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第83話 産婆院の夜間灯油

聖リディア産婆院へ夜間灯油が届いたのは、翌日の昼過ぎだった。


 夜ではない。


 そこを、エレノアはあえて確認した。


 夜間灯油という名だからといって、夜に運べばいいわけではない。

 北東区の細い道は、日が落ちると足元が悪い。

 灯油壺を積んだ馬車が石畳の欠けに車輪を取られれば、割れる危険がある。

 割れれば、油は無駄になるだけでなく、火の近い場所では危険にもなる。


 だから、昼に届ける。


 夜に使うものほど、昼のうちに整える。


 それは、王妃基金がこの数日で学んだ新しい原則だった。


 北翼の小会議室では、朝から夜間灯油の支援方法について話し合いが行われていた。


 リリアナは、机の上に置かれた小さな油壺の見本をじっと見つめている。


 茶色い陶器の壺。


 口は細く、栓には封印紐が付けられている。


 派手さはない。


 けれど、これが夜の産婆院で赤子の呼吸を見る灯りになる。


「灯油は、ただ渡せばいいものではありません」


 薬師マティアスが言った。


「火を扱います。赤子や産後の母親がいる場所では、置き場所、灯芯、換気、消火用の水まで確認が必要です」


 リリアナは、すぐに手帳を開いた。


「灯油、灯芯、換気、消火用の水……」


 書きながら、少し顔をしかめる。


「灯りを増やすと、危険も増えるんですね」


「はい」


 マティアスは頷いた。


「暗いと体調確認が遅れます。しかし、明るくするだけでは火事の危険が出ます」


「両方見る」


「そうです」


 リリアナは深く息を吐いた。


 最近、本当に何も一つでは済まない。


 布を届ければ洗濯が必要になる。

 薬草茶を止めれば代替が必要になる。

 名前を記録すれば閲覧権限が必要になる。

 灯りを届ければ火の管理が必要になる。


 支援は、物を届けた瞬間に終わらない。


 物が届いた後に、その物が安全に使われるところまで見なければならない。


 ヘンリクが費用表を出した。


「灯油を一か月分まとめて届ける案もありますが、保管場所の問題があります。初回は七日分が妥当かと」


「七日分では、またすぐ手配が必要になります」


 リリアナが言うと、ヘンリクは頷いた。


「はい。ただし、初回で使用量を見ます。必要量が確定しないうちに多く届けると、余りや流用、保管事故が起きます」


 流用。


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ引き締まった。


 王妃基金は、不正を経験している。


 善意の物資も、使い道が曖昧なら別の場所へ流れる。


 だが、流用という言葉だけで現場を疑いすぎるのも違う。


 リリアナは、少し考えてから言った。


「使いすぎを疑うためではなく、必要量を知るための七日分、ですね」


 ヘンリクは、少し驚いたようにリリアナを見た。


 それから、穏やかに頷く。


「はい。その表現がよいと思います」


 エレノアも記録へ加えた。


 ――初回支援は七日分。目的は節約監視ではなく、必要量把握と安全確認。


 カインが短く言う。


「灯りをけちるな。ただし、火を甘く見るな」


 相変わらず簡潔だった。


 リリアナはそれも手帳に書いた。


 ――灯りをけちるな。火を甘く見るな。


 この言葉は、そのまま現場にも伝わりそうだと思った。


 ただし、少し怖い。


 産婆院の壁に貼ったら、全員が背筋を伸ばしそうだ。


「現場用には、もう少し柔らかくした方がいいですか?」


 リリアナが聞くと、マティアスが少し笑った。


「そうですね。産婆院では“必要な時は灯し、使った後は必ず消す”くらいがよいでしょう」


「それなら分かりやすいです」


 リリアナは新しい紙に書いた。


 ――必要な時は灯す。使った後は必ず消す。

 ――赤子の呼吸、母親の顔色、出血、熱を見る時は、灯りを惜しまない。

 ――灯したら、水と砂を近くに置く。

 ――灯油壺は火のそばに置かない。

 ――夜ごとに、使った量と困ったことを書く。


 書き終えて、彼女は少し迷った。


「長い?」


 ロウ夫人がいれば、すぐ「長い」と言いそうだ。


 しかし、今日同席していたマルタが先に答えた。


「五項目なら、現場にも貼れます」


「よかった」


 エレノアが紙を受け取り、確認した。


「“困ったこと”の欄がよいわね。使用量だけだと、少なく使った者が褒められると思うかもしれない」


「少なく使えばいいわけじゃないから」


「ええ」


 夜間灯油確認表には、次の欄が作られた。


 日付。

 使用時間。

 使用場所。

 理由。

 残量。

 困ったこと。

 次に見る日。


 また新しい表だ。


 けれど、これも必要な表だった。


 昼過ぎ、第二便は予定通り北翼を出た。


 灯油壺は三つ。


 灯芯の束。


 小さな砂袋。


 消火用の水桶を置くための木枠。


 夜間灯油確認表。


 現場用の短い注意書き。


 そして、母子仮名記録の短縮説明文。


 今回は、マティアスの補佐薬師と、基金事務官補佐、護衛二名が同行した。


 フィオナ司祭は別件で救貧院へ向かっていたため、産婆院側の受け取りはエダ産婆が担当する。


 北翼から聖リディア産婆院までは、昼の道なら半刻と少し。


 石畳の悪い場所を避け、荷が揺れすぎないよう、馬車はゆっくり進んだ。


 産婆院に着くと、エダはすぐに灯油壺の置き場所を確認した。


「今までは、この棚の下に置いていました」


 案内された場所は、水場に近いが、煮沸鍋の火からも近かった。


 マティアスの補佐薬師が首を横に振る。


「火に近すぎます。別の場所へ」


「ただ、離すと夜に取りに行きにくい」


 エダは困った顔をした。


「産婆が一人で夜番をする時もあります。遠いと、それはそれで使われなくなります」


 その指摘は現実的だった。


 安全だからと遠くに置けば、必要な時に取りに行かなくなる。


 近すぎれば危ない。


 ちょうどよい場所を探さなければならない。


 補佐薬師とエダは、院内を見て回った。


 入口近くは寒すぎる。


 水場横は火に近い。


 母子室の中は匂いが気になる。


 結局、廊下の曲がり角にある小さな戸棚を空けることになった。


 そこなら火から離れ、夜番の者もすぐ取れる。


 戸棚には鍵をかけず、代わりに封印紐と残量札を付ける。


 鍵をかけると、急ぐ時に使えないからだ。


 ただし、誰がいつ使ったかは表に書く。


 エダは、戸棚を見ながら言った。


「鍵をかけないのに、記録はする。……なるほど」


「使えなくなるほど守っても意味がありません」


 補佐薬師が言う。


「でも、誰も見ていないと危ない」


「ちょうど真ん中ですね」


 エダは疲れた顔で笑った。


「産婆の仕事も、だいたい真ん中探しです」


 その夜、聖リディア産婆院では、新しい灯りの運用が始まった。


 灯油壺は戸棚に置かれた。


 水桶と砂袋は、各小部屋の入口近くに置かれた。


 灯芯は短めに切り揃えられた。


 そして、夜間灯油確認表が壁に貼られた。


 ――必要な時は灯す。使った後は必ず消す。


 エダは、その一文を指でなぞった。


「分かりやすいね」


 見習いのニナが頷く。


「でも、使った量を書くの、忘れそうです」


「忘れたら、忘れたと書く」


「それも書くんですか」


「書くんだよ。忘れたことが分からない方が困る」


 ニナは少し目を丸くした。


 王妃基金の考え方が、少しずつ産婆院へ染み込んでいく。


 失敗を隠すのではなく、次に見るために書く。


 夜半、最初に灯りが使われたのは、夜明けと灯りの小部屋だった。


 灯りが、浅く泣いた。


 赤子の泣き声は、強い時もあれば弱い時もある。


 その夜の声は、細かった。


 ニナが慌てて灯りを持ってきた。


 以前なら、廊下の小さな灯りだけで確認していたという。


 だが今日は、部屋の中にきちんと灯した。


 黄色い光が、保温布にくるまれた灯りの顔を照らす。


 夜明けは、寝台の上で半身を起こしていた。


 顔色は悪い。


 ただ、昨日より目には力があった。


「どうしたの」


 声は掠れている。


 エダが灯りを覗き込んだ。


「少し冷えたかね。布を直そう」


 灯りの口元、呼吸、手足の色。


 暗ければ見落としたかもしれない細かなところを、エダは素早く確認した。


 熱はない。


 呼吸も弱すぎるわけではない。


 保温布が少しずれていた。


 灯りを直し、母のそばへ寄せる。


「大丈夫。布がずれていただけだ」


 夜明けの肩から力が抜けた。


「灯り、つけてくれたんだ」


「ああ。今日から、必要な時は灯すことになった」


「油、高いんでしょ」


 夜明けが言う。


 エダは少し眉を上げた。


「高いよ」


 正直だった。


「でも、必要な時は使う。そういう支援だ」


「使いすぎたら怒られる?」


「使い方を書けばいい。赤子の呼吸を見るためなら怒られない」


 夜明けは、黙って灯りの顔を見た。


 小さな光の中で、赤子の頬がほんのり赤く見える。


 夜明けの目に、少しだけ涙が浮かんだ。


「見える……」


 その一言を、ニナは壁際で聞いた。


 すぐに確認表へ書く。


 日付。

 夜半。

 使用場所、母子室二。

 理由、子の泣き声、保温布ずれ確認。

 残量、少量使用。

 困ったこと、灯芯が少し長く煙が出た。

 次に見る、明朝灯芯長さ確認。


 字は少し拙い。


 だが、ちゃんと書かれていた。


 灯油を使ったことだけではない。


 煙が出たことも書いた。


 それが、次の改善になる。


 翌朝、聖リディア産婆院からの夜間灯油初回報告が王妃基金へ届いた。


 エレノアは、リリアナと一緒にそれを読んだ。


 ――夜間灯油初回使用。母子室二にて使用。子仮名「灯り」の泣き声により保温布ずれ確認。灯りを用いたため呼吸、顔色、手足の冷えを確認しやすかった。大きな異常なし。

 ――困ったこと。灯芯が長く、煙が出た。朝、灯芯長さを調整予定。

 ――母仮名「夜明け」より、「見える」と発言あり。油の高価さを気にする様子あり。必要時使用の説明を継続。


 リリアナは、最後の方を何度も読んだ。


「“見える”……」


「ええ」


「ただ明るいってことじゃないんですね」


「そうね」


 見える。


 赤子の顔が見える。


 呼吸が見える。


 布のずれが見える。


 母親が安心する。


 それは、ただ灯油を消費したという記録ではなかった。


 灯りが、次の判断を支えた記録だ。


 リリアナは手帳に書いた。


 ――灯りは、安心のためだけではなく、確認のため。

 ――見える、という支援。


 マティアスは報告を読み、すぐに技術的な指示を出した。


「灯芯が長いと煙が出ます。赤子の部屋ではよくない。灯芯の適正長さ見本を付けましょう」


「焼き色見本みたいですね」


 リリアナが言うと、マティアスは一瞬きょとんとした。


 エレノアが少し笑った。


「調理場の焼き菓子です」


「ああ。似ていますね。感覚だけにせず、見本を作る」


 また一つ、別の現場の学びがつながった。


 灯芯見本。


 長すぎ、適正、短すぎ。


 長すぎると煙。

 短すぎると暗い。

 適正だと、少ない油で安定して灯る。


 リリアナは、すぐに表に足した。


 ――灯芯見本を作成。長すぎ、適正、短すぎ。


 ヘンリクは、使用量欄を見ていた。


「初回使用量は想定内です。ただ、母親が油の高価さを気にしている点は重要です」


「使い控えますか?」


 リリアナが尋ねる。


「その可能性があります。現場に“節約は必要だが、確認を妨げない”ことを繰り返し伝えるべきです」


 リリアナは少し考えた。


「“油を大事にすることと、暗いまま我慢することは違う”では?」


 エレノアが頷いた。


「よいわね」


 現場用の文に追加された。


 ――油を大事に使うことと、暗いまま我慢することは違います。


 リリアナは、その一文を見て少しだけ胸が痛くなった。


 同じ構造だ。


 古い毛布を大事にすることと、寒いまま我慢することは違う。

 節約することと、菓子の質を落とすことは違う。

 油を大事にすることと、暗いまま我慢することは違う。


 何度も、同じところに戻る。


 でも、戻るたびに別の場所で役に立つ。


 昼前、産婆院へ第三便ではなく、伝令だけが出た。


 物資は運ばない。


 文書と灯芯見本のみ。


 馬車ではなく、護衛付きの小さな伝令で十分だった。


 距離も天候も問題ない。


 必要以上に大きな動きをしない。


 これもまた、支援を目立たせすぎないためだった。


 午後になると、産婆院から追加の短い報告が来た。


 ――灯芯見本、受領。見習いニナ、適正長さを確認。

 ――夜明けへ「油を大事にすることと、暗いまま我慢することは違う」と説明。本人、頷く。

 ――灯り、午前体温安定。授乳少量。

 ――他の母親一名より、仮名記録説明文を読みたいとの希望あり。


 リリアナは、その最後の一行に目を留めた。


「他の母親も?」


「ええ」


 エレノアは静かに頷いた。


「一人に届いた仕組みは、別の人にも必要になることがある」


「仮名記録、広がりますね」


「だから、慎重に整える必要があるわ」


 リリアナは、少し背筋を伸ばした。


 夜明けと灯りだけの話ではなくなってきた。


 産婆院には、他にも名乗りにくい母親がいる。


 あるいは、今は名乗れていても、事情を広げたくない人がいる。


 仮名記録と夜間灯油は、別々の支援のようで、同じ場所に届いている。


 暗い部屋で名を隠している人に、灯りと紙を届ける。


 それが今の王妃基金の仕事だった。


 夕方、王妃基金の小会議では、夜間灯油支援を七日間の試行として正式に記録した。


 エレノアが読み上げる。


 ――聖リディア産婆院夜間灯油支援、七日間試行。目的は夜間の母子体調確認、助産道具管理、急変時対応。灯油の節約を求めるが、必要な確認を妨げない。使用量、理由、困ったことを記録。初回困りごととして灯芯長さによる煙を確認し、灯芯見本を追加。

 ――油を大事にすることと、暗いまま我慢することは違う。


 カインが、最後の一文で少し目を動かした。


「誰の言葉だ」


「リリアナです」


 エレノアが答える。


 リリアナは少し緊張した。


 カインは短く言った。


「よい。現場に残せ」


「はい」


 リリアナは小さく頷いた。


 その夜、北翼で一日の記録を閉じる前に、リリアナは自分の報告を書いた。


 ――夜間灯油が昼に届いた。夜に使うものほど、昼のうちに整える。

 ――灯油は、明るくするだけではなく、火の危険もある。置き場所、水、砂、灯芯が必要。

 ――初回使用は、灯りさんの保温布ずれ確認。夜明けさんが「見える」と言った。

 ――油を大事にすることと、暗いまま我慢することは違う。

 ――灯芯も見本がいる。焼き菓子の焼き色と同じで、感覚を記録にする。

 ――支援は、物を届けるだけでなく、安全に使えるところまで見る。


 最後に、少し迷ってから一文を足した。


 ――灯りさんの仮名と、本当の灯りが重なって、少し泣きそうになった。でも、記録では分ける。


 エレノアはそれを読んで、静かに頷いた。


「感情と必要性を分けられているわ」


「難しいです」


「ええ」


「でも、分けないと、灯油支援がただの綺麗な話になってしまう気がして」


「その通りよ」


 リリアナは手帳を閉じた。


 少し疲れた顔をしていたが、昨日よりも落ち着いている。


 聖リディア産婆院では、その夜も灯りが使われた。


 長すぎた灯芯は切り揃えられ、煙は少なくなった。


 夜明けは、油の壺を気にして何度か視線を向けたが、エダに「必要な時は使う」と言われ、黙って頷いた。


 灯りは、保温布の中で小さく眠っている。


 壁には、新しい紙が貼られていた。


 ――必要な時は灯す。使った後は必ず消す。

 ――油を大事にすることと、暗いまま我慢することは違います。


 その文字は、飾り気がない。


 けれど、夜の部屋で読むには十分だった。


 灯りは、ただ明るくするためだけにあるのではない。


 見落とさないためにある。


 我慢を美徳にしないためにある。


 そして、名を出せない母と、まだ仮の名で眠る子を、次の朝へつなぐためにある。

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