第六話
草っぱら中の小さな道を、一台の車が走っていました。
今日の天気もとても良く、お日様がさんさんと照らしてとても気持ちのよい日でした。こんな日は草の上にごろんと寝そべって、一日中何もしないで過ごすのが一番に思えてなりません。ですが今日も車は西へ西へと向かいます。
旅人さんは途中で何度か車を止めました。止めるたびに外に出ます。もちろん助手席の女の人も一緒に出るよう誘います。地面は前までのような砂とは違って湿って重く、しっかりと体を支えてくれます。崩れることはありません。女の人はしゃがみ込み、地と草を撫でました。
「…ぜんぜん違う。世界が違う。こんなとこまで」
ぼそっと呟きました。ですが旅人さんはちゃんと聞いていました。女の人の横顔がちょこっと見えました。彼女の顔は静かでしたが、どことなく怒ったように不満そうだと思いました。その後立ち上がって振り返った女の人の顔からは不機嫌な様子は消えていて、爽やかな風に白い雲が流れる空を見ると、穏やかな微笑を代わりに浮かべていました。
昨日の晩から彼女は口を閉ざしてしまい、朝のあいさつをしたきり旅人さんとはしゃべっていません。別段旅人さんも無理に話をさせようとは思っていませんでしたので、彼女が言うまでそのままでいようと考えていました。特に昨日の晩のこと、今までの彼女からは感じられなかった色々なことを尋ねたいのはやまやまでしたが、止めておきました。
お日様が一番高いところに上がった頃、また車を止めました。食事を用意して、お湯を沸かし、お茶を注ぎます。軽く火で炙った魚の干物を食べました。あっさりした中にほんのり効いた塩加減が、お肉とは違ったうま味を引き立てています。ですが固く焼いたパンにはいまいち合いません。小骨も多くて少し食べるのに難儀しました。味は悪くないのにどうも惜しい感じが否めません。旅人さんは魚を食べるのが初めてではありませんでしたので、なんとなく予想はしていました。その様子を見ていた女の人がちょこっと笑いました。
「お米だったら良かったですけど。塩漬け、油漬けでしたらパンでも… あ、いえ。以前口にしたことがあったものですから、つい」
旅人さんがわずかに怪訝そうな顔をしたことを見逃さず、久しぶりに旅人さんと話をしたというのにまた口をつぐんでしまいました。
お昼ごはんを終えた後、片づけをして出発しました。色々考えた上で、旅人さんは一つの確信を持ちました。隣に座る女の人はずっと砂漠の町に居たわけではない。おそらく海の辺りで暮らしたことがあるはずだ。そしておそらくあの町で自分に会って、偶然海のある方角へ向かっていることを知り、そしてついて行きたいと申し出たのだろう、と。
あくまで想像にすぎないので確かめたいと思うのですが、なかなか聞くことができません。昨晩の彼女の涙が胸をよぎるからです。そうこうしているうちにだんだんお日様が傾いていきます。そして少し開けていた窓から入ってくる空気がわずかですが変わってきたことに気が付きました。
多少の雲はありますが、空は晴れていると言うのに風がだんだん重くなっていきます。そして今までの草原とは異なり吸う空気が何となく甘く、胸を満たすようでした。旅人さんは以前にも同じような経験をしたことがあります。もうそろそろだな、と隣の女の人にも聞こえるように独り言をいいました。
もうしばらく西に走ると、それまで車が進んでいた道が突然なくなりました。崖です。その下に広がるのは大地ではなく、お日様の光をまばゆく受けた無限に広がる広大な水面でした。
海です。
崖の近くで道は北と南に別れていました。前の町で教えてもらった次の町はここから北に向かったところにあるそうです。海を左手に見ながら車は海岸に沿って走っていきました。
一本道で迷うことなく、順調に次の町に着けそうです。きっと日が暮れる頃には着くでしょう。助手席に座っていた女の人はずっと海を見ていました。運転している旅人さんからは後ろ頭しか見えなかったのですが、彼女はずっと微笑をたたえたまま、満たされたような顔をしていました。
遠くに見える入り江に、海岸の色とは違った白い景色が広がっています。水に浮いたままそこに出入りする物もあります。おそらく船でしょう。次の町だと思われました。お日様も大分傾いて、到着する頃には水平線に隠れてしまいそうです。旅人さんは少し急ごうとアクセルを踏みました。だんだん白い景色がはっきりしてきました。建物がお日様の光を受けて白く輝いているようです。入り江を作る山肌にも白い建物が立ち並びます。風光明媚な土地のようです。旅人さんも少しわくわくしてきました。
そんな時、隣に座る女の人が言いました。
「…止めてください。連れて来てくださって、本当にありがとうございました」
もう間もなくで到着です。だと言うのに車を降りると言って聞きません。仕方なしに車を止めると、落ち着いた様子で降りました。旅人さんも続きます。しばらく町のある入り江を見つめて、そのあと崖から広がる大海原に沈もうとしているお日様と向き合いました。その様子を旅人さんは黙ってずっと見ていました。二人以外に人は無く、まるで一枚の絵のようでした。
とうとう旅人さんは聞きました。どうして嘘をついてまで自分について来たのか、と。
「やっぱりお気づきになってたんですね。…ここまで来て隠すこともありません。私の話をいたしましょう」
声穏やかに、女の人は話し始めました。
あの町に生まれ育ったこと
母が先立ち、父と共に裕福でなかったとしても幸せに暮らしてきたこと
その父が無実の罪で囚われ、ひとりにされたこと
無実の罪だというのに小さな町では爪はじきにされ、支えられることなく生きてきたこと
何とか無罪を証明し、再び幸せな日々を取り戻したこと
しかし最早あの町では暮らしていけなくなっていたこと
無罪を証明するまでの間に彼女の父が重い病に侵されてしまっていたこと
あの町を離れ、この先に見える町で生きていくことにしたこと
移り住んでからそれなりに幸せに生きてきたこと
だけど体を壊した父が今年になって亡くなったこと
幸せだった日々を奪い、父を殺したのはあの町の心ない人々であること
それに仕返しをするためにあの町に戻ったこと
爆弾や火、毒を使って騒ぎを起こし、父を、自分を苦しめた者たちを手にかけたこと
そして旅人さんに出会い、今日ついに復讐の旅を終えることができたこと
長い長いお話でした。お日様は今にも水平線に飲み込まれてしまいそうです。話が終わって、旅人さんと向き合っていた女の人はまた海のほうを見ていました。旅人さんはその背中をずっと見ていました。遠く下のほうから響く波のさざめきがやけに大きく聞こえます。
聞かなければ良かった、話させたことでより苦しめてしまったのではないか。そんな思いが旅人さんの顔に浮かんでいます。そんな彼の思いを他所に彼女はすっきりした、晴れ晴れとした顔をしていました。
旅人さんのほうに振り向いた時、彼女は幸せそうに微笑んでいました。
「…手を出してください」
歩み寄った彼女は旅人さんの手に何かを握らせました。彼女の胸のあたりにつけていた青い宝石のついたブローチです。
「…最初に預けたお金も、全て差し上げます。そして母のブローチも… 私にはもう必要ありません。これから大切にしてくれる方に、これを差し上げます。あなたならきっと…」
再び海のほうに向き直り、崖の方に向かって歩いていきます。お日様が半分くらい沈んでいて、海を美しい朱に染め上げていました。まるで体に刻み込むかのようにその夕暮れの傍らに立つ女の人に、旅人さんは声をかけられずにいました。
「本当に、ありがとう」
振り返ったときの彼女の顔は、
本当に幸せに満ちあふれていました。