表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/142

第81話 王妃基金、次の支援先候補

 焼き菓子の焼き色見本が調理場に貼られた翌日、王妃基金の机には、まったく別の種類の紙が積まれていた。


 甘い香りはない。


 代わりに、湿った羊皮紙と、古いインクと、急いで書かれた文字の匂いがする。


 支援申請書。


 春挨拶会が終わり、公爵家の噂が一段落し始めたころ、王妃基金には新しい申請が増えていた。


 理由ははっきりしている。


 王妃基金が止まらなかったからだ。


 不正が裁かれ、夫人会が揺れ、公爵家が監督下に置かれ、王太子府も再教育中。


 それでも孤児院の屋根は直り、救貧院へ麦と薪は届き、薬草茶は配布前に止められ、使用人宿舎にも暖房費という欄ができた。


 王都の人々は見ている。


 貴族たちが笑っていても、現場は別の目で見ている。


 あの基金は、まだ動くのか。


 声を出せば、今度は届くのか。


 そう思った者たちが、申請書を持ってくる。


 だから、机の上に紙が増えた。


 エレノアは、その山を前にして静かに息を吐いた。


「増えましたね」


 リリアナが隣で言った。


 手帳はすでに開いている。


 以前なら、紙の山を見ただけで逃げたくなっていたかもしれない。


 今は、怖そうな顔をしながらも、逃げる姿勢ではなかった。


「ええ。ここからが本来の王妃基金よ」


「今までのは本来ではなかったの?」


「再建と緊急対応が中心だったわ。これからは、限られた財源で次にどこを支援するかを選ぶことになる」


「選ぶ……」


 リリアナは、その言葉を重そうに繰り返した。


「全部は無理?」


「無理ね」


 エレノアは即答した。


 優しく言い換えなかった。


 全部は無理。


 それが支援の現実だ。


 誰かを選ぶということは、誰かを後回しにすることでもある。


 その痛みを曖昧にしてはいけない。


 小会議室には、王妃基金の副責任者たちが集まりつつあった。


 基金事務官ヘンリク。

 フィオナ司祭。

 ロウ夫人。

 薬師マティアス。

 夫人会からデリア夫人とミリアム夫人。

 法務官補佐イザーク。

 記録係オスカー。

 そして王家監督者としてカイン。


 いつもの顔ぶれに近い。


 だが、今日の空気は少し違った。


 何かを直す会議ではない。


 これから何を見るかを決める会議だ。


 ヘンリクが最初に資料を配った。


「新規支援申請は、現在二十七件です。そのうち、緊急性ありと判断されたものが六件。継続審査が必要なものが十一件。情報不足が十件」


 リリアナは、思わず数字を書き写した。


 二十七件。


 緊急六件。


 継続十一件。


 情報不足十件。


 数字だけなら冷たい。


 けれど、その一件一件に人がいる。


 名前があるかもしれない。


 仮名かもしれない。


 名乗れない者かもしれない。


 ロウ夫人が資料をめくり、早速眉を寄せた。


「情報不足が多いですね」


「はい」


 ヘンリクは少し困った顔をした。


「申請書の形式が整っていないものが多く、支援対象、人数、必要物資、支援済みの有無が不明瞭です」


 フィオナ司祭が静かに言う。


「形式が整っていないからといって、必要がないとは限りません」


「承知しています。ですので、本日は形式だけで落とすのではなく、聞き取り優先度も決めたいと思います」


 リリアナは、そのやり取りを聞いて手帳に書いた。


 ――書き方が下手でも、困っていないとは限らない。


 当たり前のことなのに、すぐ忘れそうになる。


 綺麗な申請書は読みやすい。


 でも、困っている人ほど綺麗に書けないかもしれない。


 エレノアは、机の中央に三つの札を置いた。


 赤。緊急確認。

 黄。早期聞き取り。

 青。通常審査。


「今日は、支援決定ではなく、確認の順番を決めます」


 カインが短く頷いた。


「よい。決定を急ぐと、声の大きい申請が勝つ」


 リリアナは顔を上げた。


「声の大きい申請?」


 ミリアム夫人が説明した。


「立派な紹介状がついている申請、貴族の推薦がある申請、社交界で目立つ申請ですわ。そういうものは、放っておいても机の上で大きく見えます」


「でも、本当に急ぐとは限らない」


「ええ」


 デリア夫人が静かに続けた。


「逆に、字が震えていて、推薦者もなく、紙も汚れている申請が、本当に今夜困っていることもあります」


 リリアナは、机の上の紙束を見た。


 綺麗な紙。


 汚れた紙。


 厚い紹介状。


 薄いメモ。


 同じ山の中に、全部ある。


 最初に上がった申請は、ひどく立派なものだった。


 王都西区の貴族未亡人会からの申請。


 内容は、戦没騎士の遺族を慰める春の追悼式への補助金。


 推薦者は三名の高位貴族。


 式典には王妃基金の名を掲げたいとある。


 紙は美しく、文章も整っている。


 リリアナは読んで、少し首を傾げた。


「悪い申請ではないですよね」


「悪くはありません」


 エレノアが答える。


「戦没騎士の遺族支援は重要です。ただし、この申請は式典費が中心です」


 ヘンリクが数字を示す。


「花代、席設営、音楽家謝礼、慰問冊子の印刷費が主です。遺族への直接支援は全体の二割程度」


 リリアナの眉が動いた。


「花代……また」


 ミリアム夫人が小さく笑う。


「花はどこにでも現れますわね」


 フィオナ司祭は静かに言った。


「追悼に花が不要とは言いません。ただ、王妃基金の支援として優先すべきかは別です」


 エレノアは札を置いた。


 青。


「通常審査。必要なら、式典費ではなく遺族への直接支援に組み替えを提案します」


 リリアナは頷いた。


 立派な申請書でも、すぐ赤ではない。


 次は、東市場の共同井戸修繕申請だった。


 紙は粗い。


 字も急いでいる。


 推薦者は市場組合の小さな印のみ。


 内容は、共同井戸の滑車が壊れ、近くの洗濯場と小商いの家々が水運びに苦労しているというもの。


 ただし、王妃基金が井戸修繕まで扱うべきかは微妙だ。


 水路管理は本来、市場組合と市政の管轄である。


 ヘンリクが言う。


「王妃基金の目的からは少し外れます。ただ、井戸が使えないことで、近隣の幼い子どもを抱える母親や高齢者に負担が出ているとの記載があります」


 ロウ夫人が紙を覗き込んだ。


「水運びは、すぐ体に来ます。特に冬明けは足元も悪い」


 フィオナ司祭も頷く。


「救貧院にも、東市場近くから水運びで腰を痛めた女性が来ました」


「なら、王妃基金として直接修繕するのではなく、市場組合と市政へつなぐ?」


 リリアナが言うと、エレノアは少し目を細めた。


「よい考えね」


 リリアナは少し嬉しそうになり、すぐ戻った。


 エレノアは続ける。


「王妃基金が全額を出す案件ではない。ただし、影響を受けている弱い立場の者がいるなら、橋渡し支援はできる。黄、早期聞き取り。市政担当へ照会」


 黄札が置かれた。


 次は、救貧院からの追加申請だった。


 内容は、臨時雇用希望者の増加に伴う木箱修繕作業場の拡張。


 ノルのように、短時間でも働きたい者が増えている。


 しかし、作業場が狭く、道具も足りない。


 支援物資ではなく、仕事へつなげるための整備が必要だという。


 リリアナは、すぐに身を乗り出した。


「これは、必要だと思います」


 言ってから、少しだけ止まる。


 ノルを知っているから、そう思うのか。


 個人的な思い入れが判断を早めていないか。


 それを自分で疑った。


「……でも、私がノルさんの件を知っているから、急いで見えているかもしれません」


 フィオナ司祭が微笑んだ。


「それは良い自覚です」


 ヘンリクは数字を出した。


「臨時雇用希望者は実際に増えています。作業場拡張と道具整備は、支援を一度きりの配布で終わらせない効果があります。ただし、管理者が不足しています」


 ロウ夫人が問う。


「管理者不足のまま広げると、怪我が出ます」


「その通りです」


 エレノアは考えた。


「赤ではなく黄。早期聞き取り。ただし、道具数、管理者、怪我防止、賃金記録、仮名労働者の限定記録との接続を確認します」


 リリアナは頷いた。


 すぐ支援したい。


 でも、広げるなら安全も必要だ。


 ノルが働ける場所を増やしたいなら、ノルのような人が怪我をしない仕組みも要る。


 次に出てきた申請は、場の空気を変えた。


 紙は薄く、端が濡れたように波打っている。


 字は丁寧だが、ところどころインクが滲んでいた。


 差出人は、王都北東区の小さな産婆院。


 正式名称は「聖リディア産婆院」。


 エレノアは、その名を見た瞬間、少しだけ目を止めた。


「聖リディア……」


 フィオナ司祭も顔を上げる。


「そこから来ましたか」


 リリアナは二人を見た。


「知っている場所ですか?」


 フィオナ司祭が答える。


「救貧院へ来る女性の中に、そこで出産した方が何人かいます。貧しい母親や、家族に頼れない妊婦を受け入れている小さな院です」


 ヘンリクが申請内容を読み上げた。


「内容は、夜間用の保温布、清潔な寝具、産後の母親用の薄い粥の材料、助産道具の煮沸鍋の更新、産声を上げた子の仮登録紙の不足」


 リリアナは、最後の言葉に反応した。


「仮登録紙?」


 フィオナ司祭が説明する。


「生まれた子の名前がすぐ決まらない場合や、父親が不明、母親が名乗れない場合に、医療と保護のため一時的に記録する紙です」


「赤ちゃんにも仮名記録があるの?」


「あります。むしろ、とても大事です。名前がない間も、薬や栄養の記録をつなぐ必要がありますから」


 リリアナは、胸がぎゅっとなった。


 名前がまだない赤子。


 名乗れない母親。


 仮登録紙。


 ノルの時とは違う。


 だが、同じ線でつながっている。


 名前がなくても、次につなぐ記録が必要だ。


 ヘンリクは続けた。


「申請額は大きくありません。ただし、産婆院は正式な王立施設ではなく、教会系の小規模施設です。支援継続の根拠確認が必要です」


 マティアスが紙を見た。


「煮沸鍋の更新は急いだ方がよい。助産道具の衛生に関わります」


 フィオナ司祭の顔も少し険しい。


「保温布不足も、夜間の新生児には危険です」


 ロウ夫人が短く言った。


「赤です」


 エレノアは頷いた。


「赤。緊急確認」


 赤札が置かれた。


 リリアナは、喉が少し乾いた。


 赤札。


 今日初めての赤。


 目立つ追悼式ではなく、汚れた紙の産婆院。


 花代ではなく、保温布と煮沸鍋。


 ここで王妃基金の本質が見える気がした。


「今日、確認に行くのですか?」


 リリアナが尋ねた。


 エレノアは時間を確認した。


「午後に人を出します。場所は北東区。ここから馬車で片道半刻以上。今から全員で行く必要はありません」


 カインが言った。


「緊急確認班を組め。エレノアが毎回出るな」


 まっすぐ刺してきた。


 エレノアは一瞬黙ったが、頷いた。


「……副責任者制ですね」


「そうだ」


 フィオナ司祭が申し出た。


「私が行きます。産婆院側とも話しやすいでしょう」


 マティアスも続ける。


「衛生面確認のため、私も同行します」


 ヘンリクが言った。


「費用見積もりの確認に、基金事務官補佐を一名出します」


 リリアナは、少しだけ前へ出た。


「私も……」


 言いかけて、止まった。


 行きたい。


 自分の目で見たい。


 でも、今日すぐ行く必要が自分にあるのか。


 産婆院。


 出産直後の母子。


 名乗れない女性たち。


 そこに公爵令嬢が行くことが、かえって負担になるかもしれない。


 リリアナは、手を握った。


「私は、行かない方がいいですか?」


 自分で聞けた。


 エレノアは優しくも厳しく答えた。


「初回確認には行かない方がいいわ。まず、フィオナ司祭とマティアスが状況を見る。あなたが行くのは、受け入れ側が望み、必要がある時」


 リリアナは少し残念そうにした。


 でも、頷いた。


「分かりました。行きたい気持ちと、行くべきかは別」


「ええ」


 手帳に書く。


 ――見たい気持ちと、行くべきかは別。


 成長とは、こういう小さな自制の積み重ねなのかもしれない。


 その後も申請確認は続いた。


 王都南端の老女共同住居からの薪申請。黄。


 傷痍兵の義足修理費。黄、医療院へ照会。


 孤児院卒業者の奉公先衣類一式。青、ただし人数確認。


 夫人会推薦の大規模慰問音楽会。青、直接支援比率が低く再設計要求。


 水路沿いの洗濯場屋根補修。黄、共同井戸案件と関連確認。


 申請はどれも、誰かの困りごとだった。


 だが、王妃基金がすぐ手を出せるものばかりではない。


 管轄が違うもの。


 情報が足りないもの。


 紹介状だけが立派なもの。


 支援より式典が中心のもの。


 急ぐべきもの。


 急ぎたくなるが、確認が必要なもの。


 リリアナは途中で、少し苦しそうに言った。


「選ぶの、嫌ですね」


「ええ」


 エレノアは答えた。


「でも、選ばないと、声の大きい順になります」


「それはもっと嫌です」


「だから、基準を作る」


 リリアナは赤、黄、青の札を見た。


 冷たい札。


 でも、それがなければ全部が感情になる。


 赤札の産婆院。


 黄札の救貧院作業場。


 青札の追悼式。


 どれも「大事」と言える。


 でも、今日どこから見るかは違う。


 昼過ぎ、緊急確認班が出発した。


 フィオナ司祭、薬師マティアス、基金事務官補佐、護衛二名。


 北東区までは馬車で向かう。


 帰着は夕方前の予定。


 エレノアは、彼らを見送った。


 リリアナも隣にいた。


 馬車が門を出ていく。


 リリアナは、しばらくその背を見つめていた。


「私は待つんですね」


「ええ」


「待つの、苦手です」


「知っているわ」


「でも、今日は待ちます」


 リリアナは小さく息を吸った。


「戻ってきた報告を、ちゃんと読みます」


 それも仕事だ。


 行かないから何もしないのではない。


 待って、読む。


 必要なら文面を直す。


 支援決定に参加する。


 それが今日のリリアナの役割だった。


 午後の間、エレノアたちは残りの申請を整理した。


 リリアナは何度も産婆院のことを考えたが、無理に口に出さなかった。


 その代わり、仮登録紙についてフィオナ司祭の過去資料を読み直した。


 名前のない赤子。


 母親の仮名。


 医療記録。


 閲覧範囲。


 ノルの限定記録が、ここでも役に立つかもしれない。


 夕方、緊急確認班が戻った。


 予定より少し遅かった。


 馬車の車輪が北翼前に止まる音を聞いた瞬間、リリアナは立ち上がりかけ、すぐ座り直した。


 焦らない。


 報告を待つ。


 フィオナ司祭の顔は、少し疲れていた。


 マティアスは険しい表情で書類を抱えている。


 エレノアは、彼らを小会議室へ迎えた。


「報告をお願いします」


 フィオナ司祭は座る前に、短く言った。


「赤の判断で間違いありません」


 部屋の空気が締まった。


 マティアスが続ける。


「煮沸鍋は、底が薄くなっています。使用は可能ですが、長くはもちません。助産道具の煮沸に不安があります。保温布も不足。夜間に二組の母子が同室で過ごしており、清潔な寝具が足りない」


 フィオナ司祭は、さらに報告した。


「仮登録紙は残り三枚。昨夜、名前を出せない母親が一人出産しています。赤子は無事ですが、母親は自分の本名も子の名もまだ記録したくないと言っています」


 リリアナの胸が詰まった。


 昨夜。


 自分が焼き菓子の焼き色を記録していた頃、北東区の小さな産婆院で、名乗れない母親が子を産んでいた。


 どちらも同じ王都の中だ。


 遠いようで、半刻少しの距離。


 それが急に近く感じた。


 ヘンリクが問う。


「必要支援は?」


 マティアスが紙を出した。


「即時。煮沸鍋一つ。清潔な保温布十組。産後粥用の穀物と塩。仮登録紙の追加。寝具洗浄用の石鹸。中期。水場の棚補修、夜間灯油の安定供給、助産記録の様式整備」


「金額は?」


 事務官補佐が答える。


「緊急分は、王妃基金の小口緊急枠で対応可能です。中期分は追加審査が必要です」


 エレノアは迷わなかった。


「緊急分を承認します。今夜中に手配できるものは?」


「保温布と穀物、石鹸は倉庫から出せます。煮沸鍋は王家医療院の予備を一時貸与可能です。仮登録紙は、保護記録室で増刷できます」


 イザークが言った。


「仮登録紙の様式は、限定記録制度と接続させましょう。母親が名乗れない場合、母子両方の公開範囲を分ける必要があります」


 リリアナが手を上げた。


「説明文も必要だと思います」


 全員が彼女を見る。


 リリアナは少し緊張しながら言った。


「母親に、“名前を書かないと支援できない”と思わせないように。でも、“何も記録しない”と医療がつながらない。だから、仮名でも記録できること、どこまで誰が見るかを短く説明する紙が必要だと思います」


 フィオナ司祭が頷いた。


「必要です」


 エレノアも言った。


「リリアナ、草案を作れる?」


「はい」


 リリアナはすぐに紙を引き寄せた。


 少し考え、書き始める。


 ――名前を今すぐ決められなくても、支援を受けられます。

 ――母親の名前、子の名前は、仮名でも記録できます。

 ――記録は、薬、食事、体調、次の確認をつなぐために使います。

 ――本名や事情を、許可なく広げません。

 ――後で名前を変えたい時は、担当者に伝えてください。


 書き終えると、リリアナは紙を見せた。


「赤ちゃん、という言葉を入れるべきか迷いました」


 フィオナ司祭は読み、静かに言った。


「このままでよいと思います。母親本人に向けた文として、落ち着いています」


 マティアスが一部を指した。


「薬の記録だけでなく、体重や授乳の記録もあります。“薬、食事、体調”で十分ですが、産婆院には別紙で詳しく」


「はい」


 イザークも頷いた。


「“許可なく広げません”はよい表現です。法務文ではありませんが、伝わります」


 リリアナは少しだけほっとした。


 赤札の支援が、すぐ形になっていく。


 煮沸鍋。


 保温布。


 粥の材料。


 石鹸。


 仮登録紙。


 説明文。


 どれも、派手ではない。


 だが、今夜必要なものだ。


 エレノアは決定を書いた。


 ――聖リディア産婆院、緊急支援承認。物資は今夜第一便。煮沸鍋は王家医療院予備を一時貸与、後日購入手配。保温布十組、穀物、塩、石鹸、仮登録紙追加。母子仮名記録説明文を添付。中期支援は別途審査。


 カインが静かに言った。


「よい。目立つ式典より、今夜の煮沸鍋だ」


 その一言で、リリアナの中に今日の会議がまとまった。


 目立つ式典より、今夜の煮沸鍋。


 花でもなく、音楽でもなく、金の縁取りでもなく。


 今夜、誰かが産む場所で湯を沸かす鍋。


 それが、王妃基金の赤札だった。


 夜、第一便が北東区へ向かった。


 行くのは、物資輸送担当と護衛、フィオナ司祭の補佐。


 リリアナは、やはり見送った。


 馬車には、保温布と穀物袋、石鹸、仮登録紙、そして借り受けた煮沸鍋が載っている。


 月明かりの下で、鍋の金属が鈍く光った。


「地味ですね」


 リリアナが言った。


 隣のエレノアが頷く。


「ええ」


「でも、すごく大事」


「ええ」


「王妃基金って、こういうものなんですね」


 エレノアは、少しだけ目を細めた。


「そうありたいわ」


 リリアナは手帳を開いた。


 暗いので字は少し歪んだが、それでも書いた。


 ――目立つ式典より、今夜の煮沸鍋。

 ――名前がなくても、支援をつなぐ。

 ――行きたい気持ちと、行くべきかは別。今日は待って、読む役だった。

 ――王妃基金は、地味なものを地味なまま大事にする。


 書き終えると、馬車は門の外へ消えていた。


 王都北東区までは、夜道で半刻以上。


 今夜のうちに届く。


 そして、どこかの小さな産婆院で、湯が沸く。


 それを想像した時、リリアナは少しだけ胸が温かくなった。


 菓子の焼き色も大事だった。


 ドレスの刺繍も、花籠を断る記録も、噂の分類も大事だった。


 でも、王妃基金の机には、もっと直接的な夜がある。


 今夜、必要な鍋。


 今夜、必要な布。


 今夜、まだ名前のない子を記録する紙。


 その支援先候補は、もう候補ではなくなった。


 最初の赤札として、動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ