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第93話 受付の女官、初めて文例で断る

文例は、紙の上では強かった。


 だが、実際に人の前で使うとなると、紙とは別の怖さがあった。


 その日、夫人会の小さな受付に立っていたのは、女官リゼだった。


 年は二十歳を少し過ぎたくらい。


 王宮勤めとしてはまだ若いが、手際はよい。


 来訪者の名を聞き、招待状を確認し、預かる文書と返す物品を分け、必要なら奥へ知らせる。


 普段なら、そこで迷うことは少ない。


 しかし今日は違った。


 受付台の上には、昨日作られたばかりの贈答品辞退文例が置かれている。


 小さな板に挟まれ、見やすいように角度をつけて立てられていた。


 表題は簡潔だ。


 ――贈答品・手土産・資料名目物品への対応文。


 リゼは、その文例を朝から何度も読んでいた。


 本会では、贈答品・手土産・返礼を伴う物品の受領を一律に行っておりません。


 返礼の有無にかかわらず、お返しいたします。


 事前確認のない物品・見本・飲食物は、資料名目であっても受領いたしません。


 ご厚意そのものを軽んじるものではございません。


 何度読んでも、喉の奥が少し固くなる。


 文としては分かる。


 意味も分かる。


 だが、相手が上位貴族の使いだった場合。


 あるいは、笑顔で「ほんの気持ちです」と差し出された場合。


 そこで本当にこの文を言えるのか。


 リゼは、正直、自信がなかった。


 小会議室の奥では、夫人会の打ち合わせが始まっている。


 今日の会は大きなものではない。


 窓布作業と古着修繕箱の進捗確認。


 それから、贈答品辞退文例の実地確認。


 エレノア、リリアナ、デリア夫人、ミリアム夫人、ベアトリス侯爵夫人が参加している。


 ベアトリス夫人は、受付の近くを通る時、リゼにこう言った。


「怖い時ほど、文を崩さないことですわ」


 それだけ言って、微笑んで奥へ入っていった。


 助言なのか、圧なのか。


 リゼにはまだ判別できなかった。


 最初の来訪者は、問題なかった。


 クララ子爵未亡人の家令が、紙の資料を届けに来たのだ。


 事前に内容は知らされていた。


 南区孤児院の窓布を洗濯した際の縮み具合について、家の洗濯係がまとめた覚書。


 紙のみ。


 物品なし。


 リゼは受付記録に書いた。


 ――クララ子爵家より紙面資料一通。事前確認済み。受領。物品なし。


 これはできる。


 紙ならいい、ではなく、事前確認済みの紙面資料だから受ける。


 リゼは少しだけほっとした。


 しかし、ほっとした時間は短かった。


 二人目の来訪者が、問題だった。


 訪れたのは、ランズベリー伯爵夫人の侍女だった。


 ランズベリー伯爵夫人。


 春挨拶会の返書で「たいへん慎ましやかな春の席」と書いてきた、あの夫人である。


 侍女は丁寧に礼をした。


 手には、淡い青の布に包まれた細長い箱を持っている。


 その時点で、リゼの胸が一段沈んだ。


 箱。


 物品。


 文例の出番だ。


「ランズベリー伯爵夫人より、夫人会の皆様へお預かりしております」


 侍女は穏やかに言った。


「本日の会でお使いいただければと、窓布番号札の紐見本を少々。もちろん贈答品ではなく、資料でございます」


 来た。


 リゼは文例板を見た。


 資料名目。


 物品見本。


 事前確認なし。


 受領しない。


 分かっている。


 分かっているのに、口がすぐに動かない。


 相手の侍女は、微笑んだまま箱を差し出している。


 箱の布は美しい。


 おそらく中の紐も高価なものだろう。


 窓布番号札の紐見本。


 言い方だけなら、実務に関わりそうに聞こえる。


 けれど、事前確認はない。


 物品だ。


 受け取れない。


 リゼは息を吸った。


「ご厚意に感謝いたします」


 まず、そこまでは言えた。


 声が少し硬い。


 でも、出た。


「資料をご持参の場合は、事前に内容をお知らせいただくことになっております。当日、事前確認のない物品・見本は、資料名目であっても受領できません」


 言った。


 言えた。


 侍女の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


「ですが、こちらは本当に見本でございます。お使いになるかどうかは、皆様にご判断いただければ」


 押してきた。


 リゼの指先が冷える。


 つい、「では奥へ確認します」と言いそうになった。


 その瞬間、文例板の下に書かれたベアトリス夫人の赤字が目に入った。


 ――安易に「上に確認します」と言わない。相手は待てば通ると思う。


 リゼは踏みとどまった。


「見るだけでも、受領と同じ扱いになる場合がございます。本日はお持ち帰りください。必要であれば、事前確認の上、紙面資料として改めてお知らせください」


 侍女は、箱を持つ手を少し引いた。


「奥様は、夫人会のお役に立てばと」


「お気持ちは十分に承っております」


 リゼは、文例を見ずに言った。


「方針により物品は受け取れませんが、ご厚意そのものを軽んじるものではございません」


 そこまで言い切った時、リゼは自分の膝が少し震えていることに気づいた。


 でも、立っていた。


 侍女は数秒黙った。


 やがて、深く礼をした。


「承知いたしました。奥様へ、そのようにお伝えいたします」


「お願いいたします」


 箱は、受付台に置かれなかった。


 開封もされなかった。


 受領もされなかった。


 侍女が去った後、リゼは小さく息を吐いた。


 その息が思ったより震えていて、自分で少し驚いた。


 すぐに記録しなければならない。


 記録がなければ、今の出来事は空気に溶ける。


 彼女はペンを取り、受付記録へ書いた。


 ――ランズベリー伯爵夫人より、窓布番号札用紐見本を資料名目で持参。事前確認なき物品見本のため受領せず。紙面資料としての事前連絡を案内。箱未開封。本人側持ち帰り。


 最後に、少し迷ってから付け加えた。


 ――受付対応、文例使用。


 その一行を書いた時、ようやく胸の奥が少し緩んだ。


 奥の会議室には、すぐに報告が入った。


 リゼ本人ではなく、控えていた補助女官が小声で伝えたのだ。


 デリア夫人がそれを聞き、会議を止めた。


「今、最初の実例が出ました」


 リリアナは顔を上げた。


「贈答品ですか?」


「資料名目の物品見本です。ランズベリー伯爵夫人より、窓布番号札用の紐見本」


 ベアトリス夫人が扇を閉じた。


「早いですわね」


 ミリアム夫人がため息をつく。


「猫がもう来ましたわ」


「花籠ではなく、紐をくわえて」


 ベアトリス夫人の返しに、少しだけ笑いが起きた。


 だが、デリア夫人の表情は真剣だった。


「受付のリゼが文例通りに断りました。箱は未開封、未受領。紙面資料として事前連絡を案内」


 リリアナは、思わず手を握った。


「できたのですね」


「ええ」


 エレノアも静かに頷いた。


「受付を呼びますか?」


 ミリアム夫人が尋ねると、ベアトリス夫人が首を横に振った。


「今すぐ呼ぶと、見世物になりますわ。まずは記録を確認しましょう」


 この判断は正しかった。


 断った直後の受付女官を会議室に呼び、皆で褒める。


 一見よいことに見えるが、それでは彼女が余計に緊張する。


 まずは記録。


 その後、落ち着いた時に確認。


 リリアナは、ベアトリス夫人を少し見直した。


 刃を知っている人は、盾の使い方も分かる。


 昨日の自分の記録を思い出す。


 しばらくして、受付記録の写しが会議室へ運ばれた。


 エレノアが読み上げる。


「ランズベリー伯爵夫人より、窓布番号札用紐見本を資料名目で持参。事前確認なき物品見本のため受領せず。紙面資料としての事前連絡を案内。箱未開封。本人側持ち帰り。受付対応、文例使用」


 最後の一文で、リリアナは小さく笑った。


「文例使用」


「よい記録です」


 デリア夫人が言った。


 ベアトリス夫人も頷く。


「“上に確認します”と言わなかったのは良いですわ。あれを言うと、相手は廊下で粘ります」


「粘る……」


 エミリア夫人が少し嫌そうな顔をした。


 ベアトリス夫人は平然と言う。


「ええ。粘ります。待たせているうちに、誰かが面倒になって受け取りますから」


 リリアナは手帳に書いた。


 ――上に確認します、は廊下で粘る入口になる。


 また一つ、社交界の嫌な知恵を覚えた。


 だが、今回はそれが役に立った。


 会議では、すぐに文例の修正点が話し合われた。


 今回の対応は概ね成功。


 ただし、記録に「本人側持ち帰り」とあるが、誰が持ち帰ったかを明記した方がよい。


 後で「置いていった」「受け取ったはず」と言われるのを避けるためだ。


 デリア夫人が記録修正案を出した。


 ――ランズベリー伯爵夫人付き侍女が持ち帰り。


 リリアナは頷いた。


「持ち帰った人まで書くのですね」


「はい」


 エレノアが答える。


「物品がこちらに残っていないことを明確にするためよ」


 ベアトリス夫人が付け加える。


「特に美しい箱は、後で“そちらに置いたはず”と言われることがありますから」


「本当に?」


 エミリア夫人が驚く。


「ございますわ」


 ベアトリス夫人は微笑む。


「もちろん、言ったことはありませんけれど」


 誰も信じていない顔をした。


 本人も、そこまで信じてほしそうではなかった。


 その後、もう一件来訪者があった。


 今度は、オルティス侯爵家の使いである。


 持ってきたのは、封筒だけだった。


 受付でリゼが確認する。


「事前確認のある資料でしょうか」


「はい。夫人会の贈答品辞退文例について、当家で使っている返礼不要の断り文を写したものです。紙のみです」


 リゼは少し緊張しながら封筒を受け取った。


 念のため、封筒の外側を確認する。


 厚みは紙だけ。


 香り袋や薄い布が入っている様子はない。


 事前にデリア夫人宛へ連絡も来ていた。


 これは受け取ってよい。


 ただし、記録する。


 ――オルティス侯爵家より紙面資料一通。事前確認済み。物品なし。受領。


 これも文例があったから迷わずに済んだ。


 断るだけでなく、受け取る時も文例が必要だ。


 何を受け取れるのかが明確でなければ、受付はすべてを怖がる。


 すべてを怖がれば、必要な資料まで止まる。


 夫人会の中で、その点も確認された。


 リリアナが言った。


「断る文だけでなく、受け取る基準も必要ですね」


 ベアトリス夫人が頷く。


「その通りですわ。何でも断る受付は、やがて現場から嫌われます。何なら受け取れるかを示してこそ、断る文が生きます」


 デリア夫人は、新しい欄を文例集に足した。


 ――受領可能なもの。事前確認済みの紙面資料。物品を伴わない文書。担当者宛の正式書簡。

 ――受領時も記録すること。


 リリアナは書いた。


 ――受け取る基準があるから、断る基準も生きる。


 昼前、リゼはようやく奥へ呼ばれた。


 会議の見世物にするのではなく、休憩のタイミングで、少人数での確認だった。


 同席したのは、デリア夫人、ベアトリス夫人、リリアナ、エレノアだけ。


 リゼは、少し青い顔をしていた。


「先ほどの対応について確認します」


 デリア夫人が言うと、リゼは緊張したように背筋を伸ばした。


「はい」


「まず、よく断りました」


 リゼの目が、少しだけ揺れた。


 褒められると思っていなかったのかもしれない。


 デリア夫人は続ける。


「箱を開けなかったこと、受付台に置かせなかったこと、事前確認のない物品見本として断ったこと。すべて適切です」


「ありがとうございます」


 リゼの声は小さかった。


 ベアトリス夫人が口を開く。


「一点だけ。今後は、持ち帰った人物も記録なさい。何家の誰付きの侍女が持ち帰ったか。後で揉めにくくなります」


「はい。気づきませんでした」


「今日気づけばよろしいのです。次に書けます」


 リゼは少しほっとしたように頷いた。


 リリアナは、彼女の手がまだ少し震えていることに気づいた。


 文例を使って断る。


 それは、会議室で練習するよりずっと怖かったのだ。


「怖かったですか?」


 リリアナは思わず尋ねた。


 エレノアが少しだけ目を動かしたが、止めなかった。


 リゼは一瞬迷い、正直に答えた。


「怖かったです」


 その声は、かすかに震えていた。


「箱を差し出された時、受け取った方が楽だと思いました」


 リリアナは黙って聞いた。


 リゼは続ける。


「以前なら、たぶん受け取っていました。後で奥へ回せばよいと。私がその場で断って、相手の侍女に嫌な顔をされるより、受け取った方が早いので」


 それは、とても現実的な言葉だった。


 受付に立つ者の本音。


 その場を収めるために受け取る。


 後で誰かが困るとしても、とりあえず今は楽になる。


 ベアトリス夫人が静かに言った。


「だから、文例が必要なのですわ」


「はい」


 リゼは頷いた。


「文例がなかったら、言えませんでした」


 リリアナは、その言葉を胸に刻んだ。


 強い言葉を紙に置くことで、弱い立場の人が強く言わなくて済む。


 昨日のベアトリス夫人の言葉は、本当だった。


 リゼは弱い人ではない。


 職務に慣れた女官だ。


 それでも、相手の家格と笑顔と箱の美しさを前にすれば、揺れる。


 揺れた時に、文例が立つ。


 受付の人の心の札。


 リリアナは、そう思った。


 エレノアが言った。


「今日の記録に、リゼの感想を入れてもよいですか。名前を出す範囲は内部確認までにします」


 リゼは少し驚いた顔をした。


「私の感想もですか?」


「ええ。文例が受付を守ったかどうかを見るために必要です」


 リゼは少し考え、頷いた。


「では、“文例がなければ受け取っていた可能性あり”と書いてください」


 自分でそこまで言った。


 デリア夫人が静かに記録する。


 ――受付リゼ所感。文例がなければ受領していた可能性あり。文例があったため断れた。相手方侍女が押した際、「上に確認します」と言いそうになったが、文例注記により回避。


 ベアトリス夫人が満足げに頷いた。


「この注記は残しましょう。かなり重要です」


 その日の午後、ランズベリー伯爵夫人から短い書簡が届いた。


 予想通りだった。


 文面は丁寧だが、温度は低い。


 ――本日、当家より実務資料として紐見本を持参いたしましたところ、受付にて返却されたとのこと。夫人会の皆様のご事情は理解いたしますが、今後の作業に役立つものまで一律に拒まれるのは、少々寂しく存じます。


 リリアナは、それを読んで少し顔をしかめた。


「寂しく存じます……」


 ベアトリス夫人が言った。


「出ましたわね」


「出ましたわね、とは」


「断られた側の第一文です。“寂しい”“残念”“そのようなつもりでは”のどれかが来ます」


 ミリアム夫人が苦笑した。


「今回は寂しい、でしたわね」


 返答文は、すぐに文例集を使って作られた。


 ――ご配慮に感謝申し上げます。夫人会では、事前確認のない物品見本については、資料名目であっても受領しない方針としております。ご厚意そのものを軽んじるものではございません。実務上必要なご提案がございましたら、事前に内容をお知らせの上、紙面資料としてお送りください。


 リリアナは読んで、頷いた。


「別の道を置いています」


「ええ」


 エレノアが言う。


「拒絶ではなく、手順を示す」


 ベアトリス夫人は少しだけ笑った。


「そして、箱は通さない」


「箱は通さない」


 リリアナも小さく繰り返した。


 この短いやり取りが、少しおかしくて、少し頼もしかった。


 夕方、紫布札の裏に途中確認が追記された。


 ――三日目。紐見本持参あり。文例により受領拒否成功。受付所感、文例有効。修正点、持ち帰り人物の明記を追加。事前確認済み紙面資料は受領。七日後、再確認。


 継続。


 紫布札は、まだ外されない。


 リリアナは、その札を見て少し息を吐いた。


「一回成功しても、終わりではない」


「ええ」


 エレノアが頷く。


「次は別の形で来るかもしれない」


「香り袋とか?」


「菓子の試作品とか」


「猫が持ってくる花籠とか」


 思わずそう言うと、エレノアが少し笑った。


「そうね」


 北翼へ戻った後、リリアナは今日の報告を書いた。


 ――受付のリゼさんが、初めて文例で断った。ランズベリー伯爵夫人より、窓布番号札用の紐見本が資料名目で来た。事前確認のない物品見本なので、未開封で返した。

 ――リゼさんは、文例がなければ受け取っていたかもしれないと言った。受け取る方がその場は楽だから。

 ――文例は、本当に受付を守った。

 ――“上に確認します”と言いそうになったが、注記で止まれた。これは大事。

 ――持ち帰った人物も記録する必要がある。

 ――断った後、相手から“寂しく存じます”の書簡が来た。文例を使って、拒絶ではなく手順を返した。

 ――受け取る基準があるから、断る基準も生きる。


 最後に、少し考えてから書いた。


 ――その場を楽にするために受け取ると、後で誰かが困る。文例は、その場の楽さに負けないための支え。


 エレノアは、それを読んで静かに頷いた。


「今日の実例は大きいわね」


「はい」


「文例が紙の上だけではないと分かった」


「リゼさん、震えていました」


「ええ」


「断る人も守らないといけませんね」


「そうね」


 リリアナは手帳を閉じる前に、もう一行だけ足した。


 ――断られる人の面目だけでなく、断る人の心も守る。


 その夜、夫人会の受付台には、文例板が置かれたままだった。


 少しだけ角が擦れている。


 リゼが何度も目で追ったからだ。


 紙は、誰かの代わりに立った。


 箱は開けられなかった。


 紐見本は通らなかった。


 その小さな成功が、次の受付を少しだけ強くする。

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