第65話 薬草茶、配布前に止まる
薬草茶の配布は、朝のうちに止まった。
まだ誰の手にも渡っていない。
救貧院の棚にも、孤児院の保管箱にも、療養施設の湯沸かし場にも届いていない。
だから、被害は出ていない。
ただし、問題は出た。
王妃基金の北翼窓口へ、夫人会から緊急連絡が入ったのは、朝食後まもなくのことだった。
差出人は、デリア・ラングフォード侯爵夫人。
内容は短い。
――匿名口頭受付にて、療養施設向け薬草茶の香りが前回と違うとの申告あり。
――配布前に一時停止。
――薬草品質確認部門へ照会済み。
――ガスパル氏、乾燥不足の疑いありと仮判断。
――本日午前、正式確認希望。
エレノアは、その報告を読んだ時、まず安堵した。
止まった。
配る前に。
けれど、その次にすぐ別の重さが来た。
止めたということは、届くはずだった薬草茶が届かないということでもある。
療養施設では、寒さや不眠、胃の不調を和らげるために、その薬草茶を待っている者がいる。
救貧院でも、体を温めるために必要としている者がいる。
不良品を配ってはいけない。
だが、止めたなら、止めた理由を伝えなければならない。
代替品を探さなければならない。
ただ「安全確認のため延期」と書くだけでは、現場は困る。
昨日までの夫人会なら、こう書いただろう。
――諸事情により配布を延期いたします。
それでは足りない。
諸事情では湯は沸かない。
理由のない延期は、不安を増やすだけだ。
エレノアは、机の上の報告書を閉じた。
「オスカー。薬草品質確認部門、夫人会、救貧院、療養施設の担当者を集めてください。小会議室で、すぐに」
「承知しました」
オスカーが出ていくと、隣で書類整理をしていたリリアナが顔を上げた。
「薬草茶、止まったの?」
「ええ。配布前に香りの違いを指摘した人がいたそうよ」
「匿名口頭受付の?」
「そう」
「よかった……のよね?」
リリアナは、少し迷いながら言った。
エレノアは頷く。
「よかった。ただ、止まった後の処理が必要よ」
「届かないから?」
「ええ」
リリアナは手帳を開いた。
「止めたら終わりじゃない……」
「そう。止めることは判断。止めた後に説明し、代替を用意し、次にどうするか決めるところまでが責任」
リリアナは、真剣に書いた。
――配布前に止めるのは成功。でも、止めた後の説明と代替も責任。
書き終えてから、彼女は少しだけ顔を曇らせた。
「もし、待っている人が怒ったら?」
「怒るかもしれないわ」
「安全のためなのに?」
「安全のためでも、困るものは困るから」
「……そうか」
リリアナは、救貧院で見た顔を思い出しているようだった。
麦袋を待つ人。
薪を待つ人。
薬草茶を妹へ持ち帰った灰色の少年。
必要なものが届かない時、人はきれいに納得できるとは限らない。
それは責められるべきことではない。
小会議室には、すぐに人が集まった。
デリア夫人とミリアム夫人。
薬師マティアス。
ガスパル。
救貧院からはフィオナ司祭。
療養施設の担当女官。
基金事務官ヘンリク。
カインも王家監督者として顔を出した。
会議室に入るなり、ガスパルは机の上に二つの袋を置いた。
「これが前回の薬草茶。これが今回止まったものです」
袋の外見はほとんど同じだった。
夫人会の紙札も、結び紐も、分量も揃っている。
見た目だけなら、問題は分からない。
ガスパルは袋を開けた。
前回分は、乾いた草の香りが立つ。
青みと、少し甘い香り。
今回分は、たしかに違った。
青さが鈍い。
湿ったような、奥にこもる匂いがある。
リリアナは思わず眉を寄せた。
「……前と違います」
ガスパルが頷く。
「分かるようになりましたね」
リリアナは驚いて顔を上げた。
「今の、褒められました?」
「事実です」
ガスパルは相変わらず真面目だった。
リリアナは少し嬉しそうにしながらも、すぐに手帳へ書く。
浮かれすぎないためだろう。
エレノアは薬師マティアスへ視線を向けた。
「正式確認を」
「はい」
マティアスは、確認用の皿に薬草茶を広げた。
葉の色。
茎の混入。
乾燥状態。
香り。
手で軽く揉んだ時の崩れ方。
ガスパルも横で確認する。
以前なら、薬師と薬草園管理人が同じ作業台で同じものを見ることは少なかった。
今は、それが制度になり始めている。
しばらくして、マティアスが言った。
「乾燥不足です。使用不可ではありませんが、このまま配布は避けるべきです。再乾燥が必要です」
ガスパルも頷く。
「黴はまだ出ていません。ただし、保管状態が悪ければすぐ悪くなる。急いで開封し、広げて再乾燥してください」
ヘンリクが記録する。
「配布延期、再乾燥対応。期間は?」
マティアスはガスパルを見る。
「天候次第ですが、二日から三日」
「その間の代替は?」
フィオナ司祭が静かに問うた。
会議室が少し止まった。
やはり、そこだ。
安全確認だけなら簡単だ。
代替を考えるところから、支援の責任になる。
療養施設の担当女官が言った。
「当施設には、あと一日分の前回薬草茶があります。ただ、全員分ではありません。症状の重い方を優先すれば何とか」
フィオナ司祭は首を横に振った。
「救貧院には残りがほとんどありません。寒い夜に温かい茶を待っている方もいます」
デリア夫人が顔を曇らせた。
「夫人会の別在庫を確認します。ただ、品質確認前のものを回すわけには」
「前回確認済みの在庫は?」
エレノアが問う。
ミリアム夫人が資料をめくる。
「少量ですが、聖クララ縫製所の休憩用に回したものがあります。まだ未開封のはずです」
「それを一時的に救貧院へ回せますか」
「縫製所には別の温茶を用意すれば可能です」
ヘンリクが計算する。
「量は救貧院分の半日程度」
「十分ではありませんね」
エレノアが言うと、ガスパルが口を開いた。
「薬草園に単味の温め草があります。調合済みではないが、安全確認済みです。効き目は弱いが、温茶としては使えます」
マティアスが頷いた。
「救貧院向けなら、薄く煮出せば問題ないでしょう。ただし、療養施設の病人には医師確認が必要です」
フィオナ司祭はすぐに言った。
「救貧院はそれで助かります」
療養施設担当女官も続ける。
「施設側は、前回残分を症状重い方へ優先し、他の方には通常の温湯と薄い蜂蜜湯で一日つなぎます。医師へ確認します」
エレノアは全員の発言を整理した。
「では、対応は三つです。今回分は配布停止し、再乾燥。救貧院には薬草園の温め草を代替配布。療養施設は前回残分を優先配分し、不足分は施設医師判断で蜂蜜湯等へ代替。聖クララ縫製所の未開封在庫は救貧院緊急分として一部転用。異議は?」
誰も異議を唱えなかった。
カインが短く言う。
「説明文を作れ」
エレノアは頷いた。
「はい。配布先へ、本日中に」
リリアナが手を上げた。
「説明文、私も見てもいいですか?」
「お願いするわ」
リリアナは少し緊張しながらも頷いた。
「難しい言い方だと、不安になると思うので」
その通りだった。
最初の説明案をヘンリクが書いた。
――品質確認上の都合により、薬草茶の配布を一時延期いたします。代替措置につきましては順次対応いたします。
リリアナは読んで、眉を寄せた。
「これだと、何が起きたか分かりません」
ヘンリクは少し気まずそうにした。
「簡潔にしたつもりでしたが」
「簡潔だけど、不安です。品質確認上の都合って、怖いです。毒でも入ったのかと思うかもしれません」
マティアスが頷く。
「毒ではありません。乾燥不足です」
「それを書いた方がいいです」
リリアナは紙を引き寄せた。
少し考えながら、ゆっくり書く。
――本日配る予定だった薬草茶は、香りが前回と違うという報告がありました。確認したところ、乾燥が足りない可能性があるため、そのまま配るのを止めました。毒ではありませんが、このまま置くと悪くなる心配があります。
――今、薬師と薬草園で再乾燥をしています。二日から三日後に、もう一度確認してから配ります。
――その間、救貧院には代わりの温め草のお茶を届けます。療養施設では、医師の確認のもと、残っている安全確認済みの薬草茶を必要な方から使います。
――遅れて申し訳ありません。配る前に止めたのは、安全のためです。次の予定は明日また知らせます。
書き終えると、リリアナは不安そうに顔を上げた。
「長すぎますか?」
ロウ夫人なら長いと言うかもしれない。
だが、フィオナ司祭は静かに頷いた。
「救貧院には、このくらい説明があった方がよいです」
療養施設の担当女官も言った。
「療養施設でも、毒ではないと明記してあるのは助かります」
ガスパルは紙を覗き込んだ。
「“悪くなる心配”ではなく、“湿ったままだと悪くなる心配”がよい」
リリアナはすぐに直した。
「はい」
マティアスも補足する。
「再乾燥後にすべて配れるとは限りません。再確認で問題があれば廃棄になります」
リリアナは顔を引き締めた。
「では、“もう一度確認して、問題がなければ配ります”ですね」
「その方が正確です」
説明文は、その形で採用された。
エレノアは、リリアナを見た。
「とてもよい文です」
リリアナは少しだけ頬を赤くした。
しかし、すぐに深呼吸した。
「浮かれすぎない」
「戻ってこられたわね」
「はい」
会議後、対応はすぐに動いた。
夫人会の使者が療養施設へ説明文を持って走る。
救貧院へはフィオナ司祭が戻る馬車に説明と代替手配書を乗せる。
薬草茶はすべて開封され、薬草園の乾燥小屋へ運ばれる。
聖クララ縫製所には、未開封在庫の一部転用と代替温茶の連絡が入る。
匿名口頭受付へ報告した人物には、直接名を探さず、夫人会全体へ「報告により配布前停止できた」と共有することが決まった。
小さな香りの違和感が、半日でいくつもの行動につながった。
だが、すべてが滑らかに進んだわけではない。
午後、救貧院から戻ってきた伝言には、予想通りの言葉があった。
――説明は伝えたが、薬草茶を待っていた数名から不満あり。
――「また王宮の都合か」と言われた。
――代替の温め草は受け取られたが、効き目への不安あり。
リリアナはその伝言を読んで、顔を曇らせた。
「怒ってる……」
「ええ」
「ちゃんと説明したのに」
「説明しても、不満が消えるとは限らないわ」
「でも、安全のためなのに」
「それでも、待っていた人にとっては遅れよ」
リリアナは黙った。
納得してほしかったのだろう。
自分の書いた説明文が届けば、皆が分かってくれると少し思っていたのかもしれない。
でも、現場はそんなに簡単ではない。
エレノアは静かに言った。
「説明は、怒られないためにするものではないわ」
「じゃあ、何のため?」
「相手が状況を知った上で、不満を言えるようにするためでもある」
リリアナは目を上げた。
「不満を言えるように?」
「理由も知らされず待たされるより、乾燥不足で止まったと知った上で“困る”と言える方がいい。安全のためでも、困るものは困る。それを記録できる」
リリアナは、ゆっくり頷いた。
「不満も記録するのね」
「ええ。代替が十分だったかを見るために」
すぐに、救貧院向けの追加記録欄が作られた。
配布停止時の反応。
代替品の受け取り状況。
不満の内容。
次回改善点。
フィオナ司祭からの追記には、こうあった。
――不満内容。「効き目が弱いのでは」「いつ届くのか」「前にも待たされたことがある」。
――改善点。次回予定日を明確に掲示。代替品の効き目を短く説明。翌日夕方に再連絡。
リリアナは、それを読んで手帳に書いた。
――説明しても不満は消えない。でも、不満の形が分かる。
――不満は失敗ではなく、次の確認材料。
夕方、薬草園から一度目の再乾燥報告が入った。
乾燥小屋に広げた薬草茶は、今のところ黴の兆候なし。
ただし、袋詰め前の乾燥時間が短かった可能性が高い。
原因調査として、夫人会の仕分け場所、薬草園の乾燥記録、輸送時の天候、保管箱の状態を見る必要がある。
ガスパルの短い追記。
――止めた判断は正しい。だが、なぜ湿ったかを見なければ、また起きる。
その通りだった。
止められた。
よかった。
だけでは終わらない。
なぜ湿ったのか。
どこで見落としたのか。
そこを見なければ、次も同じことが起きる。
翌日、原因確認会が開かれた。
すると、思わぬところに原因があった。
夫人会の仕分け室ではなかった。
薬草園の乾燥不足だけでもなかった。
輸送箱の内側に、前回洗浄後の湿気が残っていたのだ。
箱は清潔だった。
汚れはない。
しかし完全に乾いていなかった。
そこへ薬草茶の袋を詰めたため、袋の外から湿気が移った。
輸送箱確認欄には「洗浄済み」とあった。
しかし「乾燥済み」はなかった。
また、空欄だった。
リリアナはその報告を見た瞬間、小さく「あ」と言った。
「洗ったから安全、ではなかった」
マティアスが頷く。
「はい。薬草の場合、洗浄後の乾燥も必要です」
ガスパルが言う。
「濡れた箱は敵です」
非常に分かりやすかった。
エレノアは記録へ加える。
――輸送箱管理に「洗浄済み」「乾燥済み」「匂い確認」欄を追加。薬草用箱は他用途との共用禁止。湿気確認者を明記。
ヘンリクが少し顔をしかめた。
「また欄が増えますね」
リリアナが慎重に言った。
「でも、必要な欄だと思います」
ロウ夫人がいれば「長すぎる」と言うかもしれない。
だが、今回は薬草用箱だ。
匂いと湿気は命に関わる。
欄を増やす理由がある。
エレノアは頷いた。
「薬草輸送箱用の専用様式にします。全体様式には入れません」
欄は増やす。
ただし、必要な場所にだけ。
これも三か月の学びだった。
二日後、再乾燥された薬草茶の一部は使用可能と判定された。
一部は香りが戻らず、使用不可として廃棄。
その損失は夫人会と王妃基金で折半し、原因となった輸送箱管理の改善費は夫人会の作業支援予算から出された。
救貧院と療養施設には、予定より二日遅れて配布された。
説明文も添えられた。
――遅れた理由。輸送箱に湿気が残っていたため。
――直したこと。箱の乾燥確認欄を追加。薬草用箱を専用にする。
――今回配る分は、再確認済み。
――一部は使用不可として捨てました。無理に配りません。
最後の一文を入れるかどうかで少し揉めた。
捨てたと書けば、もったいないと責められるかもしれない。
だが、リリアナが言った。
「無理に配らなかったと分かった方が、安心すると思います」
その意見が採用された。
実際、救貧院からの返答にはこうあった。
――捨てた分があると聞き、かえって安心した者あり。
――「悪いものまで配らないなら信用できる」との声。
リリアナは、その文を何度も読んだ。
悪いものまで配らないなら信用できる。
それは、匿名箱と同じだった。
失敗を隠さないから、少し信じられる。
配布前に止めたから、少し信じられる。
捨てたと書いたから、少し信じられる。
信頼は、美しい報告ではなく、こういう小さな正直さから戻るのかもしれない。
夜、エレノアは薬草茶配布停止の最終報告を書いた。
――匿名口頭報告により、療養施設向け薬草茶の香り違いを確認。配布前停止。薬師、薬草園管理人による確認の結果、乾燥不足および輸送箱湿気が原因と判明。再乾燥後、一部使用可、一部使用不可として廃棄。代替品配布、説明文掲示、不満内容記録。輸送箱様式改訂。
――成果。配布前に停止できた。匿名報告への信頼が増した。
――課題。停止時の代替不足。不満記録の標準化。輸送箱管理不足。
――次に見る日。次回薬草茶輸送時、箱乾燥欄と匂い欄を必ず確認。
付記。
――配布前に止める勇気と、止めた後に説明する責任は同じ制度の中に置くべきである。
――悪いものまで配らないなら信用できる、という救貧院側の声を記録する。
筆を置くと、リリアナが横から静かに言った。
「今回、止まってよかったですね」
「ええ」
「でも、止まって大変でしたね」
「ええ」
「よかったことと、大変だったことが一緒にある」
「だいたい、そういうものよ」
リリアナは小さく頷いた。
「私、最初は説明したら分かってもらえると思っていました。でも、不満も出ました」
「それも学びね」
「はい」
彼女は手帳に書いた。
――安全のためでも、遅れたら困る。
――説明は怒られないためではなく、相手が状況を知って不満を言えるようにするため。
――悪いものを捨てたと書くことも、信頼になる。
書き終えて、リリアナは少しだけ笑った。
「薬草茶ひとつで、こんなに書くことがあるのですね」
「支援は、届く前にも仕事が多いのよ」
「届いた後も?」
「もちろん」
「……終わらない」
「終わらないわ」
エレノアが答えると、リリアナは前ほど絶望した顔をしなかった。
ただ、少し疲れたように笑った。
「でも、次に見る日を書くのですね」
「ええ」
王妃基金の机の上には、また新しい様式が増えた。
薬草輸送箱確認表。
洗浄済み。
乾燥済み。
匂い確認。
確認者。
次に見る日。
たった一つの匿名報告から、ここまで来た。
それを面倒だと思う者もいるだろう。
だが、面倒だからこそ、誰かを守る。
エレノアは、灯りの下で新しい確認表を見つめた。
王妃の死を止めることはできなかった。
けれど、今日の薬草茶は止められた。
その事実を、美談にせず、記録として残す。
次に止めるために。
次に、より早く気づくために。




