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第95話 紫札を飾りにしないために

紫札は、流行になりかけていた。


 その報告が来たのは、差出人不明の美しい箱が安全確認室へ送られた翌日の朝だった。


 夫人会の受付に、王都西区の仕立屋から案内状が届いたのである。


 紙質は悪くない。


 文面も丁寧だった。


 だが、そこに書かれた言葉を読んだ瞬間、リリアナは思わず額に手を当てた。


 ――今、王宮夫人会で話題の「紫札」にちなみ、当店では薄紫の実務リボン、記録布、見直し帳カバーを特別にご用意いたしました。善き活動にふさわしい上品な紫で、皆様の改革を美しく彩ります。


「……美しく彩らなくていいです」


 リリアナの声は、かなり低かった。


 エレノアは無言で案内状を受け取り、読み終えると静かに机へ置いた。


 デリア夫人は目を閉じた。


 ミリアム夫人は扇を開きかけて、途中で止めた。


 ベアトリス侯爵夫人だけが、少し楽しそうに眉を上げている。


「早いですわね」


「楽しそうに言わないでください」


 リリアナが思わず言うと、ベアトリス夫人は悪びれずに微笑んだ。


「楽しんでいるわけではありませんわ。ただ、こうなると思っていました」


「思っていたのですか?」


「ええ。新しい制度、新しい色、新しい言葉。社交界は、意味より先に形を欲しがりますもの」


 意味より先に形。


 それは、昨日届いた美しい箱そのものだった。


 薄紫の紐。


 香り袋。


 美しい包装。


 紫札の意味を借りて、飾りへ変えようとするもの。


 今度は商人が動き始めた。


 紫札が、商品になろうとしている。


 夫人会の小会議室には、その案内状のほかにも、似たような紙が二通届いていた。


 一つは、文具商から。


 ――見直し予定を優雅に管理するための紫革帳。


 もう一つは、刺繍職人組合の一部から。


 ――紫札用の紋入り布札。ご家名入り対応可。


 リリアナは、三通を並べてしばらく眺めた。


「ご家名入りにしたら、もう完全に飾りですね」


 デリア夫人が深く頷く。


「ええ。しかも、家名が入れば捨てにくくなります」


「役目が終わっても外せない」


「そうです」


 紫札は、役目が終われば外すもの。


 昨日、夫人会でそう決めたばかりだ。


 なのに、外せなくなる方向へ社交界が動いている。


 美しくする。

 家名を入れる。

 上質な布にする。

 流行色にする。


 そのすべてが、紫札を制度ではなく装飾へ変えてしまう。


 エレノアは静かに言った。


「今日の議題を変更しましょう」


「紫札の濫用防止ですね」


 オスカーが記録する。


 ベアトリス夫人が扇で三通の案内状を示した。


「濫用というより、流行化防止ですわ。社交界では、濫用という言葉より流行の方が手強いです」


「なぜですか?」


 リリアナが尋ねる。


「流行は、悪意なく広がるからです」


 ベアトリス夫人は答えた。


「悪意ある不正なら、止めやすい。けれど、“素敵だから”“皆様もお使いだから”“改革らしく見えるから”という理由で広がるものは、止めようとするとこちらが野暮に見えます」


「野暮……」


「ええ。制度を守る側が、華やかさを邪魔する者に見える」


 ミリアム夫人がため息をついた。


「夫人会が一番弱いところですわね」


「はい」


 デリア夫人も認めた。


「良いことをしていると見せたい気持ちが、どうしても出ます」


 会議室にいた若い夫人たちも、少し気まずそうに目を伏せた。


 誰も、完全に無関係ではない。


 窓布作業も、古着仕分けも、茶会簡素化も、どこかで「人に見られる自分」を意識してしまう。


 それ自体を完全になくすことは難しい。


 だが、紫札を飾りにしてしまえば、見直しのための道具が、見栄の道具に戻る。


 リリアナは、手帳を開いた。


 ――流行は、悪意なく広がる。


 書いてから、もう一行。


 ――制度を守る側が野暮に見えることもある。


 胸に少し刺さる言葉だった。


 だが、ここで野暮を恐れてはいけない。


 エレノアは、机の中央に一枚の白紙を置いた。


「紫札使用規則を作ります」


「規則ですか」


 リリアナが顔を上げる。


「ええ。どこで使い、どこで使わないか。どんな形ならよく、どんな形は不可か。役目が終わったらどうするか」


 ベアトリス夫人がすぐに言った。


「まず、衣服への使用は禁止ですわね」


 全員の視線が彼女の胸元に向く。


 今日は紫のリボンはない。


 代わりに、控えめな灰色の飾りだけだ。


 ベアトリス夫人は平然としている。


「昨日、私が悪い見本をいたしましたので、ここは明確に」


 リリアナは少し驚いた。


 自分で言うのだ。


 デリア夫人が記録した。


 ――紫札および紫布札の意匠を、衣服・装身具・髪飾り・扇飾り等へ流用しない。


 ミリアム夫人が付け加えた。


「招待状の装飾にも使わない方がよいですわ。薄紫の縁取りなど始めたら、春の香り付き招待状と同じ道をたどります」


「採用します」


 エレノアが頷く。


 ――招待状、礼状、社交用カードの装飾として使用しない。


 クララ子爵未亡人が手を上げた。


「作業箱や書類箱に付ける場合でも、必要以上に美しい布は避けるべきです」


「具体的には?」


 デリア夫人が尋ねる。


「無地布。刺繍なし。家名なし。使い回し可能。汚れたら交換できる程度」


「よいですね」


 リリアナはすぐに書いた。


 ――無地布。刺繍なし。家名なし。使い回し可能。汚れたら交換できる程度。


 ベアトリス夫人が、仕立屋の案内状を指で押さえた。


「“善き活動にふさわしい上品な紫”という言葉も危険です。上品である必要はありません。目立ち、役目が分かり、外せることが重要です」


 リリアナは頷いた。


「紫札は、上品であるためのものではない」


「ええ」


「でも、あまり雑すぎると軽んじられませんか?」


 若い夫人の一人が不安そうに言った。


 それも分かる。


 粗末な札では、誰も見ないかもしれない。


 デリア夫人が答えた。


「雑と簡素は違います。端がほつれて読めなくなるようでは困ります。ただし、見栄えを目的にしない」


「品質は必要。でも装飾は不要」


 リリアナが言うと、エレノアが頷いた。


「その言い方がよいわ」


 記録に入る。


 ――品質は必要。装飾は不要。


 次に、紫札を使ってよい場面が決められた。


 試行制度。


 見直し予定のある支援物資。


 作業後確認が必要な箱。


 一定期間後に結果を見る文例。


 保護対象者に関わる運用で、見直し日が決まっているもの。


 逆に、使ってはいけない場面。


 単なる完了済み作業。


 見直し日がない善行報告。


 社交上の飾り。


 家名を示す目印。


 寄付者の名札。


 記念品。


 宣伝。


 リリアナは最後の「宣伝」に強く頷いた。


「仕立屋や文具商の宣伝に使われるのは、違いますね」


「違います」


 エレノアは即答した。


「では、商人への返答も必要です」


 ヘンリク事務官が資料をめくる。


「王妃基金と夫人会の名を使って商品を宣伝することを禁じる文を出しましょう」


 ベアトリス夫人が、すぐに言った。


「ただし、商人を敵に回しすぎないように。彼らは悪意だけで動いているわけではありません。流行を見て商品にしただけです」


「では、どう書きますか?」


 リリアナが尋ねる。


 ベアトリス夫人は少し考え、口述した。


「王妃基金および夫人会で使用する紫札は、見直し予定を示す内部実務用の印です。装飾品、衣装小物、社交用文具、宣伝商品としての使用を推奨・認可するものではありません。各商店におかれましては、王妃基金または夫人会の名を用いた販売文句をお控えください」


 すらすら出た。


 リリアナは感心してしまう。


 ベアトリス夫人は、本当にこういう文に強い。


 相手を切りすぎず、線は引く。


 さらにミリアム夫人が付け加えた。


「“必要な無地布・紐等の通常納品については、従来通り適正な見積もりで受け付けます”も入れましょう。商人たちに、全部締め出されたと思われると困ります」


 デリア夫人が頷く。


「装飾商品は不可。ただし通常物資の納品は可」


 リリアナは書いた。


 ――商人も全部敵にしない。宣伝利用は不可、通常納品は可。


 この線引きも大事だ。


 紫札を飾りにしないために、布屋や文具商を完全に遠ざければ、今度は必要な布や札が手に入らなくなる。


 全部断るのではない。


 目的に合わないものを断る。


 必要なものは、適正に買う。


 また同じ構造だった。


 会議の途中、ベアトリス夫人がふとリリアナに言った。


「リリアナ様。あなたなら、紫札を飾りにしない理由を一文でどう書きます?」


「えっ」


 突然振られ、リリアナは固まった。


 会議室の視線が集まる。


 最近、こういうことが増えた。


 以前なら、リリアナは可愛い服や茶会の席で注目されることが多かった。


 今は、制度の一文で注目される。


 どちらが楽かと聞かれたら、正直どちらも楽ではない。


 だが、今の方が、少し自分の足で立っている気はした。


 リリアナは考えた。


 紫札を飾りにしない理由。


 見直しの印だから。


 役目が終われば外すから。


 誰かを褒めるためではなく、後で戻るためだから。


 彼女は、ゆっくり言った。


「紫札は、褒められるためにつけるものではなく、戻って見るためにつけるものです」


 会議室が静かになった。


 ベアトリス夫人が、少しだけ目を細めた。


「よろしいですわね」


 デリア夫人がすぐに記録した。


 ――基本文:紫札は、褒められるためにつけるものではなく、戻って見るためにつけるものです。


 リリアナは少し頬を赤くした。


「そのまま使うのですか?」


「分かりやすいもの」


 ミリアム夫人が微笑む。


「夫人会には、これくらい直球が必要ですわ」


 エレノアも頷いた。


「採用しましょう」


 その一文は、紫札使用規則の冒頭に置かれることになった。


 規則は、最終的にこう整理された。


 ――紫札使用規則。


 一、紫札は、見直し予定がある作業・制度・支援物資にのみ用いる。

 二、紫札は、褒められるためにつけるものではなく、戻って見るためにつけるものとする。

 三、衣服、装身具、招待状、礼状、社交小物、記念品、宣伝商品へ流用しない。

 四、無地布または簡素な厚紙を用い、刺繍、家名、過度な装飾を加えない。

 五、品質は必要だが、装飾は不要。読めること、外せること、記録できることを優先する。

 六、役目が終わった紫札は外し、継続、修正、終了、中止のいずれかを記録する。

 七、商人が王妃基金・夫人会の名を用いて紫札関連商品を宣伝することを認めない。必要な通常物資は適正見積もりで扱う。

 八、紫札をつけたまま放置することを禁じる。


 最後の八に、リリアナは目を留めた。


「つけたまま放置することを禁じる」


「これが最も大事かもしれませんね」


 デリア夫人が言った。


 紫札は、外すところまでが役目。


 つけて満足すれば、ただの飾りになる。


 会議が終わる前に、実際の紫布札も改訂された。


 これまでの布札は、少しだけ端が整いすぎていた。


 ミリアム夫人が「見栄えが良い方が皆様見てくださるかと」と選んだものだったが、今日からはもっと簡素な布に変える。


 ただし、字が読みにくいほど粗くはしない。


 紫は少し落ち着いた色。


 紐も太すぎない。


 リリアナは、改訂された紫布札を手に取った。


 小さく、軽い。


 美しくはない。


 でも、役に立ちそうだった。


「これくらいが、ちょうどいい気がします」


「ええ」


 エレノアが言う。


「飾りたくならない程度に」


「でも、なくしたら困る程度に」


「そうね」


 ベアトリス夫人が笑った。


「実務の美しさ、というものですわね」


「それも少し危ない言葉です」


 リリアナがすぐに言うと、ベアトリス夫人は声を立てて笑った。


「覚えましたわね」


「ベアトリス様のおかげです」


「それは光栄ですわ。少し複雑ですけれど」


 その日、仕立屋、文具商、刺繍職人組合へそれぞれ返答が出された。


 文面は丁寧だが、明確だった。


 紫札は内部実務用の印であり、装飾品や商品として推奨・認可しない。


 王妃基金・夫人会の名を用いた宣伝文句は控えること。


 必要な無地布、紐、厚紙などの通常物資については、適正な見積もりで今後も扱うこと。


 商人を完全に退けず、しかし流行化は止める。


 ベアトリス夫人は、その文を読んで満足げに言った。


「よろしいですわ。角はありますが、刺しすぎていない」


 リリアナは苦笑した。


「文にも角があるのですね」


「もちろんです。丸すぎると転がりますし、尖りすぎると刺さります」


「ちょうどいい角」


「社交文の基本ですわ」


 また、嫌なような役に立つような知識が増えた。


 夕方、夫人会の作業棚に結ばれていた紫布札も、一度すべて外された。


 外して、確認して、改訂版へ付け替える。


 南区孤児院窓布。


 古着修繕箱。


 簡素茶会費。


 贈答品辞退文例。


 それぞれに、改訂版の札を結ぶ。


 外した古い札は捨てず、記録に貼った。


 ――旧紫布札。装飾性がやや高いため、改訂。廃棄せず初期見本として保管。


 リリアナは、それを見て言った。


「失敗見本も残すのですね」


「残します」


 デリア夫人が答える。


「何が危なかったか、後で分かるように」


 リリアナは手帳に書いた。


 ――失敗見本も、次のために残す。


 夜、北翼へ戻ったリリアナは、自分の報告をまとめた。


 ――紫札が流行になりかけた。仕立屋、文具商、刺繍職人から薄紫の実務リボン、紫革帳、家名入り紫布札の案内が来た。

 ――社交界は、意味より先に形を欲しがる。流行は悪意なく広がる。

 ――紫札使用規則を作った。紫札は、褒められるためにつけるものではなく、戻って見るためにつけるもの。

 ――衣服、装身具、招待状、礼状、社交小物、記念品、宣伝商品へ流用しない。

 ――無地布、刺繍なし、家名なし。品質は必要、装飾は不要。

 ――役目が終わったら外し、継続、修正、終了、中止を記録する。

 ――商人は敵にしない。宣伝利用は不可、通常納品は可。

 ――旧紫布札も、危なかった見本として保管した。


 最後に、少し考えてから書いた。


 ――良い仕組みほど、飾りにされやすい。飾りにしないためには、意味を何度も言葉に戻す必要がある。


 エレノアはそれを読み、静かに頷いた。


「今日の核ね」


「意味を何度も言葉に戻す……少し難しいですか」


「いいえ。とても大事よ」


「紫札、守れたでしょうか」


「今日のところは」


「明日は?」


「また、別の形で揺れるでしょうね」


 リリアナはため息をついた。


「制度って本当に休ませてくれませんね」


「人が使うものだから」


 エレノアは言った。


「人は、便利なものを自分に都合よく変える。善意でも、悪意でも」


「だから見直す」


「ええ」


 リリアナは手帳を閉じた。


 その夜、夫人会の棚には、改訂された紫布札が結ばれていた。


 飾り気はない。


 家名もない。


 刺繍もない。


 ただ、見直し日と担当者と、何を見るかが書かれている。


 紫札は、流行色にならなかった。


 少なくとも、今夜は。


 褒められるためではなく、戻って見るために。


 その意味を、夫人会はようやく紙と布の両方で覚え始めていた。

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