。


「明日の仕込みだよ」


 マルタは当然のように言った。


「閉店後も働くのか」


 アルトは木箱を抱えながら言った。


「明日も客は腹を空かせるからね」


「客の腹は俺が支えてるのか」


「そうだよ。立派な仕事だ」


「褒めても労働は軽くならないぞ」


「じゃあ褒めないよ。運びな」


「急に厳しいな」


 厨房の隅で、ミアが干し果物を数えている。


 数えているというより、たまに一つ減らしている。


 ガルドは棚の金具を直している。


 ガルムは入口近くで、外の気配を確認していた。


 ミナとリリは、治療道具の棚を整理している。


 白い花は、今日もそこにあった。


 入口ではない。


 神棚でもない。


 治療道具の横。


 誰かの手が届く、邪魔にならない場所。


 アルトはその花を見るたびに、ここ数日の面倒を思い出す。


 沈黙は沈黙。


 見せないための記録。


 届かせることと、晒すことの違い。


 考えれば考えるほど、剣で片づかない話ばかりだった。


 正直、疲れていた。


 認めたくはないが。


『赤猫亭、閉店後も働いてる』

『奈落新人、生活労働継続』

『沈黙は沈黙、仕込みは仕込み』

『意味をつけるな』

『でも飯には意味があるだろ』


「飯にまで意味をつけるな」


 アルトが空へ言うと、マルタが厨房から返した。


「飯には栄養があるよ!」


「意味と栄養は違う!」


「腹に入れば似たようなもんだよ!」


 ミアが笑った。


「女将、強いね」


「強すぎるんだよ」


 アルトは木箱を床に下ろした。


 腰が少し重い。


 戦闘で疲れたわけではない。


 ここ数日の、言葉と言葉の押し合いのせいだった。


 ガルムがそれに気づいたように言う。


「疲れているな」


「仕込みのせいだ」


「違うだろう」


「そのせいにしておけ」


 ガルムは少しだけ口元を緩めた。


「守る戦いは、消耗する」


 アルトは返事をしなかった。


 言われなくても分かっている。


 赤猫亭を守る。


 ミナの言葉を守る。


 リリの沈黙を守る。


 オルグの名前を守る。


 記録の形を守る。


 守るものが増えるほど、手は足りなくなる。


 それでも、誰かがやらなければならない。


 そういう話だった。


 ミナが棚の前で、小さく息を吐いた。


 アルトはそちらを見る。


「大丈夫か」


 ミナは振り返った。


「はい」


 少し間を置く。


「……少し、疲れました」


「だろうな」


「でも、昨日の記録は出してよかったと思います」


「ああ」


「訂正記録も、出してよかったと思います」


「ああ」


「でも、守り続けるのは、難しいですね」


 アルトは頷いた。


「難しいな」


 ミナは白い花を見る。


「セシリアさんも、きっとそうなのでしょうね」


「かもな」


 セシリア。


 完璧な聖女。


 少しずつ、完璧ではいられなくなっている人。


 彼女もまた、自分の言葉を守ろうとしている。


 だが、その言葉は神々や信奉者の手で別の形に変わっていく。


 アルトは少しだけ嫌な顔をした。


「考えると、面倒が増えるな」


 ミアが横から言う。


「考えないと、もっと増えるやつ」


「分かってるから嫌なんだよ」


 その時、神界端末が鳴った。


 軽い通知音ではない。


 依頼通知の音。


 店内の空気が、少しだけ変わった。


 アルトは端末を見た。


【共同依頼申請】


【送信者:剣聖レオン】


 ミアが耳を立てた。


「来た」


 ガルムの目が細くなる。


 ガルドは手を止めた。


 ミナも顔を上げる。


 アルトは画面を開いた。


【剣聖レオン】


《夜分にすまない》


《第三層で未帰還者が出た》


《救助対象は、下層配信者三名、護衛二名、荷運び一名》


《場所は第三層・灰燼回廊付近》


《魔物の群れと、地形変動の報告あり》


《君たちの協力を願いたい》


 短い。


 余計な飾りはない。


 だが、最後に一文だけあった。


《最短で動く必要がある》


 アルトはその一文を見つめた。


 ガルムが低く言う。


「灰燼回廊か」


「知ってるのか」


「第三層の入口から東に折れた先だ。視界が悪い。灰が舞う。足場が崩れやすい」


「救助向きじゃないな」


「まったく向いていない」


 ミアが端末を覗き込む。


「未帰還者に荷運びがいる」


 ミナの顔が少し変わった。


 昨日の記録。


 肩当て。


 浅い呼吸。


 荷運び。


 つながりたくないものが、少しだけつながる。


 マルタが厨房から出てきた。


「行くのかい」


 アルトは答える前に、もう分かっていた。


「行く」


 ミナも頷いた。


「私も行きます」


 リリが一歩前に出かけた。


 ミナが見る。


「リリさん」


「私は……」


 リリは言葉を止めた。


 自分の足を見る。


 まだ完全ではない。


 ミナは優しく首を振った。


「今回は、赤猫亭で待っていてください」


 リリは悔しそうに唇を結んだ。


「はい」


 それでも、彼女はすぐに包帯箱を持った。


「準備は手伝います」


「お願いします」


 ミナが頷く。


 リリの顔が少しだけ明るくなった。


 カイが皿を置いて言う。


「俺たちは?」


 アルトは見る。


 カイ、ボロス、ダリオ、エルザ。


 彼らは、助けられた側だ。


 だが、もうただの背景ではない。


 マルタが先に言った。


「あんたたちは店を手伝いな。帰ってくる連中に飯を出すよ」


 カイは背筋を伸ばした。


「はい」


 ボロスも頷く。


 ダリオは奥から、まだ青い顔で言った。


「荷運びがいるなら、荷の扱いで分かることがあるかもしれない」


 ミナがすぐに制した。


「起きないでください」


「起きない。話すだけだ」


 オルグがいつもの席から低く言った。


「荷運びは、壊れた荷を捨てられない」


 アルトが見る。


 オルグはスープの器を置いた。


「荷が残っているなら、その近くにいる可能性がある。荷を置いて逃げるのは、最後の最後だ」


「覚えておく」


 アルトは頷いた。


 こういう情報は、届く。


 必要なところに刺さる。


 ブルーノがいれば、そう言いそうだった。


 噂をすれば、扉が開いた。


 青い外套が揺れる。


「呼ばれた気がした」


 アルトは振り返る。


「呼んでない」


「顔が呼んでた」


「その外套ごと外へ戻れ」


「厳しい」


 ブルーノは店内の空気を見て、すぐに表情を変えた。


「依頼か」


「レオンからだ」


 ブルーノの目が鋭くなる。


「第三層?」


「灰燼回廊」


「最悪寄りだな」


「知ってるのか」


「切り抜きで何度か見た。視界が悪い。映像が荒れる。事故が多い。だが、炎と灰の絵が映える」


「最後が嫌だな」


「事実だ」


 ブルーノは端末を取り出しかけて、止めた。


 アルトはそれを見た。


「また癖か」


「ああ」


「折れ」


「努力する」


「守れ」


「守る」


 ブルーノは端末をしまった。


 その一拍が、以前とは違った。


 ガルムが言う。


「配信はどうする」


 店内が少し静まる。


 この世界では、配信を切ることは簡単ではない。


 神々は見ている。


 見られている。


 だが、何をどう見せるかは、少しずつ選べるようになってきた。


 ブルーノが言う。


「救助対象の顔と名前は出さない。状況共有は必要最低限。位置情報と危険情報は出す。切り抜きは禁止できないが、こちらから素材を与えすぎない」


 アルトは少しだけ眉を上げた。


「準備がいいな」


「昨日から考えてた」


「暇なのか」


「仕事だ」


 ミアが笑う。


「編集者っぽい」


 ブルーノは嫌そうな顔をした。


「まだ解説者でいい」


「照れてる」


「違う」


 コメント欄が流れる。


『第三層きた』

『灰燼回廊!?』

『久々の攻略回』

『レオン共同依頼』

『最短で動く必要がある、か』

『アルト、顔が嫌そう』

『救助対象の顔出さない方針、了解』


 アルトは最後のコメントを見た。


 了解。


 そういう神もいる。


 まだ全員ではない。


 だが、少しずつだ。


 マルタが厨房へ戻りながら言う。


「行くなら食べてから行きな」


「今からか?」


「空腹で人は救えないよ」


 セシリアも似たようなことを言っていた。


 食べないと救えない。


 アルトは少しだけ笑った。


 鍋の中には、肉と根菜の煮込みが入っていた。


「……まともな飯だ」


「失礼だね。いつもまともだよ」


「いつも労働の味がする」


「働いた後の飯はうまいだろ」


 反論できなかった。


 アルトは座った。


 全員が短く食べた。


 笑いは少ない。


 だが、沈んでもいない。


 久しぶりに、体が動く前の空気だった。


 ◇


 準備は早かった。


 ミアは斥候用の小道具を腰に下げる。


 ガルドは短時間で補修した肩当てを確認し、予備の留め具を袋に詰めた。


 ガルムは第三層の簡易地図を広げる。


 ミナは治療道具を選ぶ。


 リリがその横で、包帯を渡す。


「これは?」


「持っていきます」


「これは?」


「少し多いですが、今回は必要です」


「水薬は?」


「二本。いいえ、三本」


 リリは頷き、袋に入れる。


 手は震えていない。


 置いていかれる悔しさはある。


 でも、役割を見つけている。


 アルトはそれを見て、何も言わなかった。


 言えばまた余計になる。


 かわりに、荷物の紐を結んだ。


 リリが気づく。


「ありがとうございます」


「ほどけたら困るからな」


「はい」


 ミナが小さく笑った。


「気遣い前衛ですね」


「ミナまで言うな」


「すみません」


「謝るなら言うな」


 少しだけ笑いが戻る。


 ガルムが地図を指した。


「灰燼回廊は、入口から二手に分かれる。北回りは遠いが安定している。東回りは短いが、崩落が多い」


「レオンは東を選ぶな」


 アルトが言うと、ガルムは頷いた。


「あいつなら選ぶ」


「最短だからか」


「ああ」


 その言葉に、店内の空気がわずかに張る。


 最短。


 レオンの正しさ。


 アルトの苦手な言葉。


 ブルーノが端末を見て言う。


「レオン側の神界コメントは、もう盛り上がってる」


「早いな」


「剣聖と奈落新人の共同救助。見出しだけで強い」


「見出しで救助するな」


「俺に言うな」


 コメントが流れる。


『レオン様とアルト再共闘!』

『最短救助くるぞ』

『寄り道新人もいる』

『どっちが正しいかまた見られる』

『見世物にするな』

『でも正直楽しみ』

『両方分かるから困る』


 アルトは舌打ちしかけて、やめた。


 楽しみ。


 それが悪いとまでは言えない。


 自分たちも、これから動く。


 戦う。


 救う。


 そこに熱が生まれるのは分かる。


 だが、未帰還者がいる。


 灰の中で、誰かが息を潜めている。


 そのことだけは、忘れたくなかった。


 アルトは短く言った。


「行くぞ」


 ミアが頷く。


「うん」


 ガルムが剣を背負う。


「急ぐ」


 ガルドが工具袋を持つ。


「留め具は持った」


 ミナが治療袋を肩にかける。


「行けます」


 ブルーノが立ち上がった。


 アルトは眉をひそめる。


「お前も来るのか」


「来る」


「戦えないだろ」


「戦わない」


「なら何をする」


 ブルーノは少しだけ端末を掲げた。


「見せないために、見る」


 アルトは言葉に詰まった。


 ブルーノは続ける。


「何を映さないか。何を出さないか。何を出すべきか。それを現場で判断する」


 ミアが小さく言う。


「編集者だ」


「違うと言いたいが、今日は否定しにくい」


 ブルーノは苦笑した。


 ガルムが見る。


「邪魔なら置いていく」


「邪魔にならないようにする」


「守るとは言わないのか」


 ブルーノは一拍置いた。


「守る」


 ガルムは頷いた。


「なら来い」


 アルトはため息をつく。


「面倒なのが増えた」


 ブルーノは軽く笑う。


「今さらだろ」


「それはそうだ」


 マルタが弁当の包みを投げた。


 アルトが受け取る。


「重い」


「人数分だよ」


「多くないか」


「救助対象も食うだろ」


 アルトは包みを見た。


 重い。


 だが、その重さが妙に心強かった。


「行ってくる」


 マルタは鍋をかき混ぜながら言った。


「帰ってきな」


「命令か」


「飯屋から出る客への決まり文句だよ」


 アルトは少しだけ笑った。


「ああ」


 リリが入口までついてきた。


「ミナさん」


「はい」


「帰ってきてください」


 ミナは頷いた。


「帰ってきます」


 リリはアルトも見た。


「アルトさんも」


「分かってる」


「ちゃんとです」


「ちゃんと帰る」


 オルグがスープを飲みながら言った。


「痛い時は痛いと言え」


 アルトは振り返る。


「お前に言われるとはな」


「言えるようになった」


「成長したな」


「うるさい」


 店内に小さな笑いが起きた。


 その笑いを背に、アルトたちは赤猫亭を出た。


 ◇


 第三層入口。


 灰の匂いがした。


 第一層や第二層とは違う。


 乾いた土と、焼け残りと、古い煙が混じったような匂い。


 空気がざらついている。


 遠くで石が崩れる音がした。


 神界コメントが一気に増える。


『第三層きた』

『空気変わった』

『灰燼回廊、視界悪いな』

『レオンは?』

『レオン様もう来てる?』


 アルトは答えなかった。


 すぐ前に、白い外套の男が立っていた。


 レオン。


 剣聖。


 相変わらず、場の中心に立つのがうまい男だった。


 灰の舞う入口に立っているだけで、絵になる。


 背筋はまっすぐ。


 剣は腰。


 表情は穏やか。


 だが、その奥にはもう戦闘の計算がある。


「来てくれて助かった」


 レオンは言った。


「断る理由がない」


 アルトは答える。


 レオンは少し笑う。


「そう言うと思っていた」


「分かったように言うな」


「ある程度は分かる」


「嫌なやつだな」


「よく言われる」


 ミアが小声で言う。


「芋の件は?」


 レオンは真面目な顔でミアを見た。


「努力した」


「結果は?」


「言わないでおく」


 アルトは半眼になる。


「今、言いかけただろ」


「努力はした」


「守れてない寄りだな」


 コメント欄が少し沸く。


『芋の約束回収』

『努力したw』

『レオン様、真面目に我慢』

『ここで笑わせるな』

『でも緊張が少し抜けた』


 ブルーノが後ろで呟く。


「良い緩みだ」


 アルトは振り返る。


「解説するな」


「職業病だ」


「病なら治せ」


「治療職はいる」


 ミナが真面目に困った顔をした。


「それは、治せるのでしょうか」


「治さなくていいです」


 ブルーノが即答した。


 少しだけ笑いが起きた。


 レオンはその笑いを見てから、すぐに表情を戻した。


「状況を共有する」


 全員の空気が変わる。


 レオンは灰燼回廊の地図を広げた。


「未帰還者は、ここで最後に確認された」


 指が東側の短路を示す。


「第三層入口から東へ三百歩。崩落地帯の手前だ。護衛二名のうち一人が負傷。荷運びが足を取られた可能性がある。魔物は灰狼と火喰い鼠の群れ」


 ガルムが言う。


「北回りは?」


「時間がかかる」


「東は崩れる」


「分かっている」


 レオンは迷わず言った。


「だから東を行く」


 やはり。


 アルトはそう思った。


 最短。


 最も早く、多くを救える道。


 レオンらしい判断だった。


 そして、おそらく正しい。


 ミナが地図を見る。


「負傷者がいるなら、時間は重要です」


「同感だ」


 レオンは頷く。


「だから、ここからは速度を優先する」


 アルトは地図の左端を見た。


 崩落地帯の横。


 細い脇道がある。


 ほとんど消えかけた線。


 地図上では重要ではない。


 だが、灰の流れがそこへ向かっている。


 ミアも同じ場所を見ていた。


「アルト」


「ああ」


「変な風がある」


 レオンが見る。


「脇道か」


「たぶん」


 ミアの耳がぴくりと動く。


「小さい音がする。石じゃない。金属か、鎖」


 ガルドが反応した。


「荷具の音かもしれない」


 レオンは一瞬だけ考えた。


 ほんの一瞬。


 そして言った。


「本隊を優先する」


 その判断は早かった。


「確認する余裕は?」


 アルトが聞く。


「全員で寄る余裕はない」


「全員で、か」


 レオンはアルトを見る。


「君なら、行くだろう」


「分かってるなら話が早い」


 レオンは少しだけ目を細めた。


「分かれて動くのは危険だ」


「最短なんだろ」


 アルトが言う。


 レオンは黙った。


 皮肉ではない。


 事実だった。


 本隊を救う最短。


 脇道を確認する最短。


 道が二つあるだけだ。


 レオンは短く息を吐いた。


「三分だ」


「五分」


「三分半」


「四分」


「分かった」


 ミアが小声で言う。


「交渉が細かい」


 ブルーノが呟く。


「切り抜きたい」


 アルトが睨む。


「切るな」


「分かってる。今のは胸にしまう」


「胸にも保存するな」


 レオンは地図を畳んだ。


「私は本隊へ向かう。アルト、ミア、ガルドは脇道を確認。ミナは私と来てほしい。負傷者がいる」


 ミナは一瞬だけアルトを見る。


 アルトは頷いた。


「行け」


「はい」


 ガルムが言う。


「俺はレオン側につく。戦力が必要だ」


「頼む」


 ブルーノが手を挙げる。


「俺は?」


 アルトは即答した。


「安全な方」


「どっちだ」


 全員が一瞬黙った。


 安全な方などなかった。


 レオンが言う。


「ブルーノは分岐点に残れ。両側の情報をつなげ」


「了解」


 ブルーノは端末を握る。


「顔と名前は出さない。位置と危険情報だけ出す」


「守れよ」


 アルトが言う。


「守る」


 その言葉は、前より軽くなかった。


 ◇


 灰燼回廊に入る。


 視界は悪い。


 灰が舞う。


 足元が滑る。


 遠くで魔物の鳴き声が響く。


 神界コメントが加速した。


『分岐きた』

『レオン最短本隊』

『アルト寄り道確認』

『またこの構図』

『でも今回は分担だ』

『顔出しなし了解』

『灰で見えないの逆に怖い』


 アルトはコメントを追わなかった。


 ミアが先を行く。


 低く、速く、猫のように。


 ガルドは足場を見ながら進む。


「ここは新しい崩れ方だ」


「分かるのか」


「灰の乗り方が違う」


「便利だな」


「見れば分かる」


「俺には分からん」


「見方が違う」


 その言葉に、アルトは少しだけ笑った。


 最近、そんな話ばかりだ。


 見る。


 聞く。


 届く。


 守る。


 そして今は、走る。


 脇道の奥から、かすかな金属音がした。


 ちり、と。


 ミアが手を上げる。


「止まって」


 アルトは即座に止まった。


 灰の向こう。


 崩れた岩の隙間。


 そこに、荷具の金具が引っかかっていた。


 そして、その奥から小さな声がした。


「……誰か」


 コメント欄が一瞬、止まった。


 アルトは灰の中へ踏み込む。


 ガルドが低く言う。


「崩れる」


「どこを踏めばいい」


「右。次は左。中央は駄目だ」


「分かった」


 ミアが奥を覗く。


「一人いる。小さい。荷運びじゃない。たぶん、配信者」


「状態は?」


「足が挟まってる。声が弱い」


 アルトは奥へ進んだ。


 灰で喉が焼ける。


 足元が沈む。


 岩が鳴る。


 だが、声は確かにあった。


 誰にも拾われなかった声。


 レオンの最短では通らない場所。


 神々の視界にも、灰でほとんど映らない場所。


 そこに、一人いた。


 若い少年だった。


 年はカイとそう変わらない。


 片足が崩れた石材に挟まっている。


 顔は灰で汚れ、端末は割れている。


 配信は、切れていた。


 神々のコメントが遅れて流れる。


『いた』

『映ってなかった』

『灰で見えない』

『本当にいた』

『寄り道正解?』

『いや本隊は?』


 アルトは少年を見る。


「聞こえるか」


 少年が目を開ける。


「……助け、呼んだ」


「ああ」


「誰も、見てなかった」


 その言葉で、アルトの胸の奥が冷えた。


 誰も見ていなかった。


 観測の世界で。


 神々が見ている世界で。


 この少年は、見落とされていた。


 アルトは短く言った。


「今は見てる」


 少年の目が揺れる。


「でも、顔は出さない」


 アルトは続けた。


「助けるだけだ」


 少年は、泣かなかった。


 ただ、浅く息を吐いた。


 ミアが後ろで言う。


「アルト、急いで。奥から音」


 灰の向こうで、何かが動いた。


 火喰い鼠。


 一匹ではない。


 群れだ。


 ガルドが工具袋から短い杭を取り出す。


「三分で抜く」


「四分もらった」


「崩れ方が変わった。三分だ」


「分かった」


 アルトは拳を握った。


 久しぶりに、分かりやすい敵が来た。


 剣で終わる話ではない。


 だが、剣で、拳で、時間を稼げる話ではある。


 神界コメントが一気に沸く。


『火喰い鼠の群れ』

『アルト側、戦闘入る』

『少年を映すな』

『顔隠れてる』

『灰で見えないけど危ない』

『投げ銭準備』


 アルトは灰の中で構えた。


「来るなら来い」


 ミアが短剣を抜く。


 ガルドが少年の足元に膝をつく。


 火喰い鼠の赤い目が、灰の奥でいくつも光った。


 その時、別方向からレオンの通信が入る。


《こちら、本隊と接触》


《負傷者多数》


《魔物の群れ、予想より多い》


《アルト、状況は》


 アルトは赤い目を見たまま答えた。


「こっちにも一人いた」


《戻れるか》


「救ってから戻る」


 少しだけ間があった。


《分かった》


 レオンの声は落ち着いていた。


 だが、その奥に、急ぎがある。


《こちらも急ぐ》


 通信が切れる。


 アルトは息を吐いた。


 最短で救う者。


 寄り道で拾う者。


 また、その形になった。


 だが、今回はどちらも必要だった。


 アルトは灰の中で一歩前に出る。


「ミア、右を止めろ」


「了解」


「ガルド、抜けるか」


「抜く」


「少年、目を閉じてろ」


 少年が震える声で言った。


「……見ない方がいい?」


「見なくていい」


 アルトは笑わずに言った。


「助かったあとで、飯を食え」


 火喰い鼠が跳んだ。


 アルトは拳を振り抜いた。


 灰の中で、赤い火花が散った。


 神々の文字が、遅れて爆ぜる。


『来た』

『奈落新人、戦闘開始』

『顔じゃない、救助を見ろ』

『投げ銭いくぞ』

『酔拳くる?』

『剛腕待機』

『ここで無双しろ、アルト』


 アルトは二匹目を蹴り飛ばしながら、低く呟いた。


「勝手に期待してろ」


 灰の向こうから、さらに赤い目が増えた。


 少年の足元で、ガルドの工具が石を噛む。


 ミアの短剣が灰を裂く。


 第三層の奥で、レオンの剣光が白く走った。


 そして、アルトの拳に、神々の投げ銭の光が宿り始めた。


 久しぶりに。


 分かりやすく、殴るべきものが目の前にいた。


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