第92話 贈答品辞退文例、ベアトリスの修正
贈答品を断る文は、思っていたより危険だった。
強く書けば、相手の面目を潰す。
弱く書けば、相手が入り込む。
丁寧に書けば、抜け道が増える。
簡潔に書けば、冷たいと言われる。
そして何より厄介なのは、贈答品を持ってくる側が、たいてい「厚意」という顔をしていることだった。
夫人会の小会議室。
机の中央には、紫布札が結ばれた薄い書類箱が置かれていた。
――贈答品辞退文例。
――担当、ベアトリス侯爵夫人。
――七日後確認。
今日は、その七日後ではない。
まだ三日目である。
だが、ベアトリス侯爵夫人は「七日も待ったら、皆様の文例が善意で甘くなりますわ」と言って、途中確認を申し出た。
これにはデリア夫人も反対しなかった。
紫札は七日後に見るためのものだが、七日間まったく見てはいけない札ではない。
むしろ、危ないと思ったら途中で開ける。
それもまた、見直しだった。
今日集まったのは、エレノア、リリアナ、デリア夫人、ミリアム夫人、ベアトリス侯爵夫人、エミリア伯爵夫人、クララ子爵未亡人、そして記録係のオスカーだった。
アデレード老伯爵夫人は欠席である。
ただし、短い伝言が届いていた。
――断る文は、扉に似ています。鍵をかけすぎると客が怒り、隙間があれば猫が入ります。猫が花籠を持っている場合もあります。
リリアナはその一文を読んで、思わず笑った。
「猫が花籠を……」
ミリアム夫人が扇で口元を隠す。
「老伯爵夫人の猫は、かなり社交慣れしていそうですわ」
ベアトリス夫人は涼しい顔で言った。
「その猫、たぶん私ですわね」
誰も否定しなかった。
少しだけ笑いが起きた。
以前なら、ベアトリス夫人がこう言えば、空気に棘が残っただろう。
だが今日は違った。
彼女自身が、花籠を差し込む側の文法を知っている。
その知識を、今は断る側の制度に使おうとしている。
リリアナには、それが少し不思議だった。
人は、役割が変わると急に味方になることがある。
ただし、完全な味方かどうかは、まだ分からない。
そこを曖昧にしてはいけない。
ベアトリス夫人は、机の上に数枚の紙を並べた。
「まず、皆様が考えた文例を拝見しました。どれもたいへんお上品です」
その言い方だけで、何か悪い予感がした。
リリアナは背筋を伸ばす。
ベアトリス夫人は、一枚目をつまみ上げた。
「たとえば、こちら」
読み上げる。
――このたびのご厚意、誠にありがたく存じます。ただ、現在は家政整理中につき、贈答品の受領を控えさせていただいております。お気持ちのみ、ありがたく頂戴いたします。
リリアナは首を傾げた。
「普通によくないですか?」
「ええ、普通によいですわ」
ベアトリス夫人はにっこり笑った。
「だから危ないのです」
「危ない?」
「“現在は”と書いてありますでしょう」
「はい」
「では相手はこう考えます。“現在は駄目なのね。では、次の会ならよいかしら”と」
リリアナは、あっと声を漏らした。
ベアトリス夫人は続ける。
「さらに“控えさせていただいております”。これは、こちらの都合で遠慮している言い方です。押せば受け取る余地があるように見えます」
「押せば……」
「ええ。たとえば私なら、“ご遠慮なさらずに。返礼は本当に不要ですのよ”と言います」
実例が生々しい。
エミリア夫人が小さく言った。
「言われたことがあります……」
「でしょうね」
ベアトリス夫人は悪びれない。
リリアナは、手帳に書いた。
――現在は、は次の会への抜け道になる。控えさせていただく、は押せば入れる。
エレノアが尋ねた。
「では、どう直しますか」
ベアトリス夫人は、赤いインクで文を修正した。
――本会では、贈答品・手土産・返礼を伴う物品の受領を一律に行っておりません。ご厚意はお気持ちとして承り、物品はお返しいたします。
リリアナは読んで、少し息を呑んだ。
「強いですね」
「強いですわ」
ベアトリス夫人は頷いた。
「ただし、“本会では”と限定しています。今後すべての社交で贈答品を断つわけではありません。この会では受け取らない。そういう線です」
「“お返しいたします”も、かなりはっきりしています」
「ここを曖昧にすると、受付の女官が困ります。断る文は、相手だけでなく受付を守るものです」
その言葉に、リリアナははっとした。
断る文は、受付を守る。
たしかに、花籠を持ってこられた時、受付の女官は困っていた。
飾り紐見本の時も。
文面が弱ければ、彼女たちがその場で判断を背負わされる。
断る言葉は、冷たい壁ではなく、現場の人を一人にしないための線でもあるのだ。
リリアナは書いた。
――断る文は、受付を守る。
ベアトリス夫人は二枚目を出した。
「次はこちら。資料名目の差し込み対策です」
読み上げる。
――資料につきましては、必要に応じてお預かりいたします。
ベアトリス夫人は、そこで大きく首を横に振った。
「これは、駄目です」
クララ夫人が少し肩を縮めた。
「私が書きました」
「クララ様らしい、善良な文ですわ」
「善良では駄目ですか」
「善良だけでは、飾り紐が入ります」
リリアナは思わず笑いそうになり、こらえた。
飾り紐事件は、すっかり文例の教材になっていた。
ベアトリス夫人は、クララ夫人へ優しいような厳しいような目を向ける。
「クララ様の庭師覚書は、本当に資料でした。紙で、実務に役立ち、事前に趣旨が分かっていた。ですが、“資料なら預かる”と書くと、物品見本、飾り紐、香り袋、布地見本、菓子の試作品、何でも資料になります」
「菓子の試作品も?」
エミリア夫人が驚く。
「もちろんですわ。“味見の資料です”と言えば、菓子箱が入ります」
リリアナは頭を抱えたくなった。
社交界の抜け道は、どうしてこうも多いのか。
ベアトリス夫人は修正文を示した。
――資料をご持参の場合は、事前に内容をお知らせください。当日、事前確認のない物品・見本・飲食物は、資料名目であっても受領いたしません。紙面による実務資料のみ、受付記録の上でお預かりする場合がございます。
デリア夫人が頷いた。
「かなり明確ですね」
「ええ。ただし、“場合がございます”としています。紙なら必ず受け取る、とはしない」
リリアナは手帳に書く。
――資料は事前確認。物品・見本・飲食物は資料名目でも受け取らない。紙でも必ずではない。
エレノアは、文面を見ながら言った。
「受付記録の上で、という一文が大事ですね」
「はい。預かるなら記録。記録しないなら預からない」
ベアトリス夫人はあっさり言った。
その言葉に、リリアナは少し驚いた。
ベアトリス夫人の口から「記録しないなら預からない」が出る。
ほんの少し前なら、考えられなかった。
人は変わる。
あるいは、持っていた鋭さの向きが変わる。
次に出されたのは、返礼不要への対策だった。
これは、ほとんど全員が苦い顔になった。
返礼不要。
この言葉ほど、厄介な厚意はない。
返礼は不要です。
どうぞお気遣いなく。
ほんの気持ちです。
受け取っていただくだけで。
しかし、社交界では本当に不要とは限らない。
受け取った事実が残る。
関係が生まれる。
次に会った時、何も返さないと無礼になる。
返礼不要は、返礼の鎖を見えにくくする言葉なのだ。
ベアトリス夫人は言った。
「“返礼不要”と言われた時こそ、受付は迷います。なぜなら、相手は善意の顔をしていますから」
ミリアム夫人が頷く。
「断る側が悪者に見えますわね」
「ええ。ですから文面で、返礼の有無ではなく物品受領そのものを断る必要があります」
修正文。
――返礼の有無にかかわらず、本会では贈答品・手土産を受領しておりません。返礼不要とのお申し出をいただいた場合も、一律にお返しいたします。
リリアナは、思わず声に出した。
「返礼の有無にかかわらず……」
「ここが要です」
ベアトリス夫人は言った。
「返礼不要だからよい、という道を閉じます」
デリア夫人が補足する。
「一律、も必要ですね。個別判断にすると、また関係維持費が戻ります」
「そうですわ」
ベアトリス夫人は、なぜか少し楽しそうだった。
「個別判断は、社交界の大好物ですもの。“私だけは特別”という顔で、皆様お入りになります」
誰かが小さくため息をついた。
リリアナも内心で同意した。
昔の自分なら、その「特別」に弱かった。
誰かから特別に贈られる花。
特別に選ばれた菓子。
特別に似合うと言われる飾り。
けれど、特別は時々、記録の外へ逃げる。
そして、あとで大きな支出になる。
次の文例は、かなり難しかった。
匿名贈答。
誰からか分からない花束や菓子箱が届いた場合。
以前の夫人会なら、「どなたかのご厚意」として受け取っていたかもしれない。
しかし、今は危険だ。
匿名の物品は、返礼どころか安全確認もできない。
ベアトリス夫人は、ここだけ少し顔を引き締めた。
「匿名贈答は、可愛らしい悪戯ではありません。特に飲食物は危険です」
マルタがいれば強く頷いただろう。
リリアナも頷いた。
薬草茶の件を思い出したのだ。
香りだけでは安全とは限らない。
文例。
――差出人不明の物品、飲食物、花、布、香り袋等は、安全確認および記録の都合上、受領・使用・配布いたしません。到着した場合は開封せず、受付記録の上で保管し、担当者へ報告いたします。
リリアナは少し考えた。
「返すのではなく、保管ですか?」
「差出人が分からなければ返せません」
ベアトリス夫人が答える。
「それに、危険物であれば、どこから来たか調べる必要があります」
エレノアが頷いた。
「開封しない、も重要ですね」
「はい。美しい包みほど、開けたくなりますから」
ベアトリス夫人は、さらりと言った。
リリアナは、手帳に書く。
――匿名贈答は開封しない。美しい包みほど危ない。
この文は、夫人会だけでなく王妃基金にも必要だと思った。
支援物資として届く匿名品にも同じ危険がある。
善意の差し入れ。
名前のない菓子。
香りのする包み。
それらは、弱い場所へ届けば届くほど危険になることがある。
次に議論されたのは、断った後の言葉だった。
贈答品を返す。
では、それで終わりか。
相手を怒らせないために、何を言うか。
ここで、ベアトリス夫人の本領が発揮された。
「断った後に“申し訳ございません”を重ねすぎるのは危険です」
エミリア夫人が驚いた。
「謝るのも駄目ですか?」
「謝りすぎると、相手は“では少しだけなら”と押してきます。こちらが悪いことをしているように見えるからです」
「では、何と言えば?」
「感謝は述べる。方針を示す。例外は作らない。最後に、相手の面目を残す」
ベアトリス夫人は紙に書いた。
――ご配慮に感謝申し上げます。本会では一律の方針として物品を受領しておりませんため、お持ち帰りをお願いいたします。今後とも、文書またはご出席によるご厚誼を賜れますと幸いです。
ミリアム夫人が感心したように言った。
「文書または出席による厚誼……贈答品以外の道を示すのですね」
「そうです。断るだけでは、相手は顔を失います。別の道を置いてあげる」
リリアナは目を開いた。
別の道。
これは大事だ。
花籠は受け取らない。
でも、文書で関係は続けられる。
出席で挨拶はできる。
贈答品以外の社交を示す。
ただ閉めるのではなく、別の扉を開ける。
リリアナは書いた。
――断る時は、別の道を置く。
デリア夫人が、全体を整理した。
「つまり、文例は四種類必要です」
一、事前案内文。
二、当日受付での断り文。
三、資料名目の持参への断り文。
四、匿名・危険物品への対応文。
ベアトリス夫人が付け加えた。
「もう一つ。断った後、相手が不満を漏らした時の短文です」
「そこまで?」
リリアナが驚く。
「そこからが本番ですわ」
ベアトリス夫人はにっこり笑った。
「たいていの方は、一度断られると、こうおっしゃいます。“まあ、そんなつもりではありませんでしたのに”」
全員が、ああ、という顔になった。
たしかに言いそうだ。
「その時に慌てて謝ると、負けます」
「負ける……」
「ええ。そこで使う文はこちら」
――お気持ちは十分に承っております。方針により物品は受け取れませんが、ご厚意そのものを軽んじるものではございません。
リリアナは、そっと声に出した。
「ご厚意そのものを軽んじるものではございません……」
これは強い。
相手の面子を残しながら、物品は受け取らない。
ミリアム夫人が笑った。
「さすがですわね。花籠を差し込む側の呼吸を知っている」
「お褒めいただき光栄ですわ。あまり名誉な技術ではございませんけれど」
ベアトリス夫人はそう言ったが、どこか楽しそうだった。
会議の後半では、実際の受付練習が行われた。
これはベアトリス夫人の提案だった。
「文は読めても、口に出せなければ役に立ちませんわ」と。
受付役はエミリア夫人。
持ち込み役はベアトリス夫人。
リリアナは見学のつもりだったが、途中で参加させられた。
最初に、ベアトリス夫人が花籠役を演じる。
「本当に小さなものですの。返礼も不要ですし、入口が少し寂しかったので」
エミリア夫人は文例を見ながら答える。
「ご厚意に感謝いたします。本会では一律の方針として、物品を受領しておりませんので、お持ち帰りをお願いいたします」
「まあ、そんなつもりではありませんでしたのに」
「お気持ちは十分に承っております。方針により物品は受け取れませんが、ご厚意そのものを軽んじるものではございません」
ミリアム夫人が拍手した。
「よろしいですわ」
ベアトリス夫人も頷いた。
「少し声が震えましたが、文は崩れていません。合格です」
次はリリアナだった。
持ち込み役は、もちろんベアトリス夫人。
「リリアナ様。これは資料ですのよ。春の枝物を飾るための古い紐の見本。贈答ではありませんわ」
実際に言われたこととよく似ている。
リリアナは喉が少し乾いた。
文例を見る。
「資料をご持参の場合は、事前に内容をお知らせいただくことになっております。当日、事前確認のない物品・見本は、資料名目であっても受領できません」
「でも、見るだけでしたら?」
「見るだけでも、受領と同じ扱いになる場合があります。申し訳ございませんが、本日はお持ち帰りください」
言ってから、リリアナははっとした。
謝りすぎたかもしれない。
ベアトリス夫人がすぐに指摘した。
「“申し訳ございませんが”は一度なら許容範囲です。ただし、その後に理由を繰り返さないこと。相手に交渉の余地を与えます」
「はい」
「最後は、“必要であれば事前確認の上、紙面資料として改めてお知らせください”と別の道を置くとよいですわ」
「あ、はい」
リリアナは言い直した。
「必要であれば、事前確認の上、紙面資料として改めてお知らせください」
「よろしい」
リリアナは、少し肩の力を抜いた。
「難しいです」
「難しいですわ。だから文例にするのです」
ベアトリス夫人は、意外なほど真面目に言った。
「その場の優しさで断ると、たいてい相手の強さに負けます」
その場の優しさ。
それも危険なのだ。
優しくしたい。
角を立てたくない。
相手を傷つけたくない。
そう思って言葉を柔らかくしすぎると、現場の線が崩れる。
リリアナは書いた。
――その場の優しさで断ると、相手の強さに負けることがある。
練習は一刻ほど続いた。
終わる頃には、全員少し疲れていた。
だが、文例はかなり整った。
最後に、デリア夫人が紫布札の裏へ記入した。
――三日目途中確認。文例草案完成。受付練習実施。七日後、実際に使えるか再確認。
ベアトリス夫人がその札を見て言った。
「これで紫札の役目は終わりではありませんのね」
「七日後確認があります」
リリアナが答える。
「では、継続」
「はい。継続です」
ベアトリス夫人は少し笑った。
「中止にならずに済んでよかったですわ」
会議が終わった後、ベアトリス夫人がリリアナを呼び止めた。
「リリアナ様」
「はい」
「今日の文例、少し強く感じたでしょう」
「はい」
「でも、強い言葉を紙に置くことで、弱い立場の人が強く言わなくて済むことがあります」
リリアナは、はっとした。
受付の女官。
若い夫人。
孤児院の管理者。
産婆院の見習い。
その人たちが、その場で強く言わなくてもよいように、文が線を引く。
「言葉が代わりに立つ、ということですか」
「ええ。社交界では、言葉を盾にも刃にもします。今日は盾の方を練習しました」
ベアトリス夫人は、少しだけ肩をすくめる。
「私は刃の使い方ばかり上手くなってしまいましたから」
その言葉には、自嘲が混じっていた。
リリアナは少し迷ったが、正直に言った。
「でも、刃の使い方を知っているから、盾の形も分かるのだと思います」
ベアトリス夫人は、一瞬だけ目を丸くした。
そして、ふっと笑った。
「リリアナ様も、だいぶ社交界の嫌なところを覚えてきましたわね」
「褒めていますか?」
「半分」
「残り半分は?」
「心配ですわ」
リリアナも少し笑った。
「私もです」
北翼へ戻ると、リリアナはすぐに報告を書いた。
――贈答品辞退文例の途中確認をした。
――“現在は”“控えさせていただく”は抜け道になる。
――返礼不要でも受け取らない。返礼の有無にかかわらず、物品受領そのものを断る。
――資料名目でも、事前確認のない物品・見本・飲食物は受け取らない。
――匿名贈答は開封しない。安全確認と記録が必要。
――断る文は、受付を守る。
――断る時は、別の道を置く。文書や出席など、贈答品以外の関係を示す。
――その場の優しさで断ると、相手の強さに負けることがある。
――強い言葉を紙に置くことで、弱い立場の人が強く言わなくて済むことがある。
最後に、少し考えてから書いた。
――ベアトリス様は、刃を知っているから盾を作れる人かもしれない。まだ少し怖い。でも、今日はとても役に立った。
エレノアはそれを読んで、微かに笑った。
「本人には見せない方がよさそうね」
「はい。絶対に」
「でも、的確だわ」
リリアナは、少し肩を落とした。
「社交界って、本当に言葉が怖いです」
「ええ」
「でも、言葉で守れることもある」
「そうね」
「文例も、用途札や紫札と同じですね」
「どういう意味?」
「その場で迷わないための札です。受付の人の心の札」
エレノアは少し考え、頷いた。
「よい表現ね」
「また記録しますか?」
「ええ」
リリアナは笑って、最後にもう一行足した。
――文例は、受付の人の心の札。
その日の夕方、夫人会の紫布札はまだ外されなかった。
継続。
七日後にもう一度見る。
贈答品を断る文は、まだ完成ではない。
けれど、花籠を持ってくる猫に、少しだけ戸締まりの仕方を覚えた日だった。




