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第68話 王太子、知らない義務を学ぶ

 王太子府の机に、開封されていない封筒が一つ置かれていた。


 白い封筒だった。


 封蝋には、王妃基金の仮印と、保護記録担当者の細い確認線が入っている。


 表には、こう書かれていた。


 ――限定記録。

 ――閲覧段階、第三段階以上。

 ――開封には理由記録が必要。


 ユリウスは、その封筒をしばらく見つめていた。


 封筒は黙っている。


 当然だ。


 紙なのだから。


 だが、その沈黙がやけに重かった。


 王太子府再教育の今日の課題は、限定記録と閲覧権限。


 つまり、「知らない義務」を学ぶ日だった。


 以前のユリウスなら、その言葉を聞いて首を傾げただろう。


 王太子が知らないことを選ぶ?


 民を守る立場の者が?


 国の中枢にいる者が?


 むしろ、できる限り知るべきではないのか。


 そう思ったはずだ。


 実際、今も半分はそう思っている。


 知らなかったから、王妃の療養薬は見落とされた。


 知らなかったから、ダリウスに利用された。


 知らなかったから、王妃基金の不正も、夫人会の別口資金も、リリアナの偽署名も見逃した。


 知らないことは罪に近い。


 少なくとも、ユリウスにとってはそうだった。


 けれど、今朝ローレンは言った。


「殿下。本日は、知らないことを学んでいただきます」


 その言葉の意味を、ユリウスはまだ完全には飲み込めていない。


 執務室には、ローレン、王家教育官、法務官補佐イザーク、そして王妃基金側からエレノアがいた。


 リリアナも同席している。


 彼女は今日、正式な講師ではない。


 だが、ノルの仮名記録に立ち会った者として、説明補助を任されていた。


 リリアナは少し緊張しているようだった。


 手帳を膝に置き、開いたり閉じたりしている。


 ユリウスはそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 自分だけが緊張しているわけではない。


 エレノアが、机の上の封筒を指した。


「殿下。本日の課題です。この封筒には、ある支援対象者の限定記録が入っています」


「ノルのものか」


「その可能性があります」


 ユリウスは眉を寄せた。


「可能性?」


「殿下に、その確定情報は不要です」


 最初から刺してくる。


 ユリウスは少し苦い顔をした。


「なるほど」


 リリアナが小さく手帳に何かを書いた。


 たぶん「不要です」とか書いているのだろう。


 エレノアは続けた。


「想定状況を説明します。聖クララ縫製所の臨時雇用支払いに関し、王太子府の会計補助が、支払い番号K-17の身元情報閲覧を申請しました。理由は、賃金支払いの正当性確認および過去雇用記録との重複照合です」


「それはローレンの申請と同じだな」


「はい。実例を元にした訓練です」


 ローレンは静かに頭を下げた。


「私自身、最初は姓まで見る必要があると考えました」


 ユリウスは封筒を見る。


「王太子府として、支払いの正当性確認は必要だ」


「はい」


 エレノアは頷いた。


「では、殿下。封筒を開けますか」


 いきなりだった。


 ユリウスは、封筒とエレノアの顔を交互に見た。


 白い紙。


 封蝋。


 閲覧段階、第三段階以上。


 開封には理由記録が必要。


 開ければ、中身が分かる。


 本人の姓、危険理由、もしかすると前雇用主に関する情報も入っているかもしれない。


 それを知れば、ユリウスは安心できる。


 すべてを把握した気になれる。


 だが、本当に必要なのか。


 ユリウスは考えた。


「まず、支払いの正当性確認に必要な情報は何かを整理したい」


 ローレンが小さく頷いた。


 エレノアは表情を変えない。


「どうぞ」


「賃金を支払うには、作業が実施されたこと、作業者が存在すること、同じ支払い番号で重複支払いがないこと、本人または保護担当者が受領できることを確認すればよい」


「はい」


「姓までは……必要ない」


 言ってみると、胸の中が少しざわついた。


 必要ない。


 王太子である自分が、王国の支援対象者の姓を知らなくてよい。


 その事実は、思った以上に落ち着かない。


 ユリウスは続けた。


「過去雇用記録との重複照合は、限定記録担当者が内部で行うべきだ。王太子府は、“同一人物確認済み”“支払い可”という確認結果を受ける。疑義がある場合のみ、理由を添えて第二段階以上の閲覧を申請する」


「では、この封筒は?」


 エレノアが問う。


 ユリウスは、封筒から視線を逸らさずに言った。


「開けない」


 部屋の空気が、ほんの少し緩んだ。


 だが、エレノアはまだ終わらせない。


「なぜですか」


「必要がないからだ」


「それだけでは足りません」


 やはり容赦がない。


 ユリウスは、少し考えた。


 必要がないから開けない。


 それだけでは、ただの拒否だ。


 制度として残すには理由がいる。


「王太子府が姓や危険理由を知れば、その情報を守る責任が生まれる。しかし、支払い処理には不要であり、不要な情報を持つことは漏洩の危険を増やす。したがって、開けない」


 エレノアは頷いた。


「よい判断です」


 リリアナが、明らかにほっとした顔をした。


 ユリウスはその表情を見て、自分が今、誰かの名前を守ったのだと理解した。


 大きなことはしていない。


 ただ、封筒を開けなかっただけだ。


 だが、それが今日の課題だった。


 ローレンが、新しい紙を差し出す。


「では殿下、閲覧申請への回答案を作成してください」


「回答案」


「はい。申請を却下するのではなく、代替確認方法を示します」


 ユリウスはペンを取った。


 すぐに書き出せると思ったが、手が止まる。


 却下。


 不要。


 開示不可。


 そう書くのは簡単だ。


 だが、それだけでは王太子府の会計補助は困る。


 支払いを止めてしまうかもしれない。


 名前を守るために賃金が止まれば、それもまた支援対象者を傷つける。


 ユリウスは、慎重に書いた。


 ――申請内容について、姓および危険理由詳細の閲覧は不要と判断する。

 ――支払い正当性確認は、支払い番号K-17、作業完了記録、限定記録担当者による同一人物確認、受領確認により代替可能。

 ――王太子府会計補助は、仮名または限定名および支払い番号で処理すること。

 ――疑義が生じた場合は、具体的理由を添えて再申請すること。

 ――本件について、本人の姓は王太子府内に共有しない。


 書き終えると、ローレンが確認した。


「実務上、十分です」


 イザークも頷く。


「法務上も問題ありません。再申請の道が残っています」


 エレノアは言った。


「そして、情報を見ない理由も残っています」


 ユリウスは、ペンを置いた。


「知らないことにも、理由が必要なのだな」


「はい」


 リリアナが小さく言った。


「知らないまま守られるのとは違うんですよね」


 ユリウスは彼女を見る。


 リリアナは、少し緊張しながら続けた。


「私、前はお母様に何も知らされませんでした。それは私のためって言われていたけど、本当は私が選べなかった。でもノルさんの記録は違います。本人がどこまで見せるか決めて、見ない人も理由を残す。だから、同じ“知らない”でも違うと思います」


 ユリウスは、ゆっくり頷いた。


「知らされないことと、知らない義務を選ぶことは違う」


「はい」


「なるほど」


 その言葉は、思った以上に深く刺さった。


 母上の療養薬を知らなかった。


 王妃基金の空欄を知らなかった。


 リリアナの偽署名を知らなかった。


 それは怠慢だった。


 だが、ノルの姓を知らないことは、怠慢ではない。


 必要な情報ではないから、見ない。


 見ないことで守る。


 知らないことにも、良いものと悪いものがある。


 その区別を、王太子である自分は学ばなければならない。


 次の課題は、さらに厄介だった。


 イザークが別の想定を出した。


「支払い番号K-17の作業者が、作業場で怪我をしたとします。意識はありますが、混乱しており、自分の判断ができません。医師が治療に必要な既往症確認を求めています。救貧院の限定記録には、妹の医療支援情報と、過去の雇用主からの追跡可能性が記録されています。殿下は、どの段階を開けますか」


 ユリウスは思わず眉を寄せた。


「怪我の内容は?」


「腕の骨折疑い。出血は軽度。命に関わる状態ではありません」


「本人の意識は?」


「混乱していますが、名前を聞けば反応します。ただし、姓を出すことには拒否反応があります」


「医師に必要なのは、既往症か。前雇用主の情報ではない」


「はい」


 ユリウスは考える。


 治療には医療情報が必要。


 だが、姓や追跡理由は不要かもしれない。


 妹の医療支援情報も、本人の治療には関係ない。


「第二段階まで。限定名、本人確認者、医療上必要な注意事項のみ。姓、前雇用主の危険理由、妹の情報は開けない」


 イザークが問う。


「医師が責任上、全情報を求めたら?」


「医師に、治療に必要な情報を具体的に示してもらう。必要な範囲だけ限定記録担当が伝える。全情報開示はしない」


「本人が後で抗議した場合は?」


「閲覧記録を示す。誰が、何を、何のために見たか。命に関わらない状況だったため、姓や危険理由は開けていないと説明する」


 イザークは頷いた。


「適切です」


 ユリウスは、少しだけ息を吐いた。


 息が詰まる訓練だった。


 書類の空欄を見る訓練とは違う。


 今度は、開けたい情報を開けない訓練だ。


 まるで目の前に鍵のかかった箱があり、その鍵を持っているのに、使わないことを選ぶようなものだった。


 三つ目の想定は、さらに政治的だった。


 ローレンが読み上げる。


「ある高位貴族が、王妃基金の臨時雇用者に自家の逃亡使用人が紛れている可能性があると申し立て、仮名記録の開示を求めた場合」


 リリアナの顔がこわばった。


 ノルのことを思ったのだろう。


 ユリウスも同じだった。


 前雇用主からの追跡可能性。


 これがまさに問題になる。


「申し立ての根拠は?」


 ユリウスが問う。


「曖昧です。“年頃と背格好が似ている者がいると聞いた”程度」


「開示しない」


 ユリウスは即答した。


 エレノアが問う。


「なぜですか」


「根拠が曖昧であり、本人を危険に晒す可能性がある。貴族側には、正式な身分確認請求の手続きを案内し、証拠提出を求める。王妃基金は仮名記録を直接開示しない」


 ローレンがさらに問う。


「その貴族が王太子へ直接願い出たら?」


 つまり、自分へ来た場合。


 ユリウスは、一瞬黙った。


 以前の自分なら、王太子として何か調べてやろうとしたかもしれない。


 困っている貴族に公平に対応するつもりで、支援対象者の記録を見ようとしたかもしれない。


 だが、それは危うい。


「同じ対応をする。王太子への直訴であっても、保護記録の開示手順は変えない。むしろ、私が直接見ないことを明記する」


 エレノアが、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「よいです」


 その短い言葉に、ユリウスは少しだけ胸の奥が軽くなった。


 だが、すぐに重さも戻ってくる。


 王太子へ直接願い出られても、見ない。


 情に流されず、権威で手順を飛ばさない。


 それができるか。


 机上ではできる。


 現実では、分からない。


 だから制度にするのだ。


 自分一人の善意や判断に頼らないために。


 休憩時間になった。


 リリアナが、いつものように小さな菓子袋を出した。


「記録済みです」


 ユリウスは、少し笑った。


「今日も?」


「はい。受領者は、ユリウス殿下、エレノアお姉様、ローレン様、イザーク様、私。王家教育官様の分もあります」


 イザークが少し驚いた。


「私もですか」


「会議に出ているので」


「ありがとうございます」


 真面目な法務官補佐が丁寧に礼を言うと、リリアナは少し嬉しそうにした。


 だが、またすぐに真顔に戻る。


 浮かれすぎない訓練は続いているらしい。


 ユリウスは菓子を一つ手に取り、ぽつりと言った。


「リリアナ」


「はい」


「君は、自分が知らされなかったことを、今も怒っているか」


 リリアナは、菓子を持つ手を止めた。


 質問は少し唐突だった。


 エレノアも視線を向ける。


 リリアナは、しばらく考えてから答えた。


「怒っています」


 声は静かだった。


「でも、前ほど全部が同じ怒りではありません。お母様が私に知らせなかったことは、まだ嫌です。お父様が私を家のために使おうとしたことも嫌です。でも、ノルさんの姓を皆に知らせないことは、同じ“知らない”でも違います」


「どう違う?」


「本人が選んでいること。必要な人は必要な範囲で見られること。見た人も記録されること。あと、後で確認できること」


 ユリウスは、ゆっくり頷いた。


「私が知らなかったものには、それがなかった」


「はい」


「私は、知らないことを選んだのではなく、確認を省いた」


 リリアナは少し迷ったが、頷いた。


「そうだと思います」


 以前なら、彼女は王太子にそんなことを言えなかった。


 今も怖いはずだ。


 でも言った。


 ユリウスは、その正直さをありがたいと思った。


「ありがとう」


「責めたかったわけでは」


「分かっている。必要なことだ」


 エレノアが静かに茶を置いた。


「殿下にとっても、今日の課題は重いですね」


「ああ」


 ユリウスは、封筒を見た。


 まだ開いていない。


 それが今日の成果だった。


「私は、知らないことが怖い。今も怖い」


「当然です」


「だが、知ることで誰かを危険にすることも怖い」


「その二つを分ける必要があります」


「分けられるだろうか」


「制度で支えます」


 ユリウスは少し笑った。


「君は、制度で支えるのが好きだな」


「制度で支えないと、人は疲れますから」


 その言葉に、ローレンが小さく頷いた。


 きっと、ダリウス一人に依存した王太子府を思っているのだろう。


 休憩後、最後の課題に入った。


 ユリウス自身の月次所感欄である。


 ローレンが紙を出した。


「本日の学習を、殿下自身の言葉で記録してください」


「今ここで?」


「はい」


 逃げ場がない。


 ユリウスはペンを取った。


 しばらく書けなかった。


 頭の中にはいくつも言葉がある。


 知らない義務。


 必要以上に知らないことも保護。


 知らされないことと、知らないことを選ぶことの違い。


 見る側も記録される。


 王太子への直訴でも手順を飛ばさない。


 それらをどう書くか。


 やがて、ユリウスはゆっくり書き始めた。


 ――今日、私は封筒を開けない訓練を受けた。

 ――これまでの私は、知らないことを怠慢だと考えていた。実際、私が知らなかったことで起きた失敗は多い。王妃陛下の療養薬、王妃基金の空欄、王太子府の代理処理。これらは、私が確認を省いた結果である。

 ――しかし今日、別の知らなさを学んだ。支援対象者の姓や危険理由を、支払い処理のために王太子府が知る必要はなかった。知れば守る責任が生まれ、漏れる危険も生まれる。

 ――知らされないことと、必要がないから知らないことは違う。

 ――今後、王太子府では、知る前に“本当に必要か”を問う。見ない場合も理由を残す。見る場合は、見た者の名を残す。

 ――王太子であることを、手順を飛ばす理由にしない。


 書き終えると、ユリウスは少しだけ疲れた。


 紙一枚なのに、妙に重かった。


 ローレンが読んで、静かに言った。


「よい所感です」


 エレノアも頷いた。


「王太子府の月次報告に添付できます」


「添付されるのか」


「はい」


「……そうだったな」


 ユリウスは苦笑した。


 リリアナが小さく言った。


「最後の一文、良いと思います」


「王太子であることを、手順を飛ばす理由にしない?」


「はい」


「君にも関係がある言葉だろうか」


「あります。公爵令嬢だから、可愛い娘だから、妹だから、そういう理由で手順を飛ばさない」


 リリアナは少し考えてから足した。


「あと、泣いたからって手順を飛ばさない」


 エレノアが少しだけ目を細めた。


 ユリウスは、静かに笑った。


「強くなったな」


 リリアナは顔を赤くした。


「浮かれすぎません」


「いや、これは少し浮かれていいと思う」


 リリアナは困ったようにエレノアを見た。


 エレノアは小さく頷いた。


「少しなら」


「少し……」


 リリアナは少しだけ嬉しそうに笑った。


 その日の夕方、王太子府から王妃基金へ正式な回答が送られた。


 支払い番号K-17の処理について、姓の閲覧は不要。


 限定記録担当による同一人物確認で支払い可。


 王太子府内での情報共有は、支払い番号、作業内容、支払額、公開名に限る。


 閲覧申請は修正済み。


 封筒は開封せず返却。


 返却時、封蝋に新しい記録が添えられた。


 ――王太子府訓練にて、開封不要と判断。理由記録あり。未開封返却。


 未開封も記録する。


 それが今日の新しい形だった。


 夜、ユリウスは自室で母の肖像画を見た。


 王妃エレオノーラ。


 厳しく、美しく、どこか遠い人。


 以前のユリウスは、母の厳しさから逃げた。


 母に叱られたくなくて、耳障りのよい報告を選んだ。


 知らないことにした。


 その知らなさは、母を遠ざけた。


 だが今日、彼は一つの封筒を開けなかった。


 それは逃げではない。


 誰かを守るための未開封だった。


「母上」


 声に出す。


「知らないことにも、種類があるのですね」


 返事はない。


 肖像画は何も言わない。


 けれど、今日の報告書はいつか王妃基金の記録に残る。


 王太子が封筒を開けなかった日として。


 それは小さな記録だ。


 だが、ユリウスにとっては大きかった。


 翌朝、リリアナは自分の手帳にこう書いた。


 ――王太子殿下は、封筒を開けなかった。

 ――知らない義務。

 ――必要がないなら、知らない方が守れることがある。

 ――でも、知らない理由も記録する。


 その横に、小さく付け足した。


 ――私も、誰かの秘密を「知りたい」で開けない。


 その一文を見て、エレノアは静かに頷いた。


「よい記録ね」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「少し、怖いです」


「何が?」


「知りたいと思う自分がいること」


「人だから、いるわ」


「それでも開けない?」


「必要がなければ」


 リリアナは頷いた。


「はい」


 王妃基金の再建は、また一つ新しい欄を得た。


 未開封理由欄。


 知らない義務。


 王太子府の机に置かれた白い封筒は、開かれないまま戻された。


 それは何も起きなかったということではない。


 確かに、何かが起きた。


 王太子が、知る力ではなく、知らない責任を選んだ。


 その記録が残った。

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