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第66話 灰色の少年、本名を名乗る

 灰色の少年が、もう一度救貧院へ来た。


 その知らせは、フィオナ司祭からの短い伝言として北翼へ届いた。


 ――仮名「灰色」の少年、再訪。妹の熱は下がりつつあり。臨時雇用相談を希望。本人より、リリアナ様が同席可能なら話したいことがあるとの申し出。


 リリアナは、その紙を読んでしばらく黙った。


 手帳を開く手が、止まっている。


 灰色。


 あの日、本名を言いたくないと小さく答えた少年。


 妹が熱を出していると言い、麦と薬草茶を受け取った少年。


 名前の代わりに、自分で選んだ仮名。


 リリアナが初めて「本名を無理に聞かない記録」を書いた相手だった。


「私が同席していいの?」


 リリアナは、エレノアを見た。


 エレノアは伝言の文面を確認し、静かに頷いた。


「本人が望んでいて、フィオナ司祭が同席するなら。ただし、あなたが聞く役ではなく、立ち会う役よ」


「立ち会う役」


「ええ。話を急がせない。名前を聞き出そうとしない。本人が話す範囲を尊重する」


「分かってる」


 リリアナは、そう言いかけてから少し言い直した。


「分かっているつもり。だから、フィオナ司祭に従います」


「それでいいわ」


 エレノアは少しだけ表情を柔らかくした。


「行く?」


「行きます」


 返事はすぐに出た。


 怖さはある。


 けれど、行かないという選択はなかった。


 あの日、自分が書いた記録が、次へつながった。


 ならば、その次を見届けたい。


 救貧院へ向かう馬車の中で、リリアナは手帳を見返していた。


 ――灰色さん。妹が熱。薬草茶。仮名記録。本名申告困難。次回、フィオナ司祭担当。


 たった数行。


 だが、そこに一人分の不安が詰まっている。


 リリアナは、その欄の下に新しく書いた。


 ――今日の注意。私から本名を聞かない。本人が言わないなら灰色さんのまま。言ったとしても、どこへどう記録するか確認する。名前は橋にも危険にもなる。


 馬車が止まるころには、手のひらに少し汗をかいていた。


 救貧院の入口では、いつものように人の出入りがあった。


 麦袋を抱える老人。


 子供の手を引く母親。


 臨時雇用の掲示を見る若者。


 薬草茶配布が遅れた件についての説明紙も、まだ壁に貼られている。


 ――湿ったままだと悪くなる心配があるため、配布前に止めました。


 あの説明文を読んでいる男が、係に何かを尋ねていた。


 支援は、常に何かが動いている。


 誰かが待ち、誰かが受け取り、誰かが不満を言い、誰かが説明する。


 その中へ入っていくのだと思うと、リリアナは背筋を伸ばした。


 フィオナ司祭は受付の奥で待っていた。


「来てくださってありがとうございます」


「灰色さんは?」


「奥の小部屋にいます。妹さんも一緒です」


「妹さんも?」


「はい。熱は下がりましたが、まだ弱っています。今日は医療支援の確認も兼ねています」


 リリアナは頷いた。


「私は何をすればいいですか」


「まずは座って、聞いてください。彼が話すまで待つこと。質問は、私が促した時だけにしてください」


「はい」


 小部屋は、救貧院の奥にあった。


 大きな部屋ではない。


 机が一つ、椅子が四つ、壁際に小さな火鉢。


 灰色の少年は、窓に近い椅子に座っていた。


 前と同じ古い外套を着ている。


 ただし、少しだけ顔色が良く見えた。


 その隣には、八歳くらいの少女が座っている。


 痩せていて、膝に毛布を掛けていた。


 大きな目だけが、こちらをじっと見ている。


 少年はリリアナを見ると、少しだけ立ち上がろうとした。


 フィオナ司祭が手で制した。


「そのままで」


 リリアナは、ゆっくり礼をした。


「こんにちは、灰色さん」


 名前ではない。


 仮名だ。


 けれど、今の彼にとってはここでの名前でもある。


 少年は少し驚いたようにリリアナを見た。


「まだ、それで呼ぶんだ」


「あなたが選んだ名前だから」


 少年は、何か言いかけて、やめた。


 少女が小さく尋ねる。


「お兄ちゃん、この人?」


「そう。前に記録を書いてくれた人」


 前に記録を書いてくれた人。


 リリアナは、その言い方に胸の奥が少し熱くなった。


 公爵令嬢でも、王太子妃候補でもない。


 記録を書いた人。


 今日の自分には、その呼び方が一番合っている気がした。


 フィオナ司祭が座るよう促した。


 部屋にいるのは、フィオナ司祭、救貧院職員ルイス、灰色の少年、妹、そしてリリアナ。


 記録紙は机の上に伏せられている。


 まだ誰もペンを持たない。


 それが大事なのだと、リリアナは思った。


 最初から書く姿勢で向き合うと、相手が記録されることを怖がるかもしれない。


 まずは、話す。


 フィオナ司祭が穏やかに言った。


「今日は、何を話したいですか」


 少年は、しばらく黙っていた。


 妹が毛布の端を握っている。


 やがて、彼は低く言った。


「働きたい」


「臨時雇用ですね」


「木箱を直す仕事、前にやった。あれ、続けたい」


「分かりました」


 フィオナ司祭は頷いた。


「続けるには、受け取り記録と賃金記録が必要になります。仮名のままでも、短期間なら可能です。ただ、継続雇用にするなら、保護記録をもう少し詳しく作る必要があります」


 少年は、視線を落とした。


「それで……話した方がいいと思った」


「無理に全部話す必要はありません」


「でも、名前がないと、また来られなくなるかもしれない」


 リリアナは、口を開きかけて止めた。


 自分から答えてはいけない。


 フィオナ司祭が静かに言う。


「名前を記録することはできます。ただし、どの記録に載せるかを選べます」


 少年が顔を上げた。


「選べる?」


「はい。公に近い受領台帳には仮名のまま。保護管理簿には本名を限定記録。外へ出す雇用名は、本人が望む名前。そう分けることができます」


 リリアナは、思わず息を呑んだ。


 名前を分ける。


 本名か仮名か、二つに一つではない。


 どこに、どの名を置くか。


 それを選べる。


 リリアナは慌てて手帳に書きそうになったが、今は音を立てない方がいいと思い直し、手を止めた。


 少年は、少し戸惑っている。


「本名を言ったら、全部に書かれるんじゃないの?」


「書きません」


 フィオナ司祭の声ははっきりしていた。


「あなたが望まない場所には書きません。ただし、医療支援や継続雇用で必要な最低限の確認はあります。そこは説明します」


 妹が小さな声で言った。


「お兄ちゃん、言っていいよ」


 少年が妹を見る。


「ミア」


「だって、ずっと灰色は変だもん」


 少女は真剣だった。


「灰色だと、洗濯の水みたい」


 空気が一瞬だけ緩んだ。


 少年は、困ったように笑った。


「自分でつけたんだよ」


「もっといい名前あるのに」


 フィオナ司祭が微笑んだ。


「妹さんはミアさんですね」


 少女はしまった、という顔をした。


 少年も同じ顔をした。


 リリアナは、胸がひやりとした。


 今、名前が出た。


 自然に。


 けれど、それをすぐ記録していいのか。


 フィオナ司祭は慌てなかった。


「今の名前を記録してよいかは、確認してからにします。ミアさん、と呼んでもいいですか?」


 少女は、少し考えてから頷いた。


「うん」


「記録には?」


 少女は兄を見る。


 少年はしばらく迷い、頷いた。


「妹は……いい。医者に診てもらう時にも必要だから」


「分かりました。では、妹さんの名前は医療支援記録に限定して記録します。受領台帳では、灰色さんの妹、で構いませんか」


「うん」


 リリアナは、心の中で何度も繰り返した。


 限定して記録する。


 受領台帳では仮名のまま。


 医療支援記録には必要な名前。


 名前は一枚の紙に全部載せるものではない。


 必要な場所へ、必要な範囲だけ。


 少年は、しばらく膝の上の手を見ていた。


 指先には、木箱修繕でついたらしい小さな傷がある。


 やがて、彼は言った。


「俺の名前は、ノル」


 声は小さかった。


 けれど、部屋にはっきり届いた。


「ノル・アゼル」


 リリアナは、息を止めそうになって、慌てて吸った。


 名前。


 灰色ではない名前。


 彼が自分で出した名前。


 フィオナ司祭は、すぐには書かなかった。


 まず、穏やかに確認する。


「ノル・アゼルさん。今の名前を、どの記録に残しますか」


 少年――ノルは、顔を上げた。


「全部じゃないんだよな」


「はい」


「じゃあ、仕事の記録には……ノルでいい。妹の医療支援にも、兄の名前としてノル。受領台帳は、灰色のままでいい」


「姓は?」


「姓は、まだ嫌だ」


「分かりました」


 フィオナ司祭は頷き、そこで初めてルイスへ合図した。


 ルイスが記録紙を表にする。


 リリアナは、横からその書き方を見ていた。


 仮名記録。灰色。

 本人申告により、保護管理簿・臨時雇用記録では「ノル」を使用。

 姓は本人希望により非公開。

 妹、医療支援記録上「ミア」。受領台帳上は「灰色の妹」。

 本人確認方法、フィオナ司祭、ルイス、リリアナ立会い。

 公開範囲、限定。

 次回確認、七日後。本人意思再確認。


 リリアナは、その欄を見て胸が詰まった。


 本名を名乗った。


 でも、それで終わりではない。


 どこに載せるか。


 誰が見られるか。


 いつ見直すか。


 そこまで決めて、初めて名前は橋になる。


 ノルは、記録されていく文字をじっと見ていた。


「それ、誰が見るの」


 ルイスが説明した。


「受領台帳は受付担当。保護管理簿はフィオナ司祭、私、医療支援担当、雇用担当の限られた者だけ。王宮へ報告する時は、仮名か、ノルという名前だけで、姓は出しません」


 ノルはリリアナを見た。


「あんたも見る?」


 リリアナは少し迷った。


 見る権限があるかではなく、見る必要があるか。


 今までは、知りたいと思えば見ようとしていたかもしれない。


 今は違う。


「私は、今日ここで聞きました。でも、これから毎回あなたの記録を見る必要はありません。王妃基金へ報告される時は、必要な範囲だけ見ます」


「必要な範囲?」


「たとえば、仮名の人が臨時雇用につながったこと。妹さんの医療支援が続いていること。記録の仕組みがうまくいっているか。そういうことです。あなたの姓を知る必要がなければ、見ません」


 ノルは、じっとリリアナを見ていた。


 信じていいか見ている目だった。


 リリアナは、逃げずにその目を受け止めた。


 やがてノルは小さく頷いた。


「なら、いい」


 たったそれだけ。


 でも、リリアナの胸には重く響いた。


 なら、いい。


 その信頼は、薄い紙のようなものだ。


 乱暴に扱えばすぐ破れる。


 フィオナ司祭が言った。


「ノルさん。なぜ姓を出したくないか、話せますか」


 ノルは少しだけ警戒した。


 フィオナ司祭はすぐに続ける。


「理由を詳しく話さなくてもかまいません。記録上、今後の危険を判断するために、分類だけ必要です。家族から逃げている、雇用主から逃げている、借金取りから逃げている、身分証の問題、その他。どれに近いですか」


 ノルは黙った。


 部屋の中に、火鉢の小さな音がした。


 妹のミアが、毛布を握る手に力を込める。


 ノルは、やがて低く言った。


「雇い主」


 フィオナ司祭の表情は変わらなかった。


「以前の雇い主に見つかると危険ですか」


「……たぶん」


「暴力を受ける恐れがありますか」


 ノルは答えなかった。


 けれど、その沈黙で十分だった。


 リリアナは、胸がぎゅっと痛んだ。


 詳しく聞きたい。


 何があったのか知りたい。


 でも、それは今、自分の好奇心に近い。


 必要な人が、必要な範囲で聞くべきだ。


 フィオナ司祭は、淡々と分類した。


「雇用主からの追跡可能性あり。詳細は次回以降、本人の状態を見て確認。今は姓非公開。臨時雇用先にも前雇用情報は出さない」


 ルイスが記録する。


 ノルは少しだけ息を吐いた。


 その後、臨時雇用の話になった。


 木箱修繕作業は、聖クララ縫製所の物資運搬箱を直す仕事だった。


 壊れた箱を補修し、釘を打ち直し、蓋を調整する。


 ノルは手先が器用で、前回の作業も早かったらしい。


 継続するなら、半日単位の賃金が出る。


 ただし、ミアの体調確認も必要だ。


 妹を一人で置けない場合は、救貧院の休憩室で預かる手配をする。


 フィオナ司祭は、その一つ一つを確認した。


「仕事を受けますか」


「受ける」


「無理な日には断れます」


「断ったら次がなくなる?」


「なくなりません。体調理由や妹さんの事情は、記録してください」


「記録……」


 ノルは少し難しい顔をした。


 リリアナは思わず言った。


「理由欄があります」


 フィオナ司祭が、少しだけこちらを見る。


 言っていいタイミングだったらしい。


 リリアナは続けた。


「できない日に、ただ来なかったことになると困ると思います。でも、妹さんの熱とか、自分の体調とか、前の雇い主が近くにいたとか、理由を書けば、次につなげられます」


 ノルは半信半疑の顔をした。


「理由を書けば、怒られない?」


 リリアナは少し言葉に詰まった。


 怒られない、と簡単に言っていいのか。


 制度上は、理由を見て判断する。


 でも、現場の誰かが感情的に責める可能性をゼロにはできない。


 フィオナ司祭が助け舟を出す前に、リリアナは正直に言った。


「絶対に誰も怒らない、とは言えません。でも、理由を書けば、少なくとも“勝手に来なかった”とは違う記録になります。怒る人がいたら、その人にも記録を見せられます」


 ノルは、少し考えた。


「……なら、書く」


「自分で書けますか?」


 ルイスが聞くと、ノルは少し顔をしかめた。


「少しだけ」


「代筆もできます」


「自分で書きたい」


 その言葉に、ミアが嬉しそうに兄を見た。


 リリアナも、胸が温かくなった。


 自分で名前を書く。


 それは、ノルにとって次の橋なのかもしれない。


 ルイスは練習用の紙を出した。


 ノルはペンを握る。


 手つきは慣れていない。


 けれど、ゆっくりと書いた。


 ノル。


 少し歪んだ文字。


 でも、確かに名前だった。


 ミアが小さく拍手した。


「お兄ちゃんの字」


「うるさい」


 ノルは照れたように言った。


 リリアナは、涙が出そうになって慌てて瞬きをした。


 泣く場面ではない。


 少なくとも、ノルの名前を自分の感動にしてはいけない。


 これは彼の名前だ。


 彼の記録だ。


 リリアナは静かに言った。


「よい字だと思います」


 ノルは、少しだけ顔を赤くした。


「下手だよ」


「読めます」


「それでいいの?」


「まずは」


 ノルは、書いた紙を見つめた。


 その目は、灰色という仮名を選んだ時とは少し違っていた。


 まだ警戒はある。


 不安もある。


 けれど、自分の名前を紙の上に置いた人の目だった。


 面談が終わった後、フィオナ司祭はリリアナを廊下へ呼んだ。


「今日は、よく待てました」


 最初にそう言われた。


 リリアナは少し驚いた。


「待てました、ですか」


「はい。聞きたいことを飲み込んで、必要な時だけ話しました」


「本当は、たくさん聞きたかったです」


「でしょうね」


 フィオナ司祭は微笑んだ。


「でも、聞かないことも支援です」


 リリアナは、その言葉を心に刻んだ。


 聞かないことも支援。


 知らないままにするのではない。


 相手が話せる時まで待つ。


 必要な人が、必要な範囲で聞く。


 それも支援。


「名前を名乗ってくれて、嬉しかったです」


 リリアナは正直に言った。


「でも、それを私が喜びすぎるのは違う気もしました」


「よい感覚です」


「どう扱えばいいのでしょう」


「大切に、普通に」


「普通に?」


「名前を名乗ることは大きな一歩です。でも、こちらが大げさに感動すると、相手は次も何かを差し出さなければならない気持ちになることがあります」


 リリアナは目を伏せた。


 大切に、普通に。


 難しい。


「記録では、どう書けば?」


「事実を書きます。仮名から限定的な本名使用へ移行。本人意思確認済み。公開範囲限定。次回再確認。それで十分です」


「詩みたいに書かない」


「書きません」


「分かりました」


 リリアナは手帳へ書いた。


 ――名前を名乗ってくれたことは、大切に、普通に扱う。

 ――大げさに感動しすぎない。相手に次も差し出させないため。

 ――聞かないことも支援。


 王宮へ戻ると、エレノアが北翼の執務室で待っていた。


 リリアナは報告書を抱えたまま入る。


「お帰り」


「ただいま、エレノアお姉様」


「どうだった?」


 リリアナは、すぐに答えなかった。


 手元の紙を見た。


 ノル。


 その名前は、限定記録の写しには載っていない。


 王妃基金へ上がる報告では、仮名「灰色」および限定名「ノル」とだけ書かれている。


 姓はない。


 それでいい。


「灰色さんは、ノルという名前を仕事の記録に使うことになりました。姓は非公開です。妹さんは医療支援記録だけに名前を載せます」


 エレノアは頷いた。


「よい扱いね」


「本名を聞いたら全部書くものだと思っていました。でも、違いました。どこに、誰が見る形で書くかを決めるのですね」


「ええ」


「名前って、一つなのに、記録では分けることがある」


「必要な場合は」


 リリアナは報告書を差し出した。


「それから、臨時雇用を継続します。できない日の理由欄も作りました。自分で“ノル”って書けました」


 エレノアは報告書を読み、静かに言った。


「大きな一歩ね」


「はい。でも、大切に、普通に扱うそうです」


「フィオナ司祭の言葉?」


「はい」


「よい言葉ね」


 リリアナは頷いた。


「私、少し分かってきました。名前を呼ぶことも、書くことも、聞かないことも、全部違う形の支援になることがあるんですね」


 エレノアは、妹の顔を見た。


 そこには、三か月前のリリアナはいない。


 もちろん、まだ未熟だ。


 すぐ不安になるし、褒められると顔が明るくなるし、難しい言葉には眉を寄せる。


 けれど、彼女はもう知らないまま守られる場所へ戻ろうとしていない。


「よい理解だと思うわ」


 エレノアが言うと、リリアナは嬉しそうにした。


 しかし、すぐに手帳を開いた。


「浮かれすぎないために記録します」


「それは浮かれているのでは?」


「戻ってきています」


「そう」


 リリアナは真面目な顔で書いた。


 ――名前を呼ぶこと、書くこと、聞かないこと。全部、支援になることがある。


 その夜、エレノアは灰色の少年に関する王妃基金報告をまとめた。


 ――仮名「灰色」、再訪。妹の医療支援継続。本人意思により、保護管理簿および臨時雇用記録に限定名「ノル」を使用。姓は本人希望により非公開。受領台帳上は仮名継続。前雇用主からの追跡可能性あり。詳細は本人状態を見て段階確認。臨時雇用、木箱修繕作業継続予定。理由欄付き欠勤記録導入。


 付記。


 ――本名申告は、全記録への開示を意味しない。記録範囲と閲覧者を本人に説明し、必要最小限の範囲で扱うこと。

 ――名前は橋にも危険にもなる。限定記録の運用規則を整備する必要あり。


 書き終えた後、エレノアは少しだけ窓の外を見た。


 王宮の灯りの外に、王都の夜が広がっている。


 どこかでノルが、妹のミアと一緒に眠る準備をしているかもしれない。


 明日、木箱を直しに行くことを考えているかもしれない。


 自分の名前を書いた紙を、まだ覚えているかもしれない。


 その名前を、王宮は守らなければならない。


 知ることだけが力ではない。


 知らないでおく範囲を決めることも、力の使い方なのだ。


 エレノアは、手帳に一文だけ書いた。


 ――人を守る記録は、書くことと隠すことの両方でできている。


 書いた後、少し考え、もう一文足した。


 ――ただし、隠すことを本人から奪ってはならない。


 王妃基金の仕事は、また一つ増えた。


 限定記録。


 仮名運用。


 閲覧権限。


 名前の橋と危険。


 終わらない。


 けれど、終わらないからこそ、次に見る日を書く。


 明日もまた、誰かの名前が紙に載る。


 そのたびに、誰のために、どこまで載せるのかを考えなければならない。

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