第36話 青い祈りの糸
青い祈りの糸。
その名だけを聞けば、慈善活動としては美しかった。
冬を越す衣を持たない子供たちのために、青い糸飾りを売る。
小さな硝子石の指輪や髪留めを、貴婦人たちが茶会で買う。
その売上で毛布を買い、靴下を縫い、古い孤児院の窓に厚い布を掛ける。
誰かの冬を、少しだけ温めるための青。
そう説明されれば、多くの人は疑わない。
疑わないどころか、胸元に青い飾りをつけて微笑むだろう。
私は慈善に関わっている。
私は弱い者を見捨てていない。
私は美しい善意の側にいる。
けれど、今のエレノアには、その青が別の色に見えていた。
洗濯室の排水口から見つかった欠片。
リゼット・グランの指輪。
慈善衣料会の在庫記録に残る数の矛盾。
針子たちの沈黙。
夫人会の美しい言葉。
保護証言室を潰すという脅し。
青い祈りの糸は、ただの慈善活動ではなかった。
誰かがその糸を、王宮の裏側へ張り巡らせていた。
北翼の監査室では、朝から青い祈りの糸に関する記録が机いっぱいに広げられていた。
販売台帳。
寄付者名簿。
購入者一覧。
小物の仕入れ記録。
作業場の納品書。
慈善衣料会の活動報告。
夫人会茶会の出席者名簿。
その横に、青い硝子石の指輪が五つ並べられている。
リゼットの住居から三つ。
聖クララ縫製所から二つ。
うち一つは、ネルが持ち込んだ欠片と一致した。
青い祈りの糸の記録上、指輪は十二個仕入れられている。
販売済み九個。
不明在庫三個。
だが実際には、少なくとも五個が裏で使われていた。
数が合わない。
小さな不一致。
だが、こういう不一致こそが、最初の穴になる。
「販売済み九個の購入者を確認します」
エレノアは言った。
オスカーが名簿を手に取る。
「購入者名はすべて残っています。ただ、茶会での慈善販売ですので、夫人本人ではなく侍女や代理人が受け取ったものもあります」
「代理人の名も」
「あります。ですが、かなり雑です」
「見せてください」
名簿には、たしかに美しい文字で購入者の名が並んでいた。
デリア・ラングフォード侯爵夫人。
クラリッサ・エーデル伯爵夫人。
ジョアンナ・フェルミ子爵夫人。
ミリアム・ローゼン侯爵夫人。
その他、夫人会の常連たち。
その横に、購入品の種類が書かれている。
青糸ブローチ。
青硝子髪留め。
青糸飾り。
青硝子指輪。
指輪を購入した者は九名。
そのうち三名は、本人ではなく侍女名義で受け取っていた。
エレノアは、その三名に印をつけた。
「侍女名義の三件を優先確認します」
カインが向かい側から名簿を覗いた。
「なぜだ」
「夫人本人が身につけないものを購入している可能性が高いからです。青い硝子石の指輪は安価で、上位貴族夫人が自分で使うにはやや粗末です。慈善目的なら購入はするでしょうが、誰が受け取ったかが重要です」
「その三名は?」
「デリア夫人の侍女、クラリッサ夫人の侍女、そして……ベアトリス夫人の侍女」
ベアトリス・モーン。
ダリウスの妻。
沈黙を破り、手帳を提出した女性。
カインの目が細くなる。
「ベアトリスも絡むか」
「分かりません。彼女の侍女が受け取ったことになっていますが、本人が知っていたかどうかは別です」
「すぐに聞くか」
「はい。ただ、責める形にはしない方がいいでしょう。彼女はまだ証言者です」
「分かっている」
その時、リリアナが控えめに手を上げた。
最近の彼女は、発言する前に必ず一度手を上げる。以前のように感情のまま割り込まないよう、自分で決めたらしい。
「何か気づいた?」
エレノアが尋ねると、リリアナは手帳を開いた。
「青い祈りの糸の茶会、私も一度出ています。まだ王太子妃候補になる前です。お母様に連れられて」
「いつ頃?」
「たぶん、二年前の冬前。リリアナ様も慈善に興味を持つべきだって言われて。そこで、オルガ様が青い指輪を見せてくれました」
エレノアは筆を持った。
「詳しく話して」
「はい。オルガ様は、指輪を『祈りを手元に残すもの』と言っていました。髪飾りやブローチは人に見せるものだけれど、指輪は自分で見るものだから、忘れないために良いって」
「誰に勧めていた?」
リリアナは眉を寄せた。
「若い夫人や侍女に。特に、夫人本人より、付き添いの侍女や下働きの女性に優しく声をかけていた気がします。『あなたたちも誰かを助ける一員よ』って」
「指輪を身につけるのは、夫人ではなく実際に動く者」
「そうかもしれません」
リリアナは手帳に目を落とした。
「あと……オルガ様は『この青を見せれば、同じ祈りを持つ人には分かる』と言っていました」
カインが顔を上げる。
「同じ祈りを持つ人には分かる?」
「はい。その時は素敵な言葉だと思いました。でも今考えると、合図みたいです」
「合図だな」
カインは短く言った。
リリアナは少し肩を縮めた。
「私、聞いていたのに何も気づきませんでした」
「当時は分からなくて当然よ」
エレノアが答える。
「ただし、今思い出せたことは重要です」
リリアナは少しだけ安心したように頷いた。
その時、マルタが静かに口を開いた。
「その茶会で、王宮女官や洗濯室の者が呼ばれていた可能性はありますか」
リリアナは考え込んだ。
「正式な王宮女官はいなかったと思います。でも、衣料会の手伝いとして、王宮で働いていたことがある人がいたかもしれません。オルガ様が『王宮の布を知る者は手が良い』と話していた記憶があります」
「王宮の布を知る者」
エレノアは繰り返した。
ミラ・ハーディ。
元王宮洗濯係。
ベアタ。
洗濯室の古参。
そして、リゼット。
青い祈りの糸は、寄付活動であると同時に、王宮の衣料管理に触れたことのある者を集める場でもあったのかもしれない。
「夫人会の茶会で、王宮経験者を慈善活動へ引き込む」
エレノアは整理するように言った。
「その中から、使えそうな者へ青い指輪を渡す。最初は善意の印として。後に、裏連絡の合図として」
オスカーが記録する。
「指輪を持つ者は、互いに相手を確認できる。王宮の通用門や洗濯室、縫製所、保管庫で動く時に使った可能性がありますね」
「はい」
カインは名簿を見ながら言った。
「指輪購入者九名のうち、裏連絡に使われた者が何人いるか洗う。全員を犯人扱いするな。慈善品として買っただけの者もいる」
「承知しています」
エレノアは頷いた。
ここを誤れば、保護証言室そのものへの反発が強まる。
青い指輪を持っていたから悪人。
そんな雑な裁きはできない。
記録と証言と行動を照合する必要があった。
最初に呼ばれたのは、ベアトリス・モーンの侍女だった。
名はセラ。
二十代半ばの落ち着いた女性で、ベアトリスと共に王宮へ来たこともある。
彼女は証言室に入ると、すぐに深く頭を下げた。
「青い祈りの糸の指輪についてお尋ねですね」
その言い方に、エレノアは少し眉を動かした。
「なぜ分かりましたか」
「奥様が、そうかもしれないと」
「ベアトリス夫人が?」
「はい。昨日から、青い指輪の件が王宮で調べられていると聞きまして。奥様が、昔の茶会で私が一つ受け取ったはずだとおっしゃいました」
「その指輪は今どこに?」
セラは小さな布袋を出した。
中には、青い硝子石の指輪が一つ入っている。
石は欠けていない。
「使っていなかったのですか」
「はい。私は指輪を仕事中につけませんので」
「なぜ受け取ったのですか」
「奥様に代わって購入品を受け取りました。オルガ夫人から、侍女のあなたも身につければよいと勧められましたが、私は……その、安物でも指輪をつけるのは苦手で」
セラは少し恥ずかしそうに言った。
嘘をついている様子はなかった。
「オルガ夫人は、他の侍女にも勧めていましたか」
「はい。特に、王宮へ出入りする機会のある侍女や、慈善衣料会の手伝いをしている者に」
「何と言って?」
「青い祈りを持つ人は、どこにいても助け合える、と」
また同じ言葉。
助け合い。
祈り。
善意。
美しい言葉が、合図になる。
「セラ。あなたはその指輪を使って誰かと連絡したことは?」
「ありません」
「青い指輪を持つ者同士の合図だと聞いたことは?」
「いいえ。ただ……」
セラは言いよどんだ。
「話してください」
「その茶会の後、オルガ夫人の侍女が私に声をかけました。もし王宮で困ったことがあれば、青い指輪をつけて南回廊の布置き場へ行けば、手助けできる人がいると」
「南回廊の布置き場」
マルタが顔を上げた。
「王宮洗濯室へ布が運ばれる中継場所です」
「セラは行きましたか」
「いいえ。行く理由がありませんでしたし、少し気味が悪かったので」
その「気味が悪かった」という感覚が、彼女を守ったのだろう。
エレノアは頷いた。
「あなたの証言と指輪は記録します。現時点で、あなたを不正協力者とは扱いません。ただし、追加確認のため再度お呼びすることがあります」
セラはほっとしたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼女が去った後、エレノアは南回廊の布置き場を資料に加えた。
そこは王宮の中でも、人の出入りが多く、しかし上位者の目が届きにくい場所だった。
洗濯物。
補修用布。
寄付衣料。
舞踏会後のテーブルクロス。
女官服。
布は、王宮のあちこちを移動する。
人よりも疑われにくい。
布に紛れて小さな書簡や型紙を運ぶこともできる。
「王宮内の布の流れを、誰かが使っていた」
エレノアが言うと、マルタは苦い顔で頷いた。
「女官服も、洗濯記録も、寄付衣料も。同じ布として扱われれば、紛れます」
「南回廊の布置き場を封鎖しますか」
オスカーが問う。
カインは即座に首を横に振った。
「完全封鎖はしない。業務が止まる。監視を置け。出入り記録を今日から厳格化する」
「過去の記録は?」
「残っている分を洗う」
マルタが言った。
「布置き場の管理帳は、日によってかなり雑です。特に舞踏会や茶会の後は量が増えるため」
「それも改革対象ですね」
エレノアは新しい紙へ書き加えた。
――王宮布類移動記録の整備。衣装管理、洗濯室、寄付衣料、舞踏会備品を分離記録。
地味だ。
とても地味だ。
だが、偽女官服も、型紙も、青い指輪の合図も、布の流れを通じて動いていた。
ならば、布の記録も必要になる。
王宮は、思っていた以上に布でできている。
午後、クラリッサ・エーデル伯爵夫人の侍女が呼ばれた。
彼女はセラとは違い、最初からひどく怯えていた。
青い指輪は「なくした」と言った。
いつ、どこで、なぜなくしたのかは曖昧だった。
さらに確認すると、彼女は二度、南回廊の布置き場へ行っていた。
理由は、夫人会の寄付布を届けるため。
その時、誰に会ったか。
彼女は答えられなかった。
答えられないのではなく、答えたくないのだと、エレノアには分かった。
「あなたは、正式証言に進む前に相談段階として話すこともできます」
エレノアが言うと、侍女は目を見開いた。
「相談……?」
「はい。誰かに脅されているなら、それも記録できます」
侍女は、今にも泣きそうな顔になった。
「私は、奥様を裏切れません」
「あなたが話すことが、必ず奥様への裏切りになるとは限りません」
「でも……」
「青い指輪をなくしたと言いましたね。本当に?」
侍女は沈黙した。
長い沈黙の後、彼女は震えながら言った。
「……返しました」
「誰に?」
「リゼットです」
記録係の筆が走る。
「リゼットに、何を頼まれましたか」
「布置き場に小さな包みを置くように、と。中身は知りません。本当に知りません。夫人会の仕事だと言われて」
「包みの大きさは?」
「これくらいです」
彼女は両手で示した。
手のひらに収まるほど。
書簡か、封蝋か、小さな型紙か。
「いつ?」
「王妃陛下が亡くなる前と、偽女官の件の前……二回」
「二回とも、リゼットへ指輪を見せた?」
「はい。青い指輪をつけていれば、布置き場の者が何も聞かないから、と」
「布置き場の者?」
マルタの表情が変わった。
「誰ですか」
「名前は……分かりません。男の人です。片目の下にほくろがあって」
マルタが低く言った。
「布置き場係のジムかもしれません」
王宮内部に、また一人。
エレノアは目を伏せなかった。
青い祈りの糸は、夫人会の茶会だけでなく、王宮の布置き場まで伸びていた。
夕方までに、九個の販売済み指輪のうち、五個の行方が確認された。
一つはベアトリスの侍女セラが保管。
一つはクラリッサ夫人の侍女がリゼットへ返却。
一つはデリア夫人の侍女が「慈善品として保管」と証言。ただし、実物はまだ提出されていない。
一つはミリアム夫人が購入し、実際に孤児院の競売品として寄付していた。
一つは行方不明。
さらに在庫不明品として、リゼットの住居と縫製所にあった五個。
数は、もうぐちゃぐちゃになっていた。
だが、ぐちゃぐちゃであること自体が、不正の証拠だった。
正しい慈善活動なら、販売数と在庫数がここまで崩れない。
夜に近づく頃、南回廊の布置き場係ジムが拘束された。
彼は最初、何も知らないと言い張った。
しかし、青い指輪を持つ侍女たちが来た時だけ荷の確認を省いていたことを、同僚に証言された。
理由は、小遣いだった。
リゼットから銀貨を渡され、青い指輪をつけた者の包みは見逃せと命じられていた。
彼は中身を知らなかった。
本当に知らなかったのだろう。
だが、知らないまま通した。
それが何度も繰り返されていた。
ジムの証言により、青い指輪の合図はこう整理された。
青い祈りの糸の茶会で指輪が配られる。
一部の侍女や協力者が、リゼットから個別に声をかけられる。
青い指輪をつけて南回廊の布置き場へ行く。
布置き場係は中身を確認せず包みを通す。
包みは洗濯室、衣装管理室、慈善衣料会保管庫へ流れる。
小さな包みの中身は、書簡、型紙、封蝋、偽印の一部、あるいは金だった可能性がある。
王宮の中を、青い糸が縫うように走っていた。
エレノアはその図を見ながら、背筋が冷えるのを感じた。
「王宮は、侵入されていたのですね」
オスカーが低く言った。
「侵入ではありません」
エレノアは答えた。
「王宮が持っていた通路を、利用されたのです」
それはもっと悪い。
扉を壊されたのではない。
こちらが開けていた小さな隙間を、善意と仕事の名で通られた。
カインが図を見下ろして言った。
「デリア夫人の侍女が指輪をまだ提出していないのが気になるな」
「はい」
エレノアも同じ場所を見ていた。
デリア・ラングフォード侯爵夫人。
夫人会代表。
改革に表向き同意し、試験制度を受け入れた女性。
彼女がオルガのような黒幕だと決めつけるのは早い。
しかし、彼女の周囲から指輪の未提出が出ている以上、確認は避けられない。
「明日、デリア夫人に正式に照会します」
エレノアは言った。
「茶会ではなく、記録照会として」
「彼女は嫌がるぞ」
カインが言う。
「承知しています」
「夫人会との合意が揺れるかもしれない」
「合意を守るためにも、照会が必要です」
エレノアは、青い祈りの糸の名簿を閉じた。
「夫人会代表の周辺だけ例外にすれば、改革は最初から形だけになります」
カインは少しだけ黙った。
それから頷いた。
「その通りだ」
その日の終わり、リリアナがまとめた「青い祈りの糸について覚えていること」の資料が提出された。
文字はまだ整っていない。
だが、欄分けはきちんとしていた。
覚えていること。
その時に感じたこと。
今考えると疑わしいこと。
確認が必要なこと。
エレノアは、その資料を読んで少し驚いた。
リリアナは、ただ感想を書いたのではなかった。
茶会で誰がオルガの近くに座っていたか。
青い指輪を誰が受け取っていたか。
自分が可愛いと言われて気を取られていた間に、侍女たちが別室へ呼ばれていたこと。
母セレスティアが指輪には興味を示さず、オルガとグレゴールの話に耳を傾けていたこと。
まだ曖昧だ。
だが、使える情報がある。
「これ、役に立ちますか」
リリアナが不安そうに尋ねる。
「立ちます」
エレノアは答えた。
「特に、侍女たちが別室へ呼ばれた件。誰が同席したかを確認する必要があります」
リリアナは、ほっとした顔をした。
「よかった……私、昔の自分が見ていたものなんて、全部役に立たないと思っていました」
「見ていたものは、整理すれば記録になるわ」
「私にもできる?」
「少しずつなら」
リリアナは、手帳を抱えて笑った。
「少しずつ、頑張ります」
その笑顔は、以前より控えめだった。
でも、以前より本物に近かった。
エレノアは、青い指輪を見た。
青い祈りの糸。
その美しい名の下で、善意は合図に変えられ、寄付品は隠れ蓑になり、王宮の布置き場は抜け道になった。
だが、その糸は少しずつ解かれ始めている。
ネルの声。
ベアタの涙。
セラの証言。
クラリッサ夫人の侍女の告白。
リゼットの拘束。
ジムの証言。
リリアナの記憶。
一つ一つは細い。
だが、つなげれば網になる。
今度は、不正を隠す網ではない。
真実を捕まえるための網だ。
夜、エレノアは記録簿に新たな題を付けた。
――青い祈りの糸関連調査記録。
その下に、一文を添える。
――善意の印が、裏連絡の合図として転用された疑い。夫人会代表周辺への照会を要する。
筆を置いた時、廊下の外で静かな足音がした。
オスカーが扉を開けると、そこには夫人会からの使者が立っていた。
封書を持っている。
差出人は、デリア・ラングフォード侯爵夫人。
エレノアは封を切った。
中には、短くこう書かれていた。
――明日、私より先にお話しすべきことがございます。
夫人会館ではなく、王宮北翼にて。
できれば、記録係を同席させてください。
エレノアは、その文面を見てしばらく黙った。
デリア夫人が、自ら記録係の同席を求めた。
抗議ではない。
牽制でもない。
少なくとも、表面上は。
カインが封書を読み、低く言った。
「罠か、証言か」
「両方かもしれません」
エレノアは答えた。
青い祈りの糸は、ついに夫人会代表の手元へ戻っていく。
明日、デリア・ラングフォード侯爵夫人が何を話すのか。
それは、この糸の本当の結び目に触れることになるかもしれなかった。




