第88話 守る空白と、埋めるべき空白
空白は、敵。
王宮では、いつの間にかそんな空気が生まれ始めていた。
それも無理はなかった。
王妃基金の不正は、空欄から始まった。
誰が確認したのか分からない欄。
誰が受け取ったのか曖昧な欄。
いつ支出されたのか不明な欄。
父グレゴールが確認しなかった欄。
夫人会が都合よく見ないままにした欄。
空白が不正を隠した。
空白が責任を逃がした。
空白が弱い人の寒さや痛みを、帳簿の外へ押しやった。
だから、王宮の事務方が「空欄をなくせ」と言い始めるのは自然な流れだった。
だが、自然な流れが正しいとは限らない。
その日、北翼の小会議室に届いた一枚の通達案が、まさにその危うさを示していた。
差出人は、王都登録局の補佐官バスティアン。
題は簡潔だった。
――王妃基金関連仮登録書類における空欄削減について。
リリアナは、題名を読んだ瞬間、嫌な予感がした。
「空欄削減……」
エレノアも表情を引き締めた。
イザーク法務官補佐が封を切り、文面を読み上げる。
「王妃基金再建に伴い、各種支援記録および仮登録書類の正確性向上のため、未記入欄の削減を進める。特に母子仮登録における父名欄、住所欄、身元保証欄について、原則として七日以内に記入を完了すること。記入不能の場合は、不能理由を詳細に記載すること」
そこで、リリアナは思わず顔を上げた。
「七日以内?」
イザークは続きを読んだ。
「父名欄については、父不明、父死亡、父名非公開、婚外出生等の分類を行い、登録局への後日照会に備えること。空欄のままの提出は、原則として差し戻し対象とする」
部屋が静まり返った。
父名欄。
七日以内。
不能理由を詳細に。
空欄のままなら差し戻し。
リリアナは、雨音の顔を思い浮かべた。
――言わないと雫を取られる?
あの一文が、胸の中で冷たく響いた。
「これは、駄目です」
リリアナは言った。
声は大きくなかった。
でも、自分でも驚くほどはっきりしていた。
エレノアも頷いた。
「このまま通れば、産婆院の母親たちは記録を避けるわ」
フィオナ司祭が静かに言う。
「避けるだけならまだよい方です。逃げる方も出るでしょう。体が戻らないまま、赤子を抱いて」
その言葉で、空気がさらに重くなった。
バスティアン補佐官に悪意があるわけではない。
それは文面からも分かる。
彼はおそらく、王妃基金の不正を受けて、書類を正しくしようとしている。
空白を減らそうとしている。
責任をはっきりさせようとしている。
それ自体は間違っていない。
だが、空白には種類がある。
そこを分けずに一律で埋めようとすると、守るべき人を追い詰める。
カインは通達案を読み終えると、短く言った。
「呼べ」
イザークがすぐに動いた。
幸い、バスティアン補佐官は王宮内にいた。
登録局から王妃基金へ説明に来る予定だったらしく、半刻もしないうちに北翼へ通された。
バスティアンは、三十前後の実直そうな男だった。
眼鏡をかけ、書類鞄を両手で抱えている。
顔には緊張が出ていたが、傲慢さはない。
部屋にカインがいるのを見て、さらに背筋を伸ばした。
「登録局補佐官バスティアン・レムです。お呼びと伺いました」
「座ってください」
エレノアが言った。
声は穏やかだが、机の上には問題の通達案が置かれている。
バスティアンは、それを見てすぐに事情を察したようだった。
「通達案に不備がございましたか」
「不備というより、危険があります」
エレノアは端的に言った。
バスティアンの顔がこわばる。
「危険、ですか」
イザークが説明を始めた。
「母子仮登録における父名欄を七日以内に記入完了、または詳細理由記載とする案についてです。これは、産後直後の母親に強い負担をかけます」
バスティアンは、やや困惑した表情になった。
「しかし、父名欄が空白のままでは、後日の正式登録で支障が出ます。空欄を放置すれば、また王妃基金のような不正が」
「そこが問題です」
エレノアが言った。
「空白をすべて同じものとして扱っています」
バスティアンは黙った。
リリアナは、机の端で手帳を握っていた。
発言するべきか迷った。
法務の話だ。
自分が口を挟んでよいのか。
でも、雨音の言葉を知っている。
雫の仮登録紙を見た。
父欄の空白が、ただの書き忘れではないことを知っている。
リリアナは、ゆっくり手を上げた。
「発言してもよろしいでしょうか」
エレノアが頷く。
「どうぞ」
リリアナはバスティアンを見た。
「父名欄を七日以内に埋めるよう求めた場合、雨音さんのような母親は、たぶん怖がります」
「雨音さん?」
「聖リディア産婆院の母親の仮名です。子の仮名は雫さんです」
バスティアンの表情が変わった。
実名ではなく仮名で語られていることに、まず気づいたのだろう。
「雨音さんは、父欄の説明を聞いて、“言わないと雫を取られる?”と言いました。父名欄は、その人にとって、ただの記入欄ではありませんでした」
リリアナは、言葉を選びながら続けた。
「もちろん、父欄をずっと見ないでいいとは思いません。後で必要になることも分かります。でも、今すぐ詳しく書けと言われたら、支援を受けること自体が怖くなるかもしれません」
バスティアンは、黙って聞いていた。
リリアナは手帳を開き、昨日の自分の言葉を見た。
「空白を守る。でも放置しない。私は、そう記録しました」
部屋の中に、静かな間ができた。
カインが口を開いた。
「通達案は、怠慢な空白と保護の空白を混同している」
バスティアンは顔を上げた。
「保護の空白……」
「そうだ」
カインの声は低かった。
「王妃基金の不正を隠した空白は埋めろ。父親を今言えない母親の欄は、埋めるな。だが、忘れるな」
厳しいが、分かりやすい。
バスティアンは、通達案へ視線を落とした。
「私は……空欄が残ることで、また誰かが責任を逃れることを恐れました」
「それは正しい恐れです」
エレノアは言った。
「ただし、恐れへの答えが“一律に埋める”では、別の被害が出ます」
イザークは、新しい分類案を机に置いた。
「そこで、空白を分類します」
白紙に、五つの言葉が並んでいた。
一、怠慢空白。
二、不正隠蔽空白。
三、未確認空白。
四、時期待ち空白。
五、保護空白。
バスティアンは、ひとつひとつ目で追った。
イザークが説明する。
「怠慢空白は、確認すべき者が確認しなかった空白です。たとえば公爵家の使用人宿舎修繕報告のようなもの」
リリアナの胸が少し痛んだ。
父の空白だ。
「不正隠蔽空白は、支出先や受領者を意図的に曖昧にしたもの。これは最優先で調査します」
王妃基金の旧記録。
夫人会別口資金。
それらがここに入る。
「未確認空白は、まだ確認できていないが、確認予定を置くもの。父欄未聴取などは、現時点ではここに近い」
「時期待ち空白は?」
バスティアンが尋ねた。
イザークは答える。
「本人の体調、心理状態、周辺安全が整うまで、確認時期を待つ必要がある空白です。産後直後の父欄説明などが該当します」
フィオナ司祭が補足した。
「夜明けさんや雨音さんのような母親には、食事、睡眠、出血、赤子の状態を見てから説明する必要があります」
「保護空白は?」
バスティアンの声は、少し慎重になっていた。
リリアナが答えた。
「書かないことで本人を守る空白、だと思います」
自分の言葉が合っているか不安で、エレノアを見る。
エレノアは頷いた。
「その通りよ」
イザークが続ける。
「たとえば、前雇用主から追跡される可能性がある支援対象者の姓。父名を記すことで母子が危険になる場合の父欄。これらは、すべての紙に書かない。限定記録として扱う」
バスティアンは、長く黙った。
通達案を書いた男の顔ではなく、初めて現場の言葉を受け取った事務官の顔になっていた。
「では……空欄を残す場合にも、分類と次回確認日を記録するということですか」
「はい」
エレノアは答えた。
「空白を放置するのではありません。空白の理由と閲覧範囲と次に見る条件を記録します」
ヘンリクが財務側から言った。
「財務書類でも同じです。未確認のまま放置すれば不正になります。しかし、確認中と記録し、期限を置けば管理できます」
バスティアンは深く息を吐いた。
「私の案では、空白の種類が一つしかありませんでした」
「そうです」
エレノアの返事は容赦がない。
だが、責めるためではなかった。
「ただ、補佐官殿の懸念は必要です。空白を何でも保護と言えば、不正が戻ります」
バスティアンは、はっとしたように顔を上げた。
「そこが怖いのです」
「ええ。だから分類と承認が必要です」
エレノアは新しい用紙を示した。
――空白分類票。
項目は以下の通り。
空白欄名。
空白分類。
空白理由。
本人同意または本人状態。
閲覧範囲。
次回確認日または確認条件。
承認者。
備考。
リリアナはそれを見て、少しだけ目を細めた。
また表が増えた。
でも、これは必要な表だ。
ただし、現場で使うには硬いかもしれない。
「これ、産婆院でそのまま使うには難しいかもしれません」
リリアナが言うと、バスティアンがすぐに顔を向けた。
「では、どうすれば?」
その聞き方に、リリアナは少し驚いた。
彼は反発していない。
知ろうとしている。
リリアナは考えた。
「登録局や法務担当が使う正式票はこれでよいと思います。でも、産婆院用には短くした方がいいです」
彼女は別紙に書いた。
――今は書かない欄。
――理由。まだ聞いていない/今は聞けない/本人が今は言いたくない/安全のため書かない。
――次に見る日。
――誰が見るか。
四つだけ。
「これなら、現場で書けるかもしれません」
フィオナ司祭が頷いた。
「ええ。産婆院にはこちらが向いています」
バスティアンは、その短い紙を見ていた。
「“今は書かない欄”……」
「空欄のまま、ではなく」
リリアナは言った。
「今は書かない、と決めている欄です」
バスティアンは、ゆっくり頷いた。
「なるほど」
その一言には、先ほどまでの硬さが少し減っていた。
会議は、午後まで続いた。
昼食を挟むほどではなかったが、茶は何度か入れ替えられた。
バスティアンは最初、王宮事務方らしく正確性を重視していた。
だが、雨音の発言、雫の仮名、夜明けと灯りの記録、ノルの限定名の事例を聞くうちに、少しずつ表情が変わっていった。
彼は最後に、自分の通達案に大きく線を引いた。
「これは取り下げます」
リリアナは、思わずほっとした。
バスティアンは続ける。
「代わりに、空白分類票を登録局内で検討します。ただ、お願いがあります」
「何でしょう」
エレノアが尋ねる。
「王妃基金側から、実例に基づいた運用案を出していただけないでしょうか。登録局だけでは、保護空白と不正隠蔽空白の違いを現場へ説明しきれません」
エレノアは頷いた。
「出します。ただし、実例は仮名化し、本人情報は出しません」
「もちろんです」
バスティアンは、リリアナへ向き直った。
「リリアナ様。先ほどの“今は書かない欄”という表現を、使わせていただいてもよろしいでしょうか」
リリアナは驚いた。
「私の?」
「はい。登録局の者には、“保護空白”より伝わりやすいかもしれません。現場用の言葉として」
リリアナは少し戸惑い、エレノアを見た。
エレノアは静かに頷いた。
「よいのでは?」
「では……はい。使ってください」
「ありがとうございます」
バスティアンは深く礼をした。
それは、公爵令嬢への形式的な礼ではなく、言葉を借りる相手への礼に見えた。
会議が終わった後、リリアナはしばらく椅子に座ったままだった。
少し疲れた顔をしている。
エレノアは隣に座った。
「大丈夫?」
「はい。少しだけ、頭が重いです」
「今日は難しかったわね」
「空白って、こんなに種類があるんですね」
「ええ」
「前は、空白は全部埋めればいいと思っていました」
「私も、そう思いかけていた時期があるわ」
リリアナは少し驚いた。
「お姉様も?」
「ええ。王妃基金の不正を見た直後は、空欄があるだけで腹が立ったもの」
「今は?」
「今も、腹が立つ空欄はあるわ」
エレノアは言った。
「でも、雨音の父欄を見て、違う空白があると分かった」
リリアナは手帳を開いた。
今日の言葉を書き始める。
――空白には種類がある。
怠慢空白。確認すべき人が確認しなかった空白。
不正隠蔽空白。隠すための空白。
未確認空白。まだ確認できていない空白。
時期待ち空白。今は聞けない、後で見る空白。
保護空白。書かないことで守る空白。
そこで手を止め、もう一行。
――今は書かない欄。
リリアナは、その一文を見て少しだけ笑った。
「私の言葉が、登録局で使われるかもしれません」
「ええ」
「少し怖いです」
「言葉は、使われる場所で変わるから?」
「はい。ちゃんと使われるかなって」
「だから、運用案を一緒に出しましょう」
リリアナは頷いた。
その日の夕方、聖リディア産婆院へも短い連絡が送られた。
――父欄を含む未記入欄について、王妃基金と登録局で分類見直し中。産婆院では、現行通り「未聴取」「今は書かない欄」として扱い、母親へ無理に聞かないこと。支援は継続。
エダからの返答は短かった。
――承知しました。雨音、昼四口。雫、体温安定。夜明け、半椀。灯り、授乳少量。父欄について追加質問なし。今は聞かない欄として扱います。
リリアナは、その返答を読んで静かに息を吐いた。
「今は聞かない欄」
現場の言葉になり始めている。
夜、エレノアは正式報告を書いた。
――登録局補佐官バスティアンより、空欄削減通達案あり。母子仮登録における父名欄七日以内記入等の案は、産後母子支援に危険ありとして差し戻し。
――空白分類を提案。怠慢空白、不正隠蔽空白、未確認空白、時期待ち空白、保護空白。正式票と現場用簡易票を分ける。
――現場用表現として「今は書かない欄」を採用予定。空白を放置せず、理由、閲覧範囲、次回確認日または条件を記録する。
――登録局と共同で運用案を作成する。
付記。
――空白を全て埋めることが再建ではない。
――埋めるべき空白を埋め、守るべき空白を守り、まだ聞けない空白には次に見る日を置くこと。
――空白の扱いを誤れば、不正も保護も同じ紙の上で潰れる。
リリアナも、自分の報告を書いた。
――登録局の通達案で、父欄を七日以内に埋める案が出た。雨音さんのことを考えると危ないと思った。
――空白は全部悪ではない。でも、全部守ると言えば不正が戻る。
――空白を分類した。
――守る空白と、埋めるべき空白を分ける。
――今は書かない欄、という言葉を考えた。登録局で使われるかもしれない。怖いけど、少し嬉しい。
――聞かないことと、忘れることは違う。埋めることと、正しくすることも違う。
最後に、少し迷ってから書いた。
――私にも、今は書かない欄がある気がする。でも、いつか自分で見られるように、次に見る日だけは忘れたくない。
エレノアはそれを読んで、そっと紙を返した。
「これは、あなた自身の記録ね」
「書いてよかったですか」
「ええ」
「誰にも見せない欄にしたいです」
「それでいいわ」
リリアナは、自分の手帳を閉じた。
すべての空白を誰かに見せる必要はない。
けれど、自分が忘れないために書く空白もある。
王妃基金の書類ではない。
公爵家監督報告でもない。
リリアナ自身の、今は書かない欄。
その夜、聖リディア産婆院では、雨音が四口を食べ、雫を抱いた。
父欄は、まだ空いている。
夜明けと灯りの記録にも、まだ聞いていない欄がある。
だが、それらはもう、放置された空白ではない。
守るために空けてあり、次に見る条件が添えられている。
王妃基金は、空白を敵にしないことを学び始めた。
空白を言い訳にしないことも。
その両方ができなければ、再建はまた人を傷つける。
だから、空白にも名前をつける。
埋めるべき空白。
守る空白。
今は書かない欄。
その小さな分類が、母子の夜を少しだけ守っていた。




