第5話 二日目、隣国大使が帰国を告げた
王宮茶会が予定より早く終わったという知らせは、その日のうちに王都の社交界を駆け巡った。
誰が最初に漏らしたのかは分からない。
茶会に参加した夫人の侍女かもしれない。
庭園の片づけに入った下働きかもしれない。
あるいは、王宮内で噂を好む若い官吏かもしれなかった。
けれど、噂というものは、出どころよりも形を変える速さの方が恐ろしい。
夕刻にはすでに、王都の貴族街でこう囁かれていた。
新しい王太子妃候補は、初めての茶会で侯爵夫人と伯爵夫人を喧嘩させたらしい。
王妃基金の話題を不用意に出し、財務官夫人が顔色を変えたらしい。
隣国セルベリアの大使夫人を末席に近い場所へ置いたらしい。
王太子殿下は、その場で泣き出したリリアナ嬢を庇い、夫人たちをたしなめたらしい。
そして、最後には皆が前任のエレノア嬢を褒めたらしい。
噂は、最後の一文を特に好んだ。
王宮から追い出された姉の名が、妹の初舞台で何度も出た。
それは、社交界にとって格好の話題だった。
翌朝、王宮は表面上、いつも通りに始まった。
女官たちは廊下を磨き、侍従たちは予定表を持って足早に歩き、官吏たちは文書を抱えて執務棟へ向かう。
けれど、その空気は明らかに昨日とは違っていた。
誰も声を大きくしない。
誰もリリアナの名を口にしない。
そして、誰もエレノアの不在について触れない。
触れないからこそ、そこに空白があることが分かる。
南翼の小会議室で、王太子ユリウスは朝から不機嫌だった。
卓上には、いくつもの文書が積まれている。
茶会に関する報告書。
ハウゼン侯爵夫人からの抗議文。
ミルド伯爵夫人からの丁寧すぎる欠席連絡。
孤児院後援会からの王妃基金支出確認依頼。
そして、セルベリア大使館から届いた一通の封書。
ユリウスは、その最後の封書を睨んでいた。
「どういう意味だ」
彼の声は低かった。
側近のローレンは、額に汗を浮かべながら答えた。
「セルベリア王国大使より、本日予定されていた非公開会談の前に、亡き王妃陛下との密約文書の確認を求めるとのことです」
「だから、その密約文書とは何だ」
「それが……」
ローレンは口ごもった。
「王妃陛下がご存命の頃、セルベリア王家との間で交わされた非公開協定の原本かと」
「原本を出せばいい」
「保管場所が分かりません」
ユリウスは顔を上げた。
「分からない?」
「はい」
「王宮文書庫にあるのだろう」
「おそらくは」
「なら探せ」
「探しております」
ローレンの声はかすかに震えていた。
「ですが、王妃陛下関連の非公開書簡は暗号分類されておりまして、通常の索引では辿れません」
「暗号分類?」
「はい。王妃陛下と、エレノア様が管理されていたものです」
その名が出た瞬間、ユリウスの眉が動いた。
エレノア。
昨日、あれほど耳にした名。
茶会でも。
夫人たちの口からも。
女官長マルタの説明の中でも。
そして今、また。
「エレノアはもう関係ない」
ユリウスは苛立たしげに言った。
「文書の管理くらい、文書官ができるはずだ」
ローレンは答えなかった。
王宮文書官たちも探している。
だが、彼らは王妃の私的外交文書の全容を知らない。
正式な外交文書であれば外務局に写しが残る。王家の公式協定なら王宮文書庫の上位分類に入る。
しかし、王妃エレオノーラは病床にあっても、王家の公式筋とは別に、セルベリア王家と繊細なやり取りを続けていた。
隣国との婚姻同盟。
国境地帯の孤児保護。
薬草交易の優先権。
そして、万が一王太子ユリウスの継承に問題が起きた場合の、セルベリア側の中立保証。
それらは、まだ公にできないものだった。
だから、王妃は信頼できる者だけに整理を任せた。
その一人が、エレノアだった。
「リリアナはどうした」
ユリウスが尋ねた。
「リリアナ様は、昨日の茶会の件でお疲れが出たとのことで、今朝はお部屋でお休みです」
「……そうか」
ユリウスの声が少し柔らかくなった。
昨日、リリアナは泣き疲れてしまった。
夜になっても何度も「私が悪いのかしら」と震え、ユリウスはそのたびに「君は悪くない」と慰めた。
悪いのは、彼女の優しさを理解しない夫人たち。
悪いのは、初めから分かりやすく引き継がなかったエレノア。
そう思おうとした。
そう思わなければ、昨日の混乱を飲み込めなかった。
だが、今朝の文書の山は、その言い訳を許してくれない。
「密約文書がなければ、何が困る」
ユリウスは机に肘をつきながら尋ねた。
ローレンは青ざめた。
「殿下。セルベリア王国との関係に関わります」
「だから、具体的にだ」
「本日確認予定だったのは、王妃陛下が進めておられた国境孤児保護協定と、薬草交易の優先供給条項です。特に王妃陛下の療養にも使われていた高地薬草は、セルベリアからの供給に頼っております」
「王妃はもう亡くなった」
言った直後、室内の空気が硬くなった。
ローレンは、恐る恐る目を上げた。
「殿下」
ユリウス自身も、自分の言葉が軽すぎたことに気づいた。
しかし、引っ込めるには遅かった。
「……違う。そういう意味ではない」
「承知しております」
ローレンは頭を下げた。
承知している、と言うしかなかった。
ユリウスは深く息を吐き、椅子にもたれた。
「とにかく、書庫を探せ。文書官全員に命じろ」
「すでに」
「では、エレノアの残した資料を探せ」
「東翼執務室に一部ございますが、昨日の移動で分類が乱れております」
「乱れている?」
「リリアナ様のご指示で、机の上の資料を一度片づけた際に……」
ユリウスは額に手を当てた。
昨日、エレノアが言っていた。
黒革の台帳と青紐の書簡束には触れるな。
隣国との関係に影響する。
その時は、大げさだと思った。
今になって、その言葉が妙に重く響く。
「青紐の書簡束を探せ」
「はい」
ローレンが部屋を出ようとした時、扉の外が騒がしくなった。
侍従が慌てて入ってくる。
「殿下。セルベリア大使がお見えです」
「予定より早い」
「はい。至急お会いしたいと」
ユリウスは立ち上がった。
「通せ」
数分後、セルベリア王国大使アルフレッド・グラントが入室した。
銀灰色の髪を後ろで結び、濃緑の礼服を着た壮年の男である。整った物腰をしているが、目はまったく笑っていなかった。
昨日の茶会に出席していた大使夫人アデライナの夫でもある。
彼は深く礼をした。
礼は完璧だった。
だからこそ、その奥にある怒りが際立った。
「王太子殿下。お時間をいただき、感謝いたします」
「こちらこそ。昨日は夫人に不快な思いをさせたと聞く。リリアナも初めてのことで不慣れだった。悪気はなかったのだ」
大使は表情を変えなかった。
「悪気の有無は、外交儀礼において最優先事項ではございません」
ユリウスの顔が強張る。
「何?」
「失礼。ですが、我が妻は亡き王妃陛下への弔意をもって参列いたしました。にもかかわらず、王家に近い席ではなく、若い男爵夫人方の歓談席に置かれた。これは、我が国に対する扱いとしても、王妃陛下への弔意としても、極めて不適切です」
「それについては謝罪する」
「謝罪は受け取ります」
大使は静かに言った。
「ですが、本題は別にございます」
ユリウスは椅子に座り直した。
「密約文書の件か」
「はい」
「現在、確認中だ」
「確認中」
大使の声に、わずかな冷えが混じった。
「昨日の時点で確認済みであるべき文書です」
「王妃が亡くなり、王宮内も混乱している」
「承知しております。だからこそ、我が国は七日待ちました」
七日。
ユリウスは言葉に詰まった。
王妃の葬儀から七日。
エレノアが王宮に詰め、遺品と文書を整理していた期間だ。
その間に確認すべきだった。
彼女なら、していただろう。
そんな考えが頭をよぎり、ユリウスはすぐに打ち消した。
「文書は王宮内にある。少し時間をもらいたい」
「いつまででしょう」
「今日中には」
「殿下」
大使は、初めて声を少し低くした。
「この文書は、単なる思い出の品ではございません。王妃エレオノーラ陛下と我が王家が、互いの信頼をもって交わした約束です。確認できないということは、その約束の存在を貴国が軽んじていると受け取られかねません」
「軽んじてなどいない」
「では、原本を」
沈黙が落ちる。
ユリウスは、手元の封書を見た。
文書はない。
あるはずのものが、出せない。
それだけのことが、これほど自分を追い詰めるとは思わなかった。
「王宮文書庫は広い」
ユリウスは苦し紛れに言った。
「王妃が独自に分類していたものなら、時間がかかるのも当然だ」
「その分類を管理されていたエレノア様は、どちらに?」
ユリウスの喉が詰まった。
また、その名。
「彼女は……現在、王宮の職務を離れている」
「離れている?」
大使の眉がかすかに動いた。
「昨日、妻より聞きました。王太子妃候補が交代されたと」
「そうだ」
「王妃陛下の文書整理を担っていた方を、王妃陛下の葬儀からわずか七日で職務から外されたのですか」
ユリウスは、反射的に反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
その通りだった。
王妃の葬儀から七日。
まだ遺品整理も文書確認も終わっていない。
その段階で、彼はエレノアを切った。
リリアナを選ぶために。
「私的な婚約の問題だ」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも頼りなかった。
大使は静かに首を振った。
「殿下。王太子の婚約は私的問題ではございません。まして、王妃陛下の機密文書を扱う立場にあった方を外すのであれば、引き継ぎが必要です」
「引き継ぎは……」
ユリウスは言いかけて、止まった。
引き継ぎ。
昨日、エレノアは確かに引継書を渡していた。
リリアナは読めなかった。
ユリウスは、そんなもの必要ないと言った。
細かいことは女官に任せればいい、と。
リリアナの感性に任せろ、と。
その結果が、昨日の茶会であり、今日の文書紛失だった。
大使は短く息を吐いた。
「本日正午までに原本、あるいは王妃陛下直筆の写しをご提示ください」
「正午?」
「はい」
「それは急すぎる」
「急なのは、貴国が準備を怠ったためです」
ユリウスの顔が赤くなる。
王太子として、ここまで真正面から言われたことは少ない。
大使は続けた。
「ご提示いただけない場合、私は本国へ帰国し、王妃陛下との約束の継続性について、国王陛下へ再確認を求めます」
「帰国するつもりか」
「必要であれば」
部屋の温度が下がったようだった。
大使が帰国する。
それは、ただの外交官の移動ではない。
王妃の死後、セルベリアがこの国との約束を見直すという意思表示になる。
薬草交易。
国境孤児保護。
婚姻同盟。
そして、おそらく王太子ユリウスへの信頼。
すべてに影が落ちる。
「待ってくれ」
ユリウスは立ち上がった。
「文書は必ず出す」
「期待しております」
大使は礼をした。
最後まで礼は崩れなかった。
だが、退出間際、彼は一度だけ振り返った。
「亡き王妃陛下は、エレノア様を非常に信頼しておられました。殿下がその意味を軽んじておられないことを、願っております」
扉が閉まる。
ユリウスはしばらく立ち尽くしていた。
その顔には、怒りと焦りと、認めたくない不安が混じっていた。
「ローレン」
「はい」
「青紐の書簡束を探せ。東翼執務室も、文書庫も、王妃の私室も全部だ」
「かしこまりました」
「それから……」
ユリウスは言葉を飲み込んだ。
エレノアを呼べ。
そう言えば済む。
これまでは、そうだった。
何か困れば、エレノアが来た。
資料を失くせば、彼女が探した。
会議前に論点を忘れれば、彼女が小声で補足した。
相手の機嫌を損ねれば、彼女が手紙を書いて収めた。
それが当然だった。
だが、昨日エレノアは言った。
私はもう王太子妃候補ではありません。
正式な文書で依頼してください。
ユリウスは歯を食いしばる。
「……いや、まず探せ」
「はい」
ローレンが出ていく。
ユリウスは一人、机の上の文書を見下ろした。
何も読めないわけではない。
彼は愚かではなかった。
教育も受けている。
王太子として必要な知識も、ある程度はある。
だが、今、目の前に積まれている文書は、彼が一人で扱うにはあまりに絡み合っていた。
茶会の失態が、夫人同士の感情を傷つける。
その感情が、王妃基金への疑念を表面化させる。
王妃基金の問題が、王妃の遺産整理に影を落とす。
そして、王妃の遺産と文書が、隣国との密約に繋がっている。
一つ一つは些細なことに見えた。
席次。
挨拶。
文書の紐の色。
夫人の過去の不満。
帳簿の数字。
エレノアはそれらをすべて、つなげて見ていたのだろうか。
ユリウスは机の端を強く掴んだ。
「……分かりにくくしすぎなんだ」
小さく呟く。
そう思いたかった。
彼女がわざと複雑にした。
彼女が自分にしか分からないように管理した。
だから今、困っているのだ。
そう思わなければ、自分が十年も何も見ていなかったことになる。
午前の王宮は、慌ただしく過ぎた。
文書官たちは王宮文書庫を開け、王妃関連の箱を次々と確認した。
だが、王妃の文書は単純な年代順では並んでいなかった。
月桂樹の印。
青紐。
灰色の副封。
セルベリア語の短縮記号。
王妃の私的暗号。
どれも、分かる者には分かるのだろう。
だが、分からない者にはただの迷路だった。
リリアナも、昼前になってようやく東翼執務室へ現れた。
目元は赤く、顔色もよくない。
けれど、ドレスは美しく整えられていた。
彼女は部屋の中で官吏たちが慌ただしく資料を探す様子を見て、不安そうに立ち尽くす。
「何か、私にできることはありますか」
声だけは健気だった。
若い官吏の一人が、思わず励ますように言う。
「リリアナ様は、お気になさらず」
その言葉に、リリアナは少し安心した。
だが、マルタは静かに言った。
「昨日、エレノア様がお渡しになった引継書をお持ちください。青紐の書簡束について記載があるはずです」
「引継書……」
リリアナは机の上を見た。
花瓶。
香水瓶。
刺繍布。
未開封の招待状。
そして、その下敷きになった革表紙の冊子。
彼女は慌ててそれを取り出した。
数枚の紙が床へ落ちる。
マルタが無言で拾い上げた。
リリアナはページをめくる。
けれど、どこを見ればいいのか分からない。
「どこに……」
「目次がございます」
「目次?」
マルタが示す。
リリアナはようやく該当箇所を見つけた。
そこには、確かに書かれていた。
セルベリア関連書簡
青紐、灰封、月桂樹印
東翼執務室第三棚より王宮文書庫第三保管室へ移送予定
移送前につき触れず保管
王太子殿下およびリリアナ様へ要説明
リリアナの指が震えた。
「第三棚……」
しかし、第三棚は空だった。
昨日、部屋を飾るために資料箱を移動させた時、その中身は他の資料と一緒に床へ積まれた。
さらに、女官が片づけようとして別の箱へ移した。
そこから先は、誰も正確に覚えていない。
「私……知らなかった」
リリアナの声は小さかった。
マルタは言った。
「エレノア様は、昨日ご説明なさいました」
「だって、あんなに難しいことを一度に言われても……」
「リリアナ様」
マルタの声は、昨日よりもずっと静かだった。
「難しいからこそ、読まなければならなかったのです」
リリアナは黙った。
その瞳に涙が浮かぶ。
いつもなら、誰かがすぐに慰めただろう。
だが今日は、官吏たちも女官たちも、彼女に構っている余裕がなかった。
正午が近づいている。
文書が見つからなければ、セルベリア大使は帰国準備に入る。
その緊張が、リリアナの涙よりも重く部屋を支配していた。
正午前。
ついに、王宮中を探しても青紐の書簡束は見つからなかった。
見つかったのは、空の保管箱と、剥がれた灰色の副封だけだった。
ユリウスは報告を受け、顔を蒼白にした。
「紛失したと言うのか」
「断定はできません。ただ、所在不明です」
「同じことだ!」
彼の怒声が会議室に響いた。
官吏たちは頭を下げる。
ローレンは震える声で言った。
「殿下。エレノア様に確認を……」
「黙れ」
「ですが」
「黙れと言っている!」
ユリウスは机を叩いた。
自分でも、なぜそこまで拒むのか分からなかった。
エレノアを呼べば、解決するかもしれない。
だが、それは認めることになる。
自分が彼女を必要としていることを。
リリアナでは駄目だったことを。
昨日、自分が切り捨てた女性が、王宮を支えていたことを。
認めたくなかった。
その時、侍従が青ざめた顔で入ってきた。
「殿下。セルベリア大使が、帰国準備を始められました」
室内が凍りついた。
「……何だと」
「正午までに文書提示がなかったため、本国へ報告すると」
ユリウスは立ち上がった。
「止めろ」
「すでに大使館馬車が王宮外門へ」
「止めろと言っている!」
ユリウスは駆け出すように部屋を出た。
廊下を進み、王宮外門へ向かう。
騎士たちが慌てて道を開ける。
外門には、すでにセルベリア王国の紋章を掲げた馬車が停まっていた。
大使アルフレッドは、従者に荷を積ませているところだった。
隣にはアデライナ夫人もいる。
彼女は昨日と同じく、静かで気品ある表情をしていた。
「大使」
ユリウスが声をかける。
大使は振り向き、礼をした。
「王太子殿下」
「帰国は早計だ」
「正午までに原本、あるいは写しをご提示いただけませんでした」
「今、探している」
「昨日の時点でも、今朝の時点でも、同じお言葉でした」
ユリウスは言葉に詰まる。
「王宮を信じられないというのか」
「王妃エレオノーラ陛下は信じております」
大使は、はっきりと答えた。
「そして、陛下が信頼されたエレノア様も」
その名が、外門の冷たい空気に響いた。
「ですが、現在の王宮の判断については、本国に確認を求める必要がございます」
「セルベリアは、我が国との関係を壊すつもりか」
言った瞬間、アデライナ夫人の表情が初めてわずかに動いた。
それは怒りではない。
失望だった。
大使は静かに言った。
「殿下。関係とは、一方が壊すものではございません。双方が守るものです」
ユリウスは何も言えなかった。
「亡き王妃陛下は、その守り方をご存じでした」
大使は続ける。
「文書一通の重みを。席次一つの意味を。沈黙すべき時と、言葉を尽くすべき時を」
ユリウスの拳が震えた。
「それは、私には分からないと言いたいのか」
「学ばれる時間は、まだおありかと」
大使は礼をした。
丁寧すぎるほどの礼だった。
そして、それがユリウスへの最後の礼であるかのようにも見えた。
馬車の扉が閉まる。
セルベリア王国の紋章が、ゆっくりと王宮から離れていく。
ユリウスは、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。
風が吹く。
王宮の旗が揺れる。
彼はその場に立ち尽くしたまま、初めてはっきりと感じた。
何かが崩れている。
昨日の茶会のような、一時の失態ではない。
もっと深い場所で。
王宮の土台が、音もなく沈み始めている。
その日の午後、王宮内には緊急会議が開かれた。
しかし、文書は見つからない。
セルベリア大使は王都を出た。
王妃基金への問い合わせは増え続ける。
そして、王妃の遺産整理も進んでいない。
誰かが、ついに口にした。
「エレノア様をお呼びすべきでは」
誰もすぐには反対しなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
一方、王都外れの祖母の旧邸で、エレノアは一通の知らせを受け取っていた。
届けたのは、マルタの使いだった。
セルベリア大使、帰国準備。
密約文書、所在不明。
王宮内、混乱。
エレノアは文面を最後まで読み、静かに目を閉じた。
驚きはなかった。
青紐の書簡束は、昨日の時点で触れるなと伝えてある。
それを守らなかったのなら、混乱は当然だった。
アニーが不安げに尋ねる。
「エレノア様……王宮へ向かわれますか」
エレノアは手紙を折りたたんだ。
胸が痛まないわけではない。
セルベリアとの協定は、王妃が最後まで気にかけていたものだ。
国境の孤児たち。
薬草交易。
病に苦しむ人々のための供給路。
それらが危うくなるのは、エレノアにとっても本意ではなかった。
だが、王宮は彼女を切り捨てた。
権限もなく、立場もなく、ただ便利な手として戻ることはできない。
それをすれば、また同じことになる。
必要な時だけ呼ばれ、終われば邪魔者として退けられる。
エレノアは、もうその場所へ戻らない。
「正式な依頼は?」
「まだ、ございません」
「では、動きません」
「でも……」
エレノアは窓の外を見た。
午後の光は弱く、庭の樫の葉が灰色がかって見える。
「アニー。人は、自分が軽んじたものの重さを、自分で持たなければ学びません」
自分で言いながら、少し苦かった。
学ぶために国が傷つくのは望まない。
けれど、何も学ばないままエレノアだけが戻れば、王宮はまた彼女に重荷を押しつける。
その時、胸元の黒封蝋がわずかに衣越しに触れた。
エレノアは手を当てる。
王妃エレオノーラの遺言状。
まだ封は切っていない。
けれど、今なら少しだけ分かる。
王妃は、こうなることを見越していたのかもしれない。
王宮がエレノアを失い、その価値に気づく日を。
そして、誰かが正式に彼女を迎えに来なければならなくなる日を。
エレノアは静かに言った。
「王妃様。私は、まだ戻りません」
それは意地ではない。
復讐でもない。
戻るなら、証人として戻る。
権限を持つ者として戻る。
そして、記録を見る者として戻る。
王宮は二日目にして、隣国の信頼を失いかけた。
三日目に待っているのは、さらに深い亀裂だった。
王妃の遺産目録。
そこには、誰も触れてはならなかった不正の影が眠っている。




