第3話 王宮から私の机が消えた日
翌朝、エレノアはいつもより少し遅く目を覚ました。
遅いといっても、夜明けから半刻ほど過ぎただけである。王宮に詰めていた頃なら、もう女官長から届いた書類に目を通し、茶会の席次表を修正し、王太子ユリウスの朝の予定を確認している時間だった。
だが、今朝は誰も彼女を起こしに来なかった。
扉を叩く音もない。
緊急の書簡もない。
王妃陛下の病状報告もない。
王太子殿下が演説原稿をなくされたという侍従の青ざめた声もない。
窓の外では、祖母の旧邸の庭に植えられた樫の木が、朝風に静かに揺れている。
王都の外れにあるこの屋敷は、公爵家の別邸というより、忘れられた古い家に近かった。祖母が亡くなってからはほとんど使われず、最低限の使用人だけが管理していた場所である。
王宮のような華やかさはない。
調度も古く、壁紙もところどころ色褪せている。
けれど、不思議と息がしやすかった。
「……朝なのね」
エレノアは寝台の上で、しばらく天井を見つめていた。
何もしなくていい朝。
それが、これほど落ち着かないものだとは知らなかった。
十年間、彼女の朝は常に誰かのためにあった。
王太子のため。
王妃のため。
公爵家のため。
リリアナのため。
国のため。
けれど今朝、彼女の手元には何もない。
いや、正確にはひとつだけある。
枕元の小箱にしまった、黒封蝋の遺言状。
エレノアは起き上がり、箱へ視線を向けた。
開けてはならない。
王妃エレオノーラは、そう言った。
王弟カインへ見せなさい、と。
ならば今はまだ、自分一人で封を切るべきではない。
そう分かっているのに、その存在は胸の奥に沈んだ石のようだった。
エレノアは静かに息を吐き、寝台を下りた。
侍女が用意してくれたのは、黒ではなく濃紺のドレスだった。喪中であることに変わりはないが、王宮へ出向くにはあまりに簡素な装いである。
しかし、もう王太子妃候補として王宮に行くわけではない。
鍵を返し、引き継ぎを終え、机を明け渡す。
それだけだ。
鏡の前に座ると、侍女が髪を梳いてくれた。
白銀に近い淡い金髪が、朝の光を受けて冷たく光る。社交界では、その髪と紫水晶のような瞳のせいで、彼女はよけいに近寄りがたいと言われていた。
氷の令嬢。
冷たい女。
可愛げのない婚約者。
昨日までなら、その言葉にわずかでも傷つく自分を恥じたかもしれない。
だが今朝は、不思議と何も感じなかった。
傷が消えたのではない。
傷口が深すぎて、まだ痛みが追いついていないのだ。
「エレノア様、本当に王宮へお戻りになるのですか」
侍女のアニーが、不安そうに尋ねた。
祖母の代からこの屋敷に仕えている若い侍女で、王宮の事情に詳しいわけではない。それでも昨夜、エレノアがほとんど荷物も持たずに現れたことで、何かを察しているようだった。
「戻るのではなく、返しに行くの」
「何を、でございますか」
「鍵と、役目を」
アニーは黙った。
エレノアは鏡の中の自分を見つめる。
泣き腫らした顔ではない。
取り乱した顔でもない。
いつも通りの、隙のない顔。
それが少しだけ可笑しかった。
人生が崩れた翌朝でも、人の顔は案外変わらない。
「馬車の準備をお願い」
「はい」
屋敷を出る時、朝の空は薄く曇っていた。
雨が降るほどではないが、陽射しは弱い。王都の石畳は昨夜の湿気を含み、馬車の車輪が静かに音を立てる。
王宮が近づくにつれ、エレノアは窓の外を見るのをやめた。
逃げたいわけではない。
ただ、十年間通い慣れた道が、今朝はひどくよそよそしく見えた。
王宮の正門に到着すると、守衛たちが慌てて姿勢を正した。
「エレノア様」
「おはようございます。王宮文書庫と東翼執務室へ参ります。昨日まで使用していた鍵を返却しますので、手続き担当を呼んでください」
「は、はい。ですが……」
守衛の視線が揺れた。
エレノアは、その先を聞かなくても分かった。
もう自分には、以前のように自由に王宮内を歩く権限がないのだ。
昨日までは、誰も疑わなかった。
王妃の部屋へも、文書庫へも、王太子の執務室へも、エレノアは必要に応じて出入りできた。
だが、一晩で立場は変わる。
役職を奪われた者は、同じ廊下を歩くにも許可がいる。
「構いません。確認を」
「失礼いたします」
守衛は深く頭を下げ、奥へ走っていった。
しばらくして、文書管理官補佐の若い官吏が現れた。彼はエレノアを見るなり、露骨に困った顔をした。
「エレノア様……いえ、ヴァレンシュタイン公爵令嬢」
呼び方が変わった。
エレノアはそれを聞き逃さなかった。
「はい」
「その、王太子殿下より、東翼執務室は本日よりリリアナ様がお使いになるとの通達が出ております」
「存じております。荷物と資料の確認に参りました」
「ですが、リリアナ様がすでに……」
官吏は言いにくそうに口ごもる。
「すでに?」
「お部屋にいらっしゃいます」
「そうですか」
エレノアは頷いた。
予想より早い。
だが、驚くほどではない。
リリアナは昔から、新しく与えられたものをすぐ自分のものにしたがった。
それが姉の髪飾りであっても、母の膝であっても、王太子の隣であっても。
「案内を」
「よろしいのですか」
「何がですか」
「いえ……」
官吏はまた黙った。
王宮の廊下を進む。
昨日と同じはずなのに、すれ違う人々の視線は違っていた。
昨夜の婚約破棄は、すでに王宮中に広がっているらしい。
当然だ。
王宮では、秘密ほど足が速い。
女官たちは頭を下げるが、目だけはこちらを追っている。
ある者は気の毒そうに。
ある者は面白そうに。
ある者は、もう過去の人を見るように。
エレノアは背筋を伸ばしたまま歩いた。
ここで俯けば、彼女たちはそれを物語にする。
婚約破棄された令嬢が泣き崩れた。
妹に全てを奪われ、王宮を逃げるように去った。
そう語られるのは構わない。
だが、王妃エレオノーラが最後に信じた者として、醜態だけは晒したくなかった。
東翼の執務室に近づくと、甘い香りがした。
薔薇と蜂蜜。
昨日、王妃の部屋に残っていたリリアナの香水だ。
扉の前に立った瞬間、エレノアは軽く息を止めた。
この匂いが、すでに部屋を満たしている。
官吏が扉を叩く。
「リリアナ様。エレノア様が……いえ、ヴァレンシュタイン公爵令嬢がお見えです」
中から明るい声が返ってきた。
「入っていただいて」
扉が開く。
エレノアは中へ入った。
そして、一瞬だけ足を止めた。
部屋は、昨日までとは別物になっていた。
机の上には、淡い桃色の花が大きな花瓶に活けられている。王妃の愛した白百合ではない。香りの強い薔薇だった。
窓辺にはリリアナの白いショールが掛けられ、椅子には柔らかそうな毛皮の膝掛けが置かれている。
壁際の書棚には、本来そこにあるべき資料箱がなくなっていた。
代わりに、装飾の美しい小箱や、香水瓶、刺繍途中の布が並んでいる。
そして、エレノアが十年間使ってきた机の横。
床の隅に、資料束が無造作に積まれていた。
茶会名簿。
外交文書の索引。
王妃基金の支出記録。
地方貴族からの陳情書。
王太子演説草稿。
王妃の遺産目録の写し。
どれも、床に置いてよいものではない。
湿気を吸えば傷む。
順番が狂えば探せなくなる。
まして、王妃基金の記録など、扱いを誤れば責任問題になる。
エレノアの指先が、わずかに冷たくなった。
「お姉様」
机の向こうで、リリアナが微笑んだ。
白に近い淡桃色のドレスを着て、髪には小さな薔薇飾りを挿している。喪中としては華やかすぎるが、彼女がまとうと不思議と咎めにくい。
彼女は椅子から立ち上がり、両手を胸の前で合わせた。
「来てくださったのね。嬉しいわ」
「鍵と資料の確認に来ました」
「まあ、そんな堅い言い方をしないで。ここは、昨日までお姉様のお部屋だったのでしょう?」
昨日まで。
その言葉が、妙にはっきり響いた。
「そうですね」
「私、まだ慣れなくて。お姉様が座っていた机に私が座るなんて、少し不思議」
リリアナは、そう言いながら椅子の背を撫でた。
その仕草に悪意があるのか、ただ無邪気なのか。
エレノアにはもう、判断する気力がなかった。
「資料が床に置かれています」
「ああ、それ」
リリアナは軽く振り返った。
「だって、机の上にあったら暗くなるでしょう? せっかく新しい気持ちで始めるのに、難しそうな紙ばかりだと気が滅入ってしまうもの」
「それらは王宮の業務資料です。湿気を避け、分類ごとに保管しなければなりません」
「後で誰かに片づけてもらうわ」
「誰に?」
「女官たちに」
「女官たちは、文書分類の権限を持っていません」
リリアナは、きょとんとした顔をした。
「権限?」
「文書には閲覧権限、移動権限、写し作成権限があります。特に王妃基金と外交文書は、決められた者以外が触れてはいけません」
「お姉様」
リリアナは困ったように笑った。
「朝からそんな難しい話をしなくても」
「難しい話ではありません。基本です」
その瞬間、部屋にいた女官たちがわずかに視線を落とした。
彼女たちも分かっている。
リリアナが何も理解していないことを。
だが、誰も指摘しない。
可憐な新しい王太子妃候補に、朝から恥をかかせるわけにはいかないからだ。
エレノアは床に置かれた資料束へ歩み寄り、膝を折った。
自分で拾うつもりだった。
だが、その前に女官長マルタが静かに進み出る。
「私が」
「ありがとう」
マルタは一冊ずつ丁寧に拾い上げた。
リリアナはその様子を見て、小さく唇を尖らせた。
「私、そんなに悪いことをしたの?」
声が震えている。
部屋の空気が変わる。
リリアナが泣きそうになると、周囲はすぐに彼女を守る空気になる。
昔からそうだ。
彼女の涙は、どんな議論よりも強い。
けれど、エレノアは今朝、その涙に手を伸ばさなかった。
「悪いかどうかではありません。危険です」
「危険?」
「資料の紛失、改ざん、誤読は、王宮業務に影響します」
「そんな大げさな」
「大げさではありません」
エレノアは、机の前に立った。
「今日、あなたが確認すべき案件をお伝えします」
「え、今日?」
「はい」
「でも、今日はまず、お部屋を整えたり、女官たちと顔合わせをしたり……」
「顔合わせは必要ですが、優先順位は下です」
「下……」
リリアナの顔が曇る。
エレノアは持参していた薄い革表紙の引継書を机に置いた。
「王太子妃候補業務・第一引継書です。簡略版ですが、今日必要なことは記しています」
「ありがとう、お姉様」
リリアナはほっとしたように微笑んだ。
しかし、表紙を開いて三行ほど読んだところで、その顔がこわばる。
「……これ、何?」
「今日の予定です」
「こんなに?」
「少ない方です」
リリアナは信じられないというように、ページをめくった。
「朝、茶会席次の最終確認。昼前、セルベリア大使への挨拶状確認。午後、王妃基金の支出承認。夕刻、王太子殿下の演説草稿確認。夜、地方陳情書の振り分け……」
彼女は途中で読むのをやめた。
「お姉様は、いつもこれを?」
「はい」
「毎日?」
「日によります。今日は軽い方です」
「軽い……」
リリアナは椅子に座り直した。
その肩が少し落ちる。
だがすぐに、彼女は顔を上げた。
「でも、大丈夫よね。皆様が助けてくださるもの」
「助けは必要です。ただし、最終確認はあなたの役目です」
「私の?」
「王太子妃候補として、殿下を支えるのでしょう」
リリアナは黙った。
昨日までは、その言葉を望んでいたはずだ。
王太子の隣。
未来の王妃。
愛される立場。
だが、その椅子には仕事がついてくる。
花飾りや微笑みだけでは、王宮は動かない。
「リリアナ様」
マルタが静かに言った。
「茶会席次の確認が遅れますと、招待客への最終通達が間に合いません」
「席次って、そんなに大事なの?」
「はい」
「仲良くなれそうな方同士を近くにすればいいのではなくて?」
女官たちの顔が一斉に固まった。
エレノアは、ゆっくりと息を吸った。
「派閥、血縁、婚約関係、過去の訴訟、領地境界問題、宗教的立場、商取引の利害を考慮します」
「……え?」
「例えば、ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人は隣席不可です。二年前の婚約破談で両家は絶縁状態です。向かい合わせも避けてください。会話が聞こえる距離も危険です」
「そんなこと、私、知らないわ」
「だから資料に記しています」
リリアナは引継書を見下ろした。
しかし、その目は文字を追っていない。
ただ、紙の量に圧倒されているだけだ。
「お姉様は、意地悪だわ」
小さな声だった。
部屋が静まる。
エレノアは妹を見た。
「意地悪?」
「だって、こんなに難しいことを急に渡して」
「急に王太子妃候補になったのは、あなたです」
リリアナが息を呑む。
エレノアは続けた。
「私は十年かけて覚えました。あなたが一日で全てを覚えられないことは分かっています。だから簡略版を作りました」
「でも……」
「それでも足りないなら、正式に補佐役を任命してください。責任の所在を明確にする必要があります」
「責任、責任って……お姉様は本当にそればかり」
リリアナの目に涙が浮かぶ。
「私、愛される王妃になりたいだけなのに」
「愛されることと、責任を負うことは両立できます」
「お姉様には分からないわ」
リリアナは震える声で言った。
「お姉様は、愛されようとしたことがないもの」
その言葉は、鋭かった。
周囲の誰かが息を呑む気配がした。
エレノアは、すぐには返事をしなかった。
愛されようとしたことがない。
本当に、そう見えていたのだろうか。
父に褒められたくて、難しい法典を暗記した。
母に振り向いてほしくて、リリアナに髪飾りを譲った。
ユリウスに恥をかかせたくなくて、夜通し演説原稿を直した。
王妃に安心してほしくて、笑顔で病室に入った。
そのすべては、愛されようとしたことではなかったのか。
いや。
おそらく、リリアナにとって愛されるとは、泣けば抱きしめてもらえることなのだ。
微笑めば許されること。
何かを欲しがれば与えられること。
エレノアのように、黙って役に立つことではない。
「そうね」
エレノアは静かに言った。
「私には、あなたの愛され方は分からない」
リリアナの涙が止まった。
予想していた反応と違ったのだろう。
エレノアは机の上に鍵束を置いた。
金属が、硬い音を立てる。
「東翼執務室の鍵、王妃私室の副鍵、第二資料棚の鍵です。王宮文書庫の鍵は、正式権限が必要なため返却します。リリアナ、あなたにはまだ交付されないはずです」
「なぜ?」
「閲覧許可が出ていないからです」
「私は王太子妃候補なのに?」
「候補者であることと、機密文書に触れる権限は別です」
「でも、お姉様は持っていたわ」
「王妃陛下から直接任じられていました」
リリアナの表情が曇った。
王妃。
その名は、今のリリアナにとって面白くないものらしい。
王妃エレオノーラは、リリアナを嫌っていたわけではない。茶会で会えば優しく声をかけ、社交界デビューの時には祝福もした。
ただ、王宮の仕事に関しては、決して彼女を内側へ入れなかった。
そして、エレノアを選んだ。
リリアナは、それをずっと寂しさとして受け取っていたのだろう。
だが、王妃は人を好き嫌いで選ぶ方ではなかった。
必要な者を、必要な場所に置く。
それだけだった。
「お姉様は、王妃様に特別扱いされていたものね」
「特別扱いではありません。仕事です」
「私だって、教えてもらえればできたわ」
「では、今から覚えなさい」
エレノアは、引継書の一ページ目を開いた。
「まず茶会席次です。招待客二十七名。欠席予定だったローゼン侯爵夫人が出席に変更されています。彼女はハウゼン侯爵夫人と同席不可。理由は引継書三枚目。ミルド伯爵夫人は王妃基金の件で財務官夫人に不信感を持っています。隣席不可。セルベリア大使夫人は上座から三番目。ただし王妃喪中のため、華美な装飾を避けた席にしてください」
「待って」
リリアナが両手を上げた。
「そんなに一度に言われても無理よ」
「書いてあります」
「読んでも分からないわ」
「では、分かるまで読んでください」
「お姉様!」
リリアナの声が大きくなった。
「どうしてそんなに冷たいの?」
その瞬間、扉の外で足音がした。
王太子ユリウスだった。
彼は部屋に入るなり、泣きそうなリリアナと、引継書を手にしたエレノアを見比べた。
「何をしている」
声には、すでにエレノアを責める響きがあった。
リリアナはすぐに俯いた。
「違うの、殿下。お姉様は悪くないの。ただ、私が未熟だから……」
見事だった。
自分を責める言葉の形を取りながら、空気を完全に姉への非難へ誘導している。
ユリウスはリリアナの肩に手を置き、エレノアを睨んだ。
「エレノア。朝からリリアナを追い詰める必要があるのか」
「業務引き継ぎをしておりました」
「彼女は昨日、君から突然役目を引き継いだばかりだ」
「突然ではありません。殿下が昨日お決めになりました」
ユリウスの顔が引きつる。
「君は……本当に、言い方が刺々しい」
「事実を申し上げています」
「それが冷たいと言っているんだ」
部屋の空気が再び重くなる。
エレノアは、ユリウスを見た。
かつて婚約者だった人。
十年、支えようとした人。
彼は今、リリアナを庇いながら、昨日と同じ言葉を繰り返している。
冷たい。
それ以上の言葉を、彼は持たないのだろう。
「殿下」
「何だ」
「本日の茶会席次は、どなたが最終承認されますか」
「茶会?」
「はい」
「そんなもの、女官に任せればいい」
マルタの表情がわずかに険しくなった。
エレノアは淡々と言う。
「では、女官長マルタに最終承認権を与えるということでよろしいですか」
「そこまで大げさな話ではない」
「承認権のない者が席次を決定した場合、問題発生時の責任が曖昧になります」
「責任、責任……君はそればかりだな」
「責任を負わない者は、決定してはいけません」
ユリウスは苛立ったように息を吐いた。
「もういい。茶会くらい、リリアナの好きにさせろ。彼女の感性の方が、君の堅苦しい席次よりよほど場を和ませるだろう」
リリアナの顔が少し明るくなる。
エレノアは、数秒だけ黙った。
止めるべきだろうか。
ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人を近づければ、必ず火種になる。
財務官夫人と王妃基金に疑念を抱く夫人を同席させれば、厄介な会話が起こる。
セルベリア大使夫人の席を誤れば、外交儀礼上の問題になる。
分かっている。
分かっているからこそ、これまで防いできた。
だが、もう自分には止める権限がない。
止めればまた言われる。
冷たい。
正しすぎる。
可愛げがない。
エレノアは静かに一礼した。
「承知いたしました」
ユリウスは拍子抜けしたように彼女を見る。
「……分かればいい」
「では、茶会席次については、王太子殿下およびリリアナが決定されるということで記録しておきます」
「記録など必要ない」
「必要です」
「エレノア」
「後ほど確認が必要になりますので」
ユリウスはさらに何か言おうとしたが、リリアナがそっと袖を引いた。
「殿下、もういいのです。お姉様はきっと、私のことを心配してくださっているだけですから」
「リリアナ……」
甘い光景だった。
美しい王太子と、可憐な新しい婚約者。
周囲が望む未来の絵図。
エレノアはその絵の外に立っていた。
不思議と、もう胸は痛まなかった。
痛みの代わりに、冷静な線が一本引かれる。
ここから先は、自分の責任ではない。
「私はこれで失礼いたします」
「待て」
ユリウスが言った。
「まだ引き継ぎが終わっていないだろう」
「必要最低限の引継書はお渡ししました。追加説明をご希望でしたら、正式に文書で依頼をお願いいたします」
「文書?」
「私はすでに王太子妃候補ではありません。口頭での命令系統には属しておりませんので」
ユリウスの目が見開かれる。
それは、彼にとって初めての感覚だったのかもしれない。
エレノアに命じても、当然のように動かない。
自分の婚約者ではない。
自分の補佐でもない。
その事実を、彼はまだ理解していなかった。
「君は、本当にそれでいいのか」
ユリウスの声には、少しだけ違う響きが混じっていた。
怒りではない。
戸惑い。
あるいは、不安。
「何がでしょう」
「王宮を離れて、君に何が残る」
リリアナが小さく息を呑んだ。
おそらく、さすがにその言葉は残酷だと思ったのだろう。
エレノアは、まっすぐユリウスを見た。
「少なくとも、私自身は残ります」
ユリウスは言葉を失った。
エレノアは机の上に置いた鍵束を指し示す。
「鍵は返却しました。文書庫の鍵については文書管理官へ直接返します。王妃陛下関連の資料の一部は、正式な確認が済むまで移動させないでください。特に黒革の台帳と青紐の書簡束には触れないようお願いいたします」
「なぜ?」
リリアナが尋ねる。
「扱いを誤れば、隣国との関係に影響します」
「……そんな大事なものが、ここに?」
「はい」
「お姉様、どうして先に言ってくれなかったの?」
「今、言いました」
エレノアは一礼した。
「それでは」
部屋を出る直前、マルタが静かに頭を下げた。
その目には、言葉にできないものがあった。
謝罪。
心配。
そして、ほんのわずかな敬意。
エレノアも小さく頷き返した。
廊下に出る。
扉が閉まる寸前、リリアナの声が聞こえた。
「殿下、大丈夫です。私、頑張ります。皆様に喜んでいただける茶会にしてみせますわ」
ユリウスが優しく答える。
「ああ。君ならできる」
エレノアは歩き出した。
王宮の廊下は、朝の光で明るかった。
その明るさが、少しだけ残酷に見える。
文書庫へ向かう途中、エレノアは腰に下げていた最後の鍵を外した。
王宮文書庫の副鍵。
王妃エレオノーラから直接預かったもの。
正式に返却すれば、もう自分は王宮の機密文書に触れることはできない。
それでいい。
昨日までの自分なら、王宮が心配で手放せなかったかもしれない。
だが、今は違う。
責任を負う者が、責任を知るべきだ。
文書管理官に鍵を返すと、彼は深く頭を下げた。
「長い間、お疲れ様でございました」
その一言は、思いがけず胸に触れた。
エレノアは少しだけ目を伏せる。
「ありがとうございます」
「その……よろしいのでしょうか」
「何がですか」
「本日の茶会です。先ほど、リリアナ様付きの女官が席次表を取りに来ましたが、かなり変更されるご様子で」
「私には、もう権限がありません」
「ですが」
「文書管理官」
エレノアは静かに言った。
「権限のない助言は、責任のない干渉になります」
文書管理官は唇を引き結んだ。
「……承知いたしました」
エレノアは、最後の鍵を手放した。
金属の感触が指から消える。
それは思っていたよりも軽く、そして寂しかった。
王宮を出る頃には、庭園の向こうで茶会の準備が始まっていた。
淡い布が張られ、花が運ばれ、銀器が並べられていく。
華やかで、優雅で、美しい光景。
その中心で、リリアナはきっと微笑むのだろう。
愛される王妃になるために。
エレノアは馬車へ向かいながら、ふと足を止めた。
胸元に手を当てる。
黒封蝋の遺言状は、今日もそこにある。
王妃は、何を見越していたのだろう。
この婚約破棄を。
リリアナへの交代を。
王宮が自分を切り捨てることを。
それとも、もっと先の何かを。
「エレノア様」
御者が扉を開いた。
エレノアは乗り込む前に、もう一度だけ王宮を見上げた。
白く美しい宮殿。
誰もが憧れる場所。
だが、その内側は驚くほど脆い。
積み上げた書類。
守られてきた手順。
誰も見ようとしなかった小さな調整。
それらを「細かいこと」と笑った者たちが、今日から自分でその重さを知る。
エレノアは馬車に乗った。
扉が閉まる。
王宮が遠ざかる。
その背後で、まもなく茶会が始まる。
リリアナが初めて仕切る、華やかな茶会。
そしてそれは、王宮が自分の失ったものに気づく最初の日になる。




