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第50話 北の封石

 今夜、封石が崩壊する。


 《最悪予測》は、そう告げた。


 黒い霧に包まれた村。


 倒れるセシリア。


 逃げ惑う領民たち。


 その光景が、まだ頭に焼きついている。


 俺は封石を見た。


 古いグランヴェル家の紋章。


 剣と盾。

 麦の穂。


 その表面には、黒い筋が走っている。


 ひびは、少しずつ広がっていた。


「全員、封石から距離を取れ」


 俺が命じると、騎士たちはすぐ動いた。


 ガルドが盾兵を並べる。


 王宮騎士たちも、文句を言わず配置についた。


「若様、どう守りますか」


「封石に近づくものを止める。だが、黒い霧が出たら触るな。草が枯れていた。人が触れれば危ない」


「はっ!」


 返事は力強い。


 だが、俺の中に安心はない。


 封石が何なのか。

 黒い霧が何なのか。

 どうすれば完全に止まるのか。


 分からないことだらけだ。


 なのに、今夜崩れる。


 最悪だ。


 本当に最悪だ。


 だが、見えた以上は動ける。


 俺はセシリアを見る。


「君は下がっていてくれ」


「嫌です」


 即答だった。


「危険だ」


「知っています」


「予測で、君が倒れる未来を見た」


 そう言うと、セシリアの表情が少しだけ揺れた。


 だが、彼女は逃げなかった。


「なら、その未来を変えましょう」


「セシリア嬢……」


「私は、あなたの隣にいると決めました」


 いつもの言葉。


 何度も聞いた言葉。


 だが、今夜ほど重く聞こえたことはなかった。


 俺は短く息を吐く。


「分かった。ただし、俺の指示には従ってくれ」


「はい」


 セシリアはまっすぐうなずいた。


 夜が深くなる。


 森は静かだった。


 静かすぎた。


 鳥も虫も鳴いていない。


 封石のひびだけが、少しずつ黒く広がっていく。


 その時、バルトが古い紙束を広げた。


「若様。古文書に、封石についての記述がございます」


「読めるか?」


「一部だけですが」


 バルトは震える声で読んだ。


「北門の封石、三印により力を保つ。井戸、孤児舎、祈堂。三つの印が乱れれば、封石もまた弱まる」


 井戸。

 孤児院。

 祈堂。


 俺は歯を食いしばる。


「祈堂がまだ分かっていない」


「はい。ですが、井戸と孤児舎の印は確認済みです」


「二つだけで足りるか?」


「分かりません」


 だよな。


 都合よく全部解決とはいかない。


 だが、今できることはある。


「井戸の印と孤児院の印に残っていた紋章。その写しはあるな」


「ございます」


 バルトが差し出した紙には、古い紋章が描かれていた。


 セシリアがそれを見る。


「同じ紋章を、封石の欠けた部分に重ねるのでは?」


「そんな単純でいいのか?」


「分かりません。でも、三つの印が封石を保つなら、印の形に意味があるはずです」


 試す価値はある。


 というか、それ以外に手がない。


 俺は紙を手に取った。


 その瞬間、視界が揺れる。


 《最悪予測》。


 見えたのは、俺が封石へ近づき、黒い霧に飲まれる未来。


 失敗。


 次に、ガルドが近づき、倒れる未来。


 失敗。


 次に、セシリアが紙を持って進み、霧に触れる未来。


 失敗。


 俺は息をのんだ。


 何度も見える。


 誰が近づいても、黒い霧に飲まれる。


 だが、一つだけ違う未来があった。


 俺が紋章の写しを掲げ、セシリアが後ろから光の魔法を流す。


 バルトが古文書の言葉を読む。


 封石のひびが、一瞬だけ止まる。


 完全ではない。


 だが、止まる。


「……見えた」


 俺は顔を上げた。


「セシリア嬢。光の魔法は使えるか」


「はい」


「俺が封石の前に立つ。君は後ろから魔力を流してくれ。バルトは古文書を読む」


「若様が前に?」


 バルトが青ざめる。


「俺じゃないと駄目らしい」


「ですが!」


「たぶん、グランヴェルの血が必要なんだ」


 言ってから、自分でその重さに気づいた。


 グランヴェル家。


 北門の守護者。


 最悪を予測する力。


 全部が、ここにつながっている。


 封石が、ぴしりと音を立てた。


 黒い霧が、ひびの隙間から漏れ始める。


 草が枯れる。


 盾兵が息をのむ。


「下がれ!」


 俺は叫んだ。


 騎士たちが一歩下がる。


 俺だけが前に出た。


 怖い。


 足が震える。


 だが、止まれない。


 背後から、セシリアの声がした。


「レオン様」


「何だ?」


「戻ってきてください」


「ああ」


「約束です」


 こんな時に約束か。


 でも、その言葉で腹が決まった。


「約束する」


 俺は封石へ向き直る。


 古い紋章の写しを掲げた。


 セシリアの光が背中から流れ込む。


 温かい。


 バルトが古文書を読む。


「北門を守る者、麦を掲げよ。剣は民を斬るためにあらず。盾は王冠を飾るためにあらず。すべては、明日の糧を守るために」


 封石の紋章が、かすかに光った。


 黒い霧がうねる。


 俺の腕がしびれる。


 まずい。


 意識が飛びそうだ。


 その瞬間、また未来が見えた。


 封石の奥。


 黒い門。


 その向こうに、巨大な影。


 まだ目覚めきっていない。


 だが、こちらを見ている。


【北門は、完全には閉じていません】


 完全には閉じていない。


 つまり、今は閉じ直せない。


 できるのは、崩壊を遅らせるだけ。


 俺は歯を食いしばった。


「それでも……今夜は止める!」


 紋章の光が強くなる。


 セシリアの魔力がさらに流れ込む。


「レオン様!」


「大丈夫だ!」


 本当は大丈夫ではない。


 腕が焼けるように痛い。


 だが、引けない。


 ここで引けば、村が霧に飲まれる。


 領民が死ぬ。


 セシリアが倒れる。


 そんな未来は、絶対に嫌だ。


「俺は、悪役貴族なんかで終わらない!」


 叫んだ瞬間、封石のひびが光に包まれた。


 黒い霧が押し戻される。


 ぴしり、という音が止まる。


 森に、静寂が戻った。


 気づけば、俺は膝をついていた。


「レオン様!」


 セシリアが駆け寄ってくる。


 俺の肩を支える手が震えていた。


「無事ですか?」


「たぶん」


「たぶんでは困ります」


「なら、無事だ」


 そう言うと、セシリアの目に涙が浮かんだ。


 泣かせた。


 まずい。


 かなりまずい。


「約束しましたから」


「ああ。戻った」


 セシリアは小さくうなずいた。


 その横で、バルトが封石を見ていた。


「ひびは……完全には消えておりません」


 俺も見る。


 黒い筋は残っている。


 だが、広がってはいない。


 霧も止まった。


 今夜の崩壊は防げた。


 だが、解決ではない。


 封石はまだ弱っている。


 祈堂の印も見つかっていない。


 北門の向こうにいる何かも、まだそこにいる。


 ガルドが膝をついた。


「若様。村は守られました」


 王宮騎士の隊長も、静かに頭を下げる。


「殿下へ、ありのまま報告いたします。グランヴェル卿が封石を守ったと」


 その言葉に、俺は少しだけ息を吐いた。


 王都での断罪。


 グランヴェル家の悪評。


 そのすべてが、今夜少しだけ変わるかもしれない。


 だが、まだ終わらない。


 むしろ、ここから始まる。


 夜明け前。


 俺たちは森を出た。


 空の端が白んでいる。


 村の方から、鐘の音が聞こえた。


 無事を知らせる鐘だ。


 セシリアが隣で言う。


「レオン様」


「何だ?」


「あなたは、やはり救う方です」


「俺はただ、見えた最悪を避けただけだ」


「それで救われる人がいます」


 そう言われると、もう否定しきれなかった。


 最初は、自分が破滅したくなかっただけだ。


 だが今は違う。


 領地を守りたい。


 セシリアを守りたい。


 グランヴェル家の本当の役目を知りたい。


 その気持ちは、もう俺の中にある。


 屋敷へ戻ると、バルトが新しい報告書を持ってきた。


「若様。古い教会跡について、手がかりが見つかりました」


「祈堂か?」


「おそらくは。場所は、北のさらに奥。古地図では“失われた祈りの堂”と記されています」


 北のさらに奥。


 封石の向こう側に近い場所。


 俺は地図を見る。


 まだ見つかっていない三つ目の印。


 そこに、次の答えがある。


 その時、遠く北の空で、黒い光が一瞬だけまたたいた。


 誰もが息を止める。


 封石は止めた。


 だが、北門は完全には閉じていない。


 俺は拳を握った。


「次は、祈堂を探す」


 セシリアが隣に立つ。


 バルトが頭を下げる。


 ガルドが剣を握る。


 もう、俺は一人ではない。


 悪役貴族として断罪されるはずだった俺は、領地へ戻り、封石を守った。


 だが、これは終わりではない。


 北門の向こうにいる何か。


 王家が隠した真実。


 宰相の狙い。


 そして、グランヴェル家の本当の役目。


 すべてはまだ、始まったばかりだ。


 俺は北の空を見上げた。


「最悪が見えるなら、何度でも先に動く」


 そう言って、俺は次の戦いへ向かう決意を固めた。

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