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第106話 父グラント、使用人宿舎の札を見る

 グラント・フォン・エルディアは、使用人宿舎の廊下で足を止めた。


 そこは、彼が普段ほとんど歩かない場所だった。


 公爵家当主である彼の動線は、表玄関、応接室、執務室、食堂、書斎、馬車寄せ、来客用の回廊で完結している。使用人宿舎の廊下は、屋敷を支える者たちの場所であって、当主が頻繁に足を運ぶところではない。


 そう思っていた。


 思っていたからこそ、今、廊下の古い壁板に貼られていた札の跡を見て、グラントは何も言えなくなっていた。


 そこには、つい昨日までこう書かれていたという。


 ――使用人用。余り物置場。


 札そのものは、すでに外されている。


 だが、長く貼られていたせいで、壁には四角い跡が残っていた。


 薄く日焼けした周囲と違い、そこだけ木の色が少し濃い。


 言葉は消えても、跡は残る。


 グラントはその跡を見つめたまま、低く言った。


「これが、ここにあったのか」


 案内役のマルタが静かに答えた。


「はい。古い札でございました」


「誰が書いた」


「正確な記録は残っておりません。ただ、かなり前からあったものです」


 かなり前。


 便利な言葉だ。


 誰の責任か分からなくする言葉でもある。


 グラントは眉間に皺を寄せた。


 彼の隣には、エレノアとリリアナがいた。


 その少し後ろには、家政帳簿を持った書記官、そして若い下働きのアリナが控えている。


 アリナは緊張で肩を固くしていた。


 昨日、「分からない札」を集めた少女である。


 その報告が当主の耳に入り、グラントは自ら使用人宿舎を見たいと言った。


 リリアナは最初、少し不安だった。


 父が見に来る。


 その言葉には、重さがある。


 見てくれるのは大事だ。

 だが、見たことで誰かが叱られるのではないか。

 「なぜ今まで放置した」と、下の者へ怒りが向かうのではないか。

 そうなれば、アリナのような者はもう二度と「分かりません」と言えなくなる。


 だから、屋敷へ向かう馬車の中で、リリアナは父に言った。


「お父様。今日は、誰が悪いかを探すためではなく、どの言葉が人を止めていたかを見るために来てください」


 かなり思い切った言葉だった。


 グラントは一瞬、驚いたように娘を見た。


 以前なら、リリアナはこんな言い方をしなかった。


 いや、できなかった。


 けれどグラントは怒らず、しばらく黙った後で頷いた。


「分かった」


 その返事を信じて、今ここにいる。


 グラントは、壁の跡から視線を外し、棚の方を見た。


 今は仮札がかかっている。


 ――使用可否判断棚。

 ――置いた人、日付、次に見る人を書くこと。

 ――欠け・割れ・火傷の危険があるものは使用しない。


 棚の上には、昨日よりかなり整理された品が並んでいた。


 欠けた椀は使用禁止として別箱へ。

 曲がった燭台は危険確認待ち。

 取っ手のない小鍋は廃棄判断。

 まだ使えそうな布は用途確認待ち。

 片方だけの手袋は布材候補。


 グラントは、欠けた椀の箱を見た。


「これは、以前は使っていたのか」


 マルタが少しだけ目を伏せる。


「完全に欠けたものは避けておりました。ただ、縁が少し欠けた程度なら、こちらに回されることがございました」


「使用人用としてか」


「はい」


 その「はい」は、責める言葉ではなかった。


 ただ、事実だった。


 グラントは息を呑むように黙った。


 リリアナは父の横顔を見た。


 怒っているようにも、耐えているようにも見える。


 けれど、誰かへ怒鳴る気配はない。


 彼はゆっくりと言った。


「使用人用、という言葉を、我々は便利に使いすぎていたのだな」


 リリアナは、その言葉に少しだけ胸が詰まった。


「はい」


 小さく答える。


「使用人用が、安物や傷物の言い換えになっている場所がありました」


 グラントは頷いた。


「言い換え……か」


 彼は棚の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。


 やがて、書記官へ目を向ける。


「この棚に物を置く時の記録を作れ。置いた者、日付、状態、次に見る者。危険物は置く前にマルタへ通す」


 リリアナはすぐに口を挟みかけた。


 また記録が増える。


 でも、必要かもしれない。


 ただし、現場を圧迫してはいけない。


 エレノアが先に言った。


「お父様、記録は必要です。ただ、複雑にしすぎると誰も置かなくなります。まずは簡易札でよいと思います」


 グラントは娘を見る。


「簡易札?」


 リリアナが答えた。


「品名、置いた日、次に見る人。この三つからでよいかと。詳しい記録は危険物や判断が必要な物だけにします」


 グラントは少し考え、頷いた。


「よい。三つから始めろ」


 書記官が記録する。


 父が、娘たちの言葉で指示を変えた。


 それだけのことなのに、リリアナには大きなことに思えた。


 次に向かったのは洗い場だった。


 昨日までの札。


 ――汚れ物はこちら。


 今は仮札が三つに分かれている。


 食器用布。

 床用布。

 作業着・寝具。


 白、灰色、青の色紐がついている。


 グラントはそれを見て、少し眉を上げた。


「ここまで分ける必要があるのか」


 その声に、アリナの肩がびくりとした。


 リリアナは気づいた。


 父はただ疑問を口にしただけかもしれない。


 しかし、下働きの少女には叱責に聞こえる。


 言葉の重さは、立場によって変わる。


 リリアナは父へ向き直った。


「必要です。昨日まで“汚れ物”で一緒になっていて、食器用と床用が混ざる危険がありました」


 グラントは、アリナの方を見た。


 アリナは慌てて頭を下げる。


「アリナ」


 父が名を呼ぶと、彼女はさらに固まった。


「はい」


「昨日、分かりにくいと報告したのは、お前か」


「……はい」


 声が小さい。


 リリアナは思わず心配になった。


 しかし、グラントは声を荒げなかった。


「よく言った」


 アリナは顔を上げた。


 自分が聞き間違えたのではないか、という顔だった。


 グラントは続ける。


「私には、この札の不便が見えていなかった。見えていない者に、分からないと言える者は必要だ」


 アリナの目が揺れた。


「私、ただ分からなかっただけで……」


「それでよい」


 グラントは言った。


「分からない者が黙る家は、いずれ見えている者まで黙る」


 リリアナは、その言葉をすぐに手帳へ書きたかった。


 だが、今は父の横に立っている。


 手帳を開くのは後にした。


 洗い場の確認では、グラント自身も仮札を見て意見を出した。


「色紐はよい。だが、夜には見えにくいのではないか」


 マルタが答える。


「はい。ですから文字も残します」


「燭台の位置も変えろ。水場で火を使いすぎるなと言いたいが、見えなければ札の意味がない」


 グラントは、ふと自分で苦笑した。


「また指示が増えるな」


 リリアナが言った。


「増やすなら、見直し日も必要です」


「分かっている」


 父の返事は少し苦かった。


「七日後に見る。マルタ、アリナ、お前たちの確認に私も同席する」


 マルタが一瞬だけ目を見開いた。


「旦那様も、でございますか」


「都合がつく限りだ。つかなければ、報告を読む」


 使用人たちの間に、微かな緊張が走った。


 当主が七日後確認に来る。


 それは良いことでもあり、怖いことでもある。


 リリアナは、そこを見逃さなかった。


「お父様。同席されるなら、最初に“叱責のためではない”と伝えてください」


 グラントは娘を見た。


 少しだけ目を細める。


「そこまで言わねばならないか」


「はい」


 リリアナは迷わず答えた。


「言わなければ、皆さまは叱られると思います」


 グラントは、ゆっくり息を吐いた。


「……そうか」


 短い返事だった。


 しかし、その中に少し痛みがあった。


 次に見たのは、階段下の物置だった。


 札にはまだ古い言葉が残っている。


 ――勝手に持ち出し禁止。


 アリナが「怖い札」として挙げたものだ。


 グラントは扉の前で立ち止まった。


「これは、私にも覚えがある」


「お父様に?」


 リリアナが聞くと、グラントは頷いた。


「昔、蝋燭と油が勝手に使われすぎたことがあった。家政頭が“勝手に持ち出し禁止”と書かせた」


「どれが禁止なのか分からなくなっています」


「そうだな」


 扉を開けると、中には箒、桶、予備蝋燭、火かき棒、踏み台がある。


 グラントは一つずつ見た。


「箒や桶まで禁止に見える」


「はい」


「しかし、油や火道具は勝手に持ち出されては困る」


「ですから、分けたいのです」


 リリアナは仮札案を出した。


 ――掃除用具。必要時使用可。使用後戻す。

 ――火道具・油。担当者確認。火災の危険あり。

 ――踏み台。使用前に足を確認。壊れかけは使わない。


 グラントは札を読み、特に踏み台のところで眉を動かした。


「踏み台まで?」


 アリナが小さく言った。


「以前、脚がぐらつくものがあって……上の棚を取る時、怖かったです」


 グラントはアリナを見た。


 今度のアリナは、少しだけ逃げずに立っていた。


「誰かに言ったか」


「……言いました。でも、“古いから気をつけて使って”と」


 グラントの顔が強張った。


 古いから気をつけて使う。


 それは、何度も聞いた言葉だったのだろう。


 古いから。

 少し壊れているから。

 気をつければ使えるから。


 そうやって、危険が日常に溶ける。


「壊れかけは、気をつけて使うものではない」


 グラントは低く言った。


「直すか、使わないか、決めるものだ」


 リリアナは、その言葉を胸に留めた。


 仮札に追記される。


 ――壊れかけは、気をつけて使わない。直すか、使わないかを判断。


 次は、昨日アリナが挙げた「来客用椅子」だった。


 食堂の端に並ぶ椅子。


 これまで下働きたちは普段座ってはいけないと思っていた。


 グラントは札を見て、少し困惑したようだった。


「来客用なら、普段使わないのではないか」


 リリアナは首を横に振る。


「実際には、来客時に優先する椅子です。普段使ってはいけないとは決まっていなかったそうです」


 マルタが補足する。


「ただ、傷をつけないようにと、昔の家政頭が厳しく言ったようでございます」


 グラントは椅子に手を置いた。


 特別豪華な椅子ではない。


 ただ、使用人食堂にある他の椅子より少しだけ状態が良い。


「普段、誰も座っていなかったのか」


 アリナが答える。


「はい。忙しい時も、空いていても、座りにくくて」


「馬鹿なことを」


 グラントは思わず言った。


 その声に、またアリナがびくりとした。


 リリアナが父を見る。


 グラントも気づいた。


「……すまない。お前たちが馬鹿だと言ったのではない」


 アリナは目を丸くした。


 当主が下働きに謝った。


 小さな出来事だが、食堂にいた数人の使用人が明らかに驚いていた。


 グラントは、少しぎこちなく続ける。


「椅子は座るためにある。来客時に優先するなら、そう書けばよい」


 仮札がつけられた。


 ――来客時優先椅子。普段使用可。来客前日に点検。


 グラントはそれを読み、頷いた。


「これでよい」


 しかし、リリアナはそこで止めた。


「お父様、“普段使用可”だけでは、誰が点検するか分かりません」


「そうか」


「来客前日の点検担当を決めましょう」


 マルタが答えた。


「食堂担当と夜番が確認します。ぐらつきがあれば修理待ち棚へ」


 記録される。


 来客用椅子は、ようやく座るための椅子に戻ろうとしていた。


 最後に、グラントが自分から見たいと言った場所があった。


 物置の奥。


 古い記録棚。


 そこには、過去の修繕依頼控えが束になって残っている。


 父はその中から、一枚を取り出した。


 半年前の修繕依頼。


 折れた踏み台と、取っ手の外れた桶、窓枠の留め金について。


 下の方に確認印がある。


 グラントの印だった。


 彼は、その印を長く見つめた。


 リリアナは何も言えなかった。


 エレノアも黙っている。


 グラントは低く言った。


「私は、見ていない」


 誰も答えない。


「印だけ押した」


 それは、懺悔に近い声だった。


「家政頭から“軽微な修繕です”と上がってきた。私は確認したことにした。屋敷の大きな支出ではない。後でよいと思った」


 後で。


 また、その言葉だった。


 グラントは紙を握りしめすぎないよう、机に置いた。


「この印も、札だったのだな」


 リリアナは顔を上げた。


「札?」


「“見た”という札だ。だが、実際には見ていない。使用人たちは、この印を見て、当主が知っていると思ったかもしれない」


 リリアナの胸が痛んだ。


 確認印。


 それも言葉の札だった。


 見た。


 承知した。


 処理済み。


 でも、実際には見ていない。


 札より重い嘘になる。


 グラントは、静かに言った。


「リリアナ」


「はい」


「この確認印の扱いも見直せ」


 リリアナは驚いた。


「私が、ですか?」


「お前たちが進めている小制度一覧に入れろ。確認印は、誰が何を見たのかを示すものだ。押すだけなら、害になる」


 エレノアが頷いた。


「確認印運用ですね」


「そうだ」


 グラントは苦く笑った。


「当主の印も、小制度とやらに入れてもらおう」


 その言い方は、自嘲を含んでいた。


 だが、逃げてはいなかった。


 リリアナは、静かに頷いた。


「入れます」


 夕方、王宮へ戻る前に、グラントは使用人宿舎の小食堂で短く話した。


 大勢を集めすぎないよう、各部署から数人だけ。


 長い訓示ではない。


「今日、いくつかの札を見た」


 グラントは立ったまま言った。


「余り物、汚れ物、後で修理、使用人用。そうした言葉が、物だけでなく、お前たちの扱われ方にも関わっていたことを知った」


 使用人たちは、息を潜めて聞いている。


「これは、下の者の不注意ではない。当主である私が、見ていなかったことでもある」


 小さなざわめきが生まれかけ、すぐに消えた。


 グラントは続けた。


「分からない札、怖い札、使ってよいか迷う札があれば、マルタとアリナへ伝えよ。伝えた者を責めない。七日後に私も報告を受ける」


 そして、少し間を置いた。


「壊れかけのものを、気をつけて使えとは言わない。直すか、使わないか、決める」


 それだけ言うと、グラントは話を終えた。


 短い。


 だが、使用人たちの空気は変わっていた。


 当主が、自分の確認印を見直すと言った。


 それは、ただ札を替えるより大きい。


 帰りの馬車で、リリアナはしばらく黙っていた。


 エレノアも何も言わなかった。


 グラントは向かいに座り、外を見ている。


 やがて、ぽつりと言った。


「リリアナ」


「はい」


「今日のことを、報告書に書け」


「もちろんです」


「私が見ていなかったこともだ」


 リリアナは、一瞬だけ言葉に詰まった。


「よろしいのですか」


「よくはない」


 グラントは窓の外を見たまま言った。


「だが、書かなければまた見なかったことになる」


 リリアナは、膝の上で手を握った。


「はい。書きます」


 その夜、北翼でリリアナは報告を書いた。


 ――父グラントが使用人宿舎の札を見た。

 ――「使用人用。余り物置場」の跡を見て、使用人用という言葉を便利に使いすぎていたと認めた。

 ――洗い場の用途分離札を確認。アリナさんに「よく言った」と言った。分からない者が黙る家は、いずれ見えている者まで黙る、という言葉があった。

 ――「勝手に持ち出し禁止」は、掃除用具と火道具を分ける。禁止するなら理由を書く。

 ――「来客用椅子」は、来客時優先椅子、普段使用可、来客前日点検へ変更。父は下働きに誤解させる言い方をして謝った。

 ――壊れかけは、気をつけて使うものではない。直すか、使わないかを判断するもの。

 ――父は半年前の修繕依頼に自分の確認印があるのを見た。実際には見ていなかったと認めた。確認印も「見た」という札であり、押すだけなら害になる。

 ――確認印運用を小制度一覧へ加える。

 ――父は、今日のことを報告書に書けと言った。見ていなかったことも。


 最後に、リリアナはしばらくペンを止めた。


 そして、書いた。


 ――お父様が変わった、とはまだ書けない。でも、お父様は今日、見ていなかった印を見た。家の中で、それはたぶん大きなことだった。


 エレノアはそれを読み、静かに頷いた。


「その書き方がよいわ」


「変わった、と書くのは早いですか」


「早いわ」


「でも、見た」


「ええ。今日は、それで十分」


 リリアナは手帳を閉じた。


 使用人宿舎では、古い札の跡がまだ壁に残っている。


 消えるには時間がかかる。


 けれど、新しい仮札が揺れている。


 そして、当主の確認印もまた、見直しの対象になった。


 言葉の札は、使用人宿舎から当主の机へ戻ってきた。


 そのことを、リリアナは忘れないようにした。

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