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第八話



 この町に到着してから何日経ったのでしょう。ノックがあって扉が開きました。

 今日もベッドの上に女の人は座っています。ぼぅっと窓の外を眺めていました。入ってきた旅人さんはテーブルの上を見遣ります。最初の四日間は全く手も付けられていなかったお盆に乗せられていた食事は、今日もきれいに無くなっていました。それを見て旅人さんは少し顔を和らげました。

 もともとあまり喋らない方の旅人さんは無言のままベッドの方へと近づいていきます。お互いの顔が向き合いそうなところまで来ると、女の人はやっぱり今日もふいっと顔を背けてしまいました。お盆を受け取ることもありません。少しため息をついてテーブルの上のお盆と交換していきました。


 彼女の胸元には今、青い宝石の付いたブローチはありません。


 一日のうちのほとんどをずっとベッドの上で窓の外を見て過ごす彼女は、ほとんど何も考えていない事が多かったのですが、時々色々なことを思い出して、色々なことを考えました。時間だけはたくさんあります。

 思い出されることは、お父さんとつつましくも幸せに暮らしてきた、彼女の生きてきた中で一番幸せだった時のことがほとんどでした。ほんの数ヶ月前の憎しみに駆られていた時のことはあまり思い出すことがありませんでした。

彼女はお父さんの顔を思い出すたびに、とても幸せだったこと、そしてとても悲しかったことで胸が一杯になりました。幸せだったあの時間を奪い、お父さんの命を縮めたかつて愛したあの町が許せませんでした。自分たちのようにあの町で幸せに暮らしている人たちも多いことを知っています。だからなおのこと許せなかったのです。でもめちゃくちゃにしたところで彼女のお父さんはもう戻らないなんてことは、頭のいい彼女にとってすぐにわかることでした。それでも彼女の炎は消えることはありませんでした。


 たくさんの人を苦しめ、復讐を果たした今の彼女にあったのは、達成感でもむなしさでもなく、ただの失望でした。幸せだったあの頃を思い出しても、もうその時には戻ることはできない。だったらせめて、あの時以上の幸せがないこの世界に別れを告げて、神様のもとへ行ったお父さんのところへ行きたい。それなのに最後の最後で自分の一番の望みが失われ、ただここに居るだけの日々。

 命を絶つのなら別にこの部屋の中でもできました。でも、今はどうしてなのかそんなことをすることができません。あの日、あの時、夕焼けの海の傍らでは鴻毛こうもうのようなものと感じていたはずなのに、それを邪魔する人もいないのに、出来ないでいました。

 怖いというよりも、この部屋にいると何かがそれをさせないようにしている。そんな感じでした。

 お父さんの顔を思い出すたびに、彼女自身が忘れている、何かもっとずっと大切なことがあった、そんな気持ちが胸の中にわきました。でもそれが何だったのか、いくら思い出そうとしてももやがかかったようで、はっきりとしません。




 また何日も経ちました。旅人さんと女の人が出会ってから二ヵ月くらいは経ったでしょうか。旅人さんはまだこの海辺の町に居ました。この町はとても美しく、めずらしく長居をしていた旅人さんを飽きさせることがありませんでした。

 白い石造りの家々が立ち並び、砂漠とは異なる強い日差しとそれをきらきらと反射している水面みなもは、まるでこの広い世界にたくさんの宝石が散りばめられているかのようです。空に浮かぶ雲々は空の青さを、そしてこの青空は雲の白さをより一層映えさせていました。

 砂浜の方を見ればそこにも空がありました。どこまでも広がるマリンブルーの世界と、打ち寄せる白波。そしてそれが奏でる波の音。目を奪われる美しさだけでなく、体も心も癒すかのような穏やかな響きが染み込んできます。

 この町で少し働きながら、毎日女の人のところに通いました。旅人さんがマルキスさんの一人娘に「ほ」の字になったと町の中で噂が立ちます。町の人に色々言われても、旅人さんは旅を中断してまで彼女の世話をする自分の本心がどこにあるのかよくわからなかったのですが、少なくとも生まれ故郷をめちゃくちゃにした彼女を嫌っているわけではないということだけはわかっていました。

 根無し草の彼にとって、あの町が彼女の手によってどんなことになったとしても、それはあくまで他人事。そんな感覚もあったのですが、彼女が根っこから悪魔のような恐ろしい人間だとはどんなに考えても信じられないのです。


 初めて会った時から感じていた彼女が持つ悲しみ。

 緑の根付く大地を撫でた時の彼女が見せた慈しみ。

 朱色の世界で必死に訴えた彼女の抱えていた怒り。


 いろいろな人を見てきた旅人さんは、彼女がどれほど情愛深くてすばらしい人なのか、ちゃんと分かっていました。それが大き過ぎたがゆえに起こした過ち。沈みゆくお日様を背負った彼女に感じた哀れみが、旅人さんをこの地に留めていたのでしょうか。


 その日も頼まれた仕事を終えて、彼女の家に食事を運んでいきました。毎日運ぶ食事は旅人さんが作ったのではなく、ご近所の人が交代で彼女のために作ってくれたものでした。気の良いこの町の人々は旅人さんにもご飯を分けてくれて、旅人さんもとても助かっていました。そのお礼に、この町で働かせてもらっていたのです。

 ノックをして入ります。今日もやっぱり女の人は窓の外を見ていました。旅人さんがいつものように近くに歩いていきます。


「…ねぇ、旅人さん」


 この町に来てから初めて女の人が話しかけてきました。驚いて目を丸くした旅人さんは足を止めていました。


「ねぇ、旅人さん、聞きたいことがあるの」


 旅人さんは、何だい? と落ち着いた調子で聞き返しました。彼女の方から尋ねてきたのに、何も言わないまま時間が過ぎていきます。どこから話そうか整理をつけているようでした。


「…私は、どうして死ねないのかしら。もう終わりにしたいって話しましたよね。今までどれだけでも時間があったのに、それでも私はこうして息をしている。あなたが持ってきてくれる食事も摂っている。…どうして、しないのかしら」


 旅人さんは町の人から聞いていました。彼女たち親子が今まで暮らしてきた世界とは全く異なり、彼女たちが見たことのない美しさに溢れているこの町で、彼女が父親と本当に仲むつまじく暮らしていたことを。病ゆえ伏せることが多かった彼女の父と、この家で幸せに暮らしていたことを。

 旅人さんは気付きました。テーブルの上に持ってきたお盆を乗せ、常に腰のベルトに着けているポシェットの中を探ります。そして彼女の元に歩み寄りました。彼女の正面まで来ると床に膝をつき、彼女の手をとりました。

 何かを渡されたことに気が付いた女の人は、自分の手のひらに握らされた何かを、手を開いて見ました。


 それはあの青い宝石の付いた、母の形見のブローチでした。

 夫から妻へ、そして母から娘へと受け継がれた大切な家族の愛のしるし。


 失って久しかったそれを目にした彼女は、突然ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めました。再び握りしめて声を押し殺して、泣いています。旅人さんは膝をついたまま、ベッドに座っている彼女を見上げて言いました。


 それを渡してくれた人のことを忘れてはいけない。たとえどれほど辛かったとしても。

 その人が何を望んでくれたのか、忘れてはいけない。


 その言葉が、彼女が思い出せないでいたことを、暗い底から引っ張り出してくれました。


 父は望みました。娘が幸せに生きることを。

 母を亡くし、父を失っても、たとえ今が暗かったとしても。

 いつか輝く明日があることを信じて生きてくれることを。


 声にならない泣き声が部屋の中いっぱいに広がりました。

 彼女は悔やみました。自分が愛していたよりもずっとずっと愛してくれたお父さんの思いを忘れていたことを。

 泣き崩れていた彼女を抱きしめ、涙が絶えるまで旅人さんは傍に居てくれました。





 それからしばらくして、彼女は部屋の中から外に出るようになりました。そこに悲しい顔はもうありません。この町が一層明るくなったかのようでした。






















「…やはり、行かれてしまうのですか?」

 深い緑色をした車の後部座席にはたくさんの旅荷物が詰め込まれていました。空っぽだった大きな缶カンの中にはたっぷりと車の燃料が入っています。

「…あの日、砂の海から柔らかな緑の土に出た日に言ったこと、嘘じゃないんですよ」

少し頬を赤らめて続けます。

「それに今日まで一緒にいてくれたじゃないですか? 私とでは… ごめんなさい、最後まで困らせてしまって。あなたは旅人ですものね」

 名残惜しそうにしていましたが、最後は諦めたようでした。旅人さんも申し訳無さそうにしています。町の人々も旅人さんがこの町を後にすることを残念に思っていました。

 いよいよ出発する時間です。口下手な旅人さんはこの町でお世話になった人々に口下手なりにお礼を言って、車に乗り込みました。エンジンをかけた時、彼女が車に駆け寄りました。とてもやさしい笑顔で微笑む彼女のために運転席の窓を開けると、彼女はそのまま顔を近づけ、旅人さんに口付けしていきました。それを見てひやかす人もいました。お互い笑顔を見せあうと、お元気で、と言葉を残しました。


 排気ガスと大きなエンジン音を残して、車は海辺の町を出て行きました。車が見えなくなるまで見送りました。手を振っている人もいます。

 白いローブを羽織った女の人の胸元にはあの青い宝石のついたブローチはありません。笑顔でしたが、とても寂しそうな顔をしています。車が見えなくなった後、空を仰いで呟きました。

「さようなら、私の生涯で愛した最初で最後の人…」




 今日もとても良い天気でした。車は海岸線に沿って北へと向かって進みます。左手に見える大海原は青々として、見つめているとそのまま吸い込まれてしまいそうでした。

 助手席には小さな木箱が置かれていました。蓋が付いているのですが、今はその蓋は開けられています。その中にはまるで海をその中に収めてしまったかのように青く輝く宝石の付いた白いブローチが入っていました。木箱の中に、宝石と一緒に小さく折られた一枚の紙が入っていました。


その中には丁寧な字で、こう書かれています。





『あなたの旅のご無事と、あなたが旅を終えた日の幸せを祈って』

 ラケル=ティム=マルキス








 ご読了ありがとうございました。

 れいちぇるのお送りいたしました「童話風味小説」はいかがでしたでしょうか。

 のどかで、淡々としていて、ちょっぴり身近でささやかな音が聞こえるような気がして、その奥をのぞけばとてもきれいな世界が広がっていて、そして手を伸ばせばその中に生きる人の思いを抱きしめることができる。

 そんな雰囲気を感じていただけたのでしたら幸いです。


それでは皆様、

みなさまのもとに、これからもすばらしい物語の世界が訪れますよーに。  れいちぇるでした〆

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