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妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第2話 「君は冷たい。リリアナは人の心が分かる」

 南翼の謁見室を出たあとも、エレノアの背中にいくつもの視線が刺さっていた。


 同情。


 好奇心。


 侮り。


 そして、安堵。


 廊下に控えていた侍従や女官たちは、誰一人として声をかけてこなかった。王宮では、沈黙もまたひとつの言葉だった。今のエレノアに声をかけることは、王太子ユリウスの決定に異を唱えることになる。


 だから誰も、彼女を慰めなかった。


 けれど、それでよかった。


 慰めなど受け取ってしまえば、自分が傷ついた人間だと認めなければならない。


 エレノアは、まだそこまで弱くなれなかった。


 王宮の長い廊下を歩く。


 黒い喪服の裾が、磨かれた大理石の床を静かに撫でる。壁に並ぶ燭台の炎が、歩くたびにかすかに揺れた。夜の王宮は美しい。美しすぎて、人の声が消えると墓所のようにも見える。


 王妃エレオノーラが生きていた頃、この廊下を何度も歩いた。


 朝は書類を抱えて。


 昼は茶会の席次表を確認しながら。


 夜は王太子の失言をどう修正するか考えながら。


 王妃の病室へ向かう時も、いつもこの道だった。


『エレノア。あなたは自分の痛みに鈍いのね』


 王妃は、あの日そう言った。


 薄い絹の寝衣に包まれ、枕に背を預け、息をするだけでもつらそうだったのに、あの方はエレノアの顔色ばかり見ていた。


『痛みを感じないふりは、強さではありませんよ』


 その言葉を思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 感じていないふりをしているだけ。


 本当は、痛い。


 十年分の婚約が、たった数分の言葉で終わった。


 自分は冷たいと、婚約者に言われた。


 人の心が分からないと、遠回しに責められた。


 そして、自分の妹が、あの人の隣に立つことになった。


 それでも涙が出ないのは、心が凍っているからではない。


 泣き方を、忘れてしまったからだ。


「エレノア」


 背後から低い声がした。


 振り向かなくても、誰か分かった。


 父、グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵。


 エレノアは足を止め、ゆっくりと振り返った。


 父は謁見室から出てきたばかりらしく、濃紺の礼服の襟元を直していた。表情には苛立ちがある。だが、それは娘を傷つけたことへの後ろめたさではない。


 思い通りに従わなかった道具を見る目だった。


「少し話がある」


「この場でよろしいですか」


「場所を選ぶ立場か」


 父の声に、廊下の侍従がわずかに身を硬くする。


 エレノアは何も言わなかった。


 父は近づき、周囲に聞こえない程度に声を低めた。


「先ほどの態度は何だ」


「態度、とは」


「殿下に恥をかかせた」


 エレノアは、父の顔を見た。


 不思議だった。


 婚約を破棄された娘に、最初にかける言葉がそれなのか。


 傷ついたかでも、平気かでもない。


 殿下に恥をかかせた。


「私は婚約破棄を受け入れました。殿下のお望みどおりに」


「そういう話ではない。なぜ、あの場で仕事の引き継ぎなど持ち出した」


「必要だからです」


「嫌味に聞こえた」


「事実です」


 父のこめかみが動いた。


「お前のそういうところだ。だから殿下も息苦しくなられる」


 また、それか。


 エレノアは少しだけ目を伏せた。


 王太子の息苦しさ。


 妹の寂しさ。


 母の心労。


 父の面目。


 誰もが、自分の苦しさをエレノアに差し出す。


 エレノアがそれを受け取るのは当然だと思っている。


「お父様」


「何だ」


「私は、そんなに息苦しい娘でしたか」


 父は答えに詰まった。


 ほんの一瞬だけ。


 だがすぐに表情を硬くする。


「お前は優秀だ。だが、優秀すぎる女は男を立てられん」


「王太子殿下は、立てられなければ立てない方なのですか」


「口を慎め」


 鋭い声だった。


 廊下の空気がさらに冷える。


 エレノアは頭を下げた。


「失礼いたしました」


「いいか、エレノア。これは公爵家にとって悪い話ではない。リリアナが王太子妃となれば、ヴァレンシュタイン家はこれまで以上に王家と深く結びつく」


「私との婚約でも、結びついていたはずですが」


「お前では駄目だったのだ」


 はっきりと、父は言った。


 その一言は、予想していたよりも深く刺さった。


 お前では駄目だった。


 娘としても。


 婚約者としても。


 公爵家の駒としても。


「リリアナは華がある。愛嬌がある。殿下も望んでおられる。お前は長女として、妹を支えろ」


 エレノアは、父を見つめた。


「婚約者を奪われた姉が、妹の王太子妃教育を支えるのですか」


「奪われたなどと下品な言い方をするな。殿下がお選びになったのだ」


「では、王太子妃候補としての責務も、殿下がお選びになった方へ移るべきです」


「だから、お前が支えろと言っている」


「私はもう候補者ではありません」


「家のためだ」


「家のために、私は十年尽くしました」


 父の目が細くなる。


 エレノアは、言葉を止めなかった。


「王妃陛下の病が重くなってからは、王宮に泊まり込むこともありました。リリアナの社交界デビューの準備も、私が裏で整えました。公爵家の寄付金の名簿も、王宮提出用の家計報告も、すべて私が確認しました」


「それが長女の務めだ」


「ならば、長女でなくなればよろしいのでしょうか」


 父が一瞬、眉を動かした。


「何を言っている」


「リリアナを公爵家の顔として王太子妃に据えるのであれば、私は必要ありません。家のためにと言われても、もう私には家の中で果たすべき役が残っていないのではありませんか」


「勝手なことを言うな。お前にはまだ使い道がある」


 言ってから、父はわずかに口を閉ざした。


 使い道。


 それが本音だった。


 娘ではなく、使い道。


 エレノアは胸の奥で、小さく何かが切れる音を聞いた気がした。


「……そうですか」


「エレノア」


 今度は母の声がした。


 振り向くと、母セレスティアがゆっくりと歩いてくる。リリアナに似た柔らかい金髪を結い上げ、喪の黒いドレスさえ優雅に着こなしている。


 母は困ったように微笑んだ。


 幼い頃から、母はいつもその顔をした。


 エレノアが何かを望むたび。


 リリアナが泣くたび。


 父が怒るたび。


 母は、困ったように微笑んで、こう言うのだ。


 あなたは強い子でしょう。


「お父様を責めないで」


 やはり、母はそう言った。


「誰もあなたを傷つけようとしたわけではないのよ」


 エレノアは、少しだけ息を吐いた。


 傷つけようとしたわけではない。


 便利な言葉だ。


 刃物を向けたつもりがなければ、傷は存在しないことになる。


「リリアナはね、ずっとあなたに憧れていたの」


「そうは見えませんでした」


「エレノア」


 母がたしなめるように名を呼ぶ。


「あなたは昔から何でもできたでしょう。勉強も、礼儀作法も、王宮の仕事も。リリアナはいつも比べられて、つらかったのよ」


「私が比べたのではありません」


「でも、あなたが優秀であることが、あの子を苦しめたの」


 エレノアは黙った。


 もう、どこから訂正すればいいのか分からなかった。


 自分が努力したことが罪になる。


 自分が耐えたことが、妹を傷つけた理由になる。


 自分が役目を果たしたことが、王太子を息苦しくさせる。


 ならば、エレノアは何者であれば許されたのだろう。


「お母様」


「何?」


「私は、何もできない娘であればよかったのですか」


 母は目を丸くした。


「そんなこと、言っていないわ」


「では、どうすればよかったのですか」


「あなたは……もう少し柔らかくなればよかったのよ。リリアナのように」


 それが答えだった。


 エレノアは、母を見つめた。


 母は本気でそう思っている。


 娘が十年、王宮で何をしてきたかを知らないまま。


 知ろうともしないまま。


「分かりました」


 エレノアは静かに言った。


「では、これからはリリアナのように柔らかく振る舞う方が、王宮にも公爵家にもふさわしいのでしょう。明日からの王太子妃候補業務は、リリアナにお任せします」


「だから、あなたが支えてあげればいいのよ」


「お母様」


 エレノアは、初めて母の言葉を遮った。


「私はもう、殿下の婚約者ではありません」


 母は困ったように眉を下げる。


「でも、家族でしょう?」


 家族。


 その言葉に、エレノアはわずかに目を伏せた。


 家族だから。


 その言葉で、どれだけのものを譲ってきたのだろう。


 髪飾りも。


 教師も。


 父の時間も。


 母の膝も。


 休息も。


 怒る権利も。


 そして今、婚約者まで。


「家族なら、私が傷ついたことを少しは考えてくださいますか」


 母の微笑みが固まった。


 父が低く唸る。


「エレノア。言葉が過ぎるぞ」


「申し訳ございません」


 エレノアは頭を下げた。


 これ以上話しても、何も変わらない。


 父は自分を道具として見ている。


 母は自分を強い子という箱に閉じ込めている。


 二人とも、エレノアが痛みを訴えることを想定していない。


 強い道具が痛むはずはないのだ。


「本日は、これで失礼いたします」


「待ちなさい」


 母が手を伸ばした。


 エレノアはその手を見た。


 細く白い、母の手。


 幼い頃、その手に撫でられたかった。


 熱を出した夜、リリアナの部屋へ向かう母の背中を見送りながら、何度もそう思った。


 今、その手が自分へ伸びている。


 けれど、遅すぎた。


「何でしょう」


「リリアナに、優しくしてあげて」


 エレノアは、目を閉じた。


 結局、それだった。


 母が引き止めた理由も、娘のためではない。


 妹のため。


「……努力いたします」


 それだけ言って、エレノアは再び歩き出した。


 背後で父が何か言った気がしたが、もう聞き取らなかった。


 廊下の角を曲がると、人影が少なくなる。


 エレノアはようやく壁に手をついた。


 膝が少し震えていた。


 情けない、と思った。


 あの場では平然としていたのに、誰もいない場所へ来た途端、体が自分のものではないように重くなる。


「……冷たい、か」


 小さく呟く。


 冷たい。


 可愛げがない。


 正しすぎる。


 人の心が分からない。


 何度も聞いてきた言葉なのに、今日はやけに胸に残った。


 自分は本当に、そんな女なのだろうか。


 人の心が分からなかったのだろうか。


 ユリウスが自分の隣で笑わなくなったことに気づいていた。


 リリアナが姉の持ち物を欲しがるたび、寂しいのだろうと思って譲ってきた。


 父が公爵家の維持に焦っていることも、母が揉め事から目を逸らしたがることも、分かっていた。


 分かっていたからこそ、言わなかった。


 言わずに飲み込んだ。


 それでも、人の心が分からないと言われるのなら。


 自分に分かる心とは、一体何だったのだろう。


 エレノアは胸元に手を当てた。


 黒封蝋の遺言状が、そこにある。


 王妃エレオノーラだけは、彼女に「冷たい」と言わなかった。


『あなたは記録を見る人。でも、記録だけを見ているわけではありません』


 王妃は、熱に浮かされながらも微笑んだ。


『あなたは皆が見落とした痛みを拾う人です。だから、皆はあなたに甘えるの』


 甘える。


 あの時は意味が分からなかった。


 けれど今なら、少し分かる気がした。


 王宮も。


 公爵家も。


 王太子も。


 リリアナも。


 皆、エレノアが支えることを前提に壊れていた。


 それを愛と呼んでいいのか、もう分からない。


 部屋へ戻ると、王妃の遺品整理はほとんど終わっていた。


 マルタが待っていた。


「エレノア様」


 彼女は何も尋ねなかった。


 ただ、温かい茶を差し出した。


 湯気の立つ茶器を見た瞬間、エレノアの喉が少し詰まる。


「ありがとうございます」


「いいえ」


 マルタは低い声で言った。


「陛下なら、きっと同じことをなさいました」


「王妃様なら、もっと上手にお茶を淹れます」


「いえ」


 マルタは首を横に振った。


「王妃陛下なら、あなたを座らせました」


 その言葉だけで、視界が滲みそうになった。


 エレノアは茶器を両手で包む。


 泣くわけにはいかない。


 今、泣けば、きっと止まらなくなる。


「マルタ。明日から、この部屋はどうなりますか」


「リリアナ様がお使いになると聞いております」


「早いですね」


「王太子殿下のご意向だそうです」


 エレノアは静かに頷いた。


 予想はしていた。


 だが、実際に聞くと胸の奥がまた少し痛む。


 王妃の部屋。


 王妃が最後まで執務を続けた場所。


 エレノアが三年間、ほとんど自分の執務室のように使ってきた場所。


 そこに、明日からリリアナの花や香水が置かれる。


「それなら、私物を片づけておかなければなりませんね」


「エレノア様」


「大丈夫です」


 そう言いながら、エレノアは机の引き出しを開けた。


 私物と呼べるものは、ほとんどなかった。


 替えの手袋。


 古い羽根ペン。


 王妃から借りたままになっていた栞。


 そして、何冊もの写し書き。


 茶会名簿。


 派閥図。


 財務確認表。


 外交文書の索引。


 王太子ユリウスの演説修正履歴。


 すべて自分が作ったものだった。


 エレノアは少し考え、そのうちの半分だけを机の上に置いた。


「こちらは明日、リリアナへ渡してください」


「すべてではないのですか」


「すべて渡しても、読めません」


 マルタは黙った。


「必要最低限だけ渡します。それ以上は、正式な権限がなければ扱ってはいけない文書です。私はもう王太子妃候補ではありませんから」


 口にして、妙に実感した。


 もう違う。


 王太子妃候補ではない。


 婚約者ではない。


 未来の王妃でもない。


 ならば、自分は何者なのか。


 答えはまだ出ない。


 けれど、ひとつだけ確かなことがある。


 王妃の遺言状を預かった者。


 それだけは、誰にも奪わせない。


「王宮の鍵は、明朝お返しします」


「今夜のうちにお休みください。顔色が悪うございます」


「そうします」


 エレノアは立ち上がり、机の上に最後の資料束を置いた。


 その表紙には、整った字でこう記してある。


 王太子妃候補業務・第一引継書。


 簡略版。


 その文字を見て、マルタがかすかに眉を動かした。


「簡略版、でございますか」


「リリアナには、まずそこからです」


「……それでも、難しいかと」


「でしょうね」


 エレノアは、初めて少しだけ皮肉に笑った。


「でも、愛される王妃になるのでしょうから」


 その言葉の響きが、自分でも思ったより苦かった。


 マルタは深く頭を下げた。


「王妃陛下は、エレノア様を信じておられました」


「私も、王妃様を信じています」


 だからこそ、この遺言状を今はまだ開けない。


 王妃は言った。


 王宮に居場所を失った時、王弟カインへ見せなさい、と。


 もう居場所は失った。


 だが、まだカインには会っていない。


 冷徹宰相。


 王弟カイン・レオ・グランベルク。


 王太子ユリウスの叔父にあたりながら、実質的に国政の半分を支えている男。貴族たちから恐れられ、官吏たちからは畏敬され、王宮内では「鉄筆の宰相」と呼ばれる。


 エレノアも何度か言葉を交わしたことがある。


 無駄な社交辞令を嫌い、必要なことだけを短く言う人だった。


 彼だけは、エレノアの提出する報告書を最後まで読んだ。


 質問も鋭かった。


 褒めることはなかったが、軽んじることもなかった。


 王妃はなぜ、その人の名を出したのか。


 黒封蝋の奥に、何が書かれているのか。


 考えるほど、胸が重くなる。


 夜が深くなった頃、エレノアは王妃の部屋を出た。


 私物を入れた小さな鞄をひとつだけ持って。


 王宮の門へ向かう途中、中庭の向こうに明かりが見えた。


 南翼の一室。


 おそらく、ユリウスとリリアナがいる部屋だ。


 薄いカーテン越しに、二人の影が揺れている。


 リリアナが泣いているのか、ユリウスがその肩を抱くような仕草をしている。


 エレノアは足を止めなかった。


 見れば痛む。


 痛むなら、見ない。


 そうして生きてきた。


 王宮の門をくぐる時、守衛が戸惑ったように礼をした。


「エレノア様、本日はお戻りに……?」


「いいえ」


 エレノアは答えた。


「しばらく、祖母の旧邸に身を寄せます」


「さようでございますか」


 守衛は何か言いたげだったが、結局黙って頭を下げた。


 馬車に乗り込む。


 扉が閉まる。


 王宮の灯りが、窓の外でゆっくり遠ざかっていく。


 エレノアは膝の上で手を重ねた。


 指先が冷たい。


 けれど、もう震えてはいなかった。


 婚約者も失った。


 王宮の居場所も失った。


 家族の中の役割も、きっと今夜で終わった。


 それでも、胸元には黒封蝋の遺言状がある。


 王妃エレオノーラが、最後に自分を信じて託したもの。


 馬車が夜の石畳を進む。


 エレノアは窓の外を見つめながら、静かに呟いた。


「王妃様。私は、泣く者ではなく、記録を見る者でいます」


 その言葉は、誰にも届かない。


 けれど、その夜から王宮は少しずつ傾き始めた。


 支柱を失った宮殿は、まだ自分が支柱を失ったことに気づいていなかった。


 気づくのは、翌朝。


 リリアナが、エレノアの机に座る時だった。

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