第105話 アリナ、分からない札を集める
アリナは、紙片を三枚持って廊下に立っていた。
一枚目には、こう書いてある。
――分かりにくい札。
二枚目には、こう書いてある。
――怖い札。
三枚目には、こう書いてある。
――使ってよいか迷う札。
昨日、リリアナがそう分類した。
そしてマルタが言った。
「アリナ、あなたにも見てもらいます」
その時、アリナは思わず返した。
「私がですか?」
声が裏返りかけた。
無理もない。
彼女はまだ若い下働きで、屋敷の古い決まりをすべて覚えているわけではない。むしろ、分からないことの方が多い。
だからこそ選ばれた。
それは頭では分かる。
けれど、実際に朝になって、紙片を持ち、使用人宿舎の廊下に立つと、足がなかなか動かなかった。
分からない札を集める。
簡単そうで、怖い仕事だった。
なぜなら、分からないと言うことは、自分が未熟だと認めることに似ていたからだ。
古くから勤めている者たちは、札を見なくても分かる。
どの布が食器用で、どの布が床用か。
どの棚の物は勝手に使ってよく、どの棚の物はマルタへ確認がいるか。
どの椅子は来客用で、どの椅子なら夜番が座ってよいか。
どの桶は洗濯用で、どの桶は水運び用か。
分かる人には分かる。
だから、分からないと言うのが恥ずかしい。
それでも、アリナは一歩を踏み出した。
最初に向かったのは洗い場だった。
昨日まで「汚れ物はこちら」と書かれていた場所には、仮札が三つかかっている。
食器用布。
床用布。
作業着・寝具。
白、灰色、青の色紐も付けられた。
昨日よりは分かりやすい。
けれど、アリナは洗い場の隅にもう一枚、小さな板札を見つけた。
――濡れ物。
木桶の横に立てかけられている。
何の濡れ物なのか分からない。
洗った後の布なのか。
雨に濡れた外套なのか。
水をこぼした床布なのか。
赤子用の布を仮に置く場所なのか。
アリナは少し迷った。
こんな札、今まで気にしたことがなかった。
たぶん、誰かが見れば分かるのだろう。
聞けばいいのかもしれない。
でも、今は聞く前に、分からない札として集める仕事だ。
アリナは一枚目の紙片に書いた。
――濡れ物。何を置く場所か分からない。
それから少し考えて、三枚目にも印をつけた。
――使ってよいか迷う札。
濡れ物置場に置いてよいのか、置いてはいけないのか分からないからだ。
次に向かったのは、階段下の物置だった。
ここには箒、桶、古い布、火かき棒、予備の蝋燭、壊れかけの踏み台などが入っている。
昨日までは「壊れ物。後で修理」と書かれていた小部屋の隣だ。
アリナが扉を開けると、少し埃っぽい匂いがした。
壁に、古い札がある。
――勝手に持ち出し禁止。
アリナは、その札の前で止まった。
怖い。
そう思った。
禁止、と書かれている。
だが、ここには日常的に使う箒も桶もある。
勝手に持ち出し禁止なら、掃除の時も毎回誰かへ聞かなければいけないのか。
けれど、実際には皆、箒を持っていく。
つまり、この札は全部にかかっているわけではない。
では、何を勝手に持ち出してはいけないのか。
予備の蝋燭か。
火かき棒か。
踏み台か。
それとも物置全体か。
アリナは二枚目に書いた。
――勝手に持ち出し禁止。どれが禁止なのか分からず怖い。
少し迷って、こう付け足す。
――掃除用の箒も聞くべきか迷う。
書いた途端、胸が少し軽くなった。
分からないと書いても、叱られなかった。
誰かの前で言うより、紙へ書く方が少し楽だった。
廊下に戻ると、年上の洗濯係ベラが大きな籠を抱えて歩いてきた。
「アリナ、何をしているの?」
いつもの調子で聞かれて、アリナは身を固くした。
「札を……分からない札を集めています」
「分からない札?」
「はい。マルタさんと、リリアナ様から」
ベラは眉を上げた。
「ああ、昨日の。使用人宿舎の貼り紙を直すっていう」
「はい」
「大変ねえ」
そう言って通り過ぎようとしたベラが、ふと足を止めた。
「じゃあ、これも書いておいて」
「これ?」
ベラは洗濯籠を少し持ち直し、廊下の突き当たりを指した。
そこには棚がある。
札にはこう書かれていた。
――予備。
「予備、ですか?」
「そう。あれ、困るのよ」
ベラは顔をしかめた。
「シーツが足りない時に使っていいのか、来客用だから触っちゃいけないのか、誰もはっきり言わないの。前に使った子が、あとで“それは来月の客用だった”って叱られてね」
「でも、予備って書いてあります」
「だから困るの。何の予備か書いてないから」
アリナは、はっとした。
予備。
それだけなら良い言葉に見える。
だが、何の予備なのか分からない。
今使ってよい予備なのか。
緊急用なのか。
来客用なのか。
担当者確認が必要なのか。
アリナは三枚目に書いた。
――予備。使ってよい予備か、確認が必要な予備か分からない。
ベラは籠を抱え直しながら言った。
「あと、“上等品”も嫌ね」
「上等品?」
「上等品って札がある棚の布は、使うのが怖いの。汚したら怒られそうで」
アリナは思わず頷いた。
分かる。
上等品。
きっと良い物なのだろう。
でも、良い物だから使えない。
壊したら、汚したら、なくしたら。
そう思うと、手が出ない。
「ありがとうございます。書きます」
「あなた、分からないって書く係なの?」
「はい」
「いい係ね」
ベラは少し笑った。
「私はもう長くいるから、分からないことも分かったふりをしちゃうのよ。新しい子が言ってくれた方が助かる」
その言葉に、アリナは驚いた。
自分が分からないことは、迷惑ではないのか。
助かるのか。
それを聞いて、足が少し軽くなった。
午前の終わり頃には、アリナの紙片はかなり埋まっていた。
分かりにくい札。
――濡れ物。
――予備。
――上等品。
――後で。
――使える物。
――古い物。
怖い札。
――勝手に持ち出し禁止。
――触るな。
――主人用。
――失敗品。
使ってよいか迷う札。
――来客用。
――予備。
――上等品。
――使用人用。
――仮置き。
――余り。
同じ言葉が何度も出てくる。
予備。
上等品。
使用人用。
余り。
アリナは、自分で書いた紙を見て、胸のあたりが少し重くなった。
分からない札は、たくさんあった。
怖い札も、思ったより多かった。
しかも、それは特別な場所ではなく、毎日通る廊下や棚にあった。
昼過ぎ、マルタが使用人宿舎の小食堂に席を作った。
長机の上に、アリナの紙片が並べられる。
集まったのは、マルタ、アリナ、ベラ、厨房手伝いの少年ニコ、夜番の男セル、そして記録係として屋敷側の書記官。
リリアナとエレノアは、王宮で午前の会議を終えた後、馬車で公爵邸へ向かった。
到着したのは昼過ぎ。
王宮から屋敷までの移動は予定通り半刻ほどで、不自然な遅れはない。
リリアナが小食堂に入ると、アリナは慌てて立ち上がった。
「リリアナ様」
「座ってください。今日はアリナさんの報告を聞きに来ました」
「私の……」
アリナは紙片を見て、少し不安そうな顔をした。
「変なものばかり集めていたら、すみません」
「変かどうかを見るための会ではありません。分からなかったものを見る会です」
リリアナはそう言って、自分も席に着いた。
エレノアも隣に座る。
マルタが進行した。
「では、まず分かりにくい札から」
アリナは紙を見ながら読み上げた。
「濡れ物。何を置く場所か分からない。予備。何の予備か分からない。上等品。使ってよいのか分からない。後で。いつか分からない。使える物。誰が使えるのか分からない。古い物。捨てるのか、直すのか、まだ使うのか分からない」
読んでいるうちに、アリナの声は少しずつ小さくなった。
自分が細かすぎることを言っているように感じたのかもしれない。
しかし、リリアナはすぐに言った。
「全部、大事です」
アリナが顔を上げる。
「特に、“後で”は危険です」
エレノアも頷いた。
「後で、には次に見る日が必要ね」
マルタが記録する。
――後で、を単独札として使用しない。次に見る日または担当者を記載。
次は、怖い札だった。
アリナは少し言いにくそうに読み上げる。
「勝手に持ち出し禁止。どれが禁止なのか分からず怖い。掃除用の箒も聞くべきか迷う。触るな。理由が分からないので怖い。主人用。近づいてはいけない気がする。失敗品。使ったら自分も失敗したみたいで嫌だ、とベラさんが」
ベラが小さく咳払いした。
「言いました」
リリアナは、胸の奥が痛むのを感じた。
失敗品。
物の札が、人にも貼られる。
昨日書いた言葉が、そのまま現実になっている。
「失敗品という札は外しましょう」
リリアナは言った。
マルタが頷く。
「はい。中身を確認して、修理待ち、布材候補、廃棄判断へ分けます」
「触るな、は?」
エレノアが問う。
夜番のセルが答えた。
「たぶん、火道具の棚です。子どもの下働きが触らないように、昔から」
「理由を書いた方がよいですね」
リリアナが言う。
「“火道具。担当者以外触らない。火傷・火災の危険”など」
セルは頷いた。
「それなら分かります」
怖い札は、全部なくせばいいわけではない。
本当に危険なものには、止める札が必要だ。
しかし、理由がない「触るな」は、人をただ怯えさせる。
理由がある「触らない」は、人を守る。
リリアナは手帳に書いた。
――怖い札にも、守る怖さと怯えさせる怖さがある。
次は、使ってよいか迷う札。
ここで一番議論になったのは、「来客用」だった。
食堂の端にある椅子数脚。
札には「来客用」とある。
アリナたちは、普段座ってはいけないと思っていた。
しかし、マルタによれば、それは本来「来客時に優先して使う椅子」であり、普段まったく使ってはいけないものではなかった。
ただ、古い家政頭が傷をつけられるのを嫌がり、いつの間にか使用禁止のようになっていたという。
「では、普段座ってよいのですか?」
ニコが聞く。
マルタは少し考えた。
「荒く扱わないこと。来客予定日の前日は点検すること。それで普段も使ってよいでしょう」
仮札が作られた。
――来客時優先椅子。普段使用可。来客前日に点検。
アリナは、それを読んで少し笑った。
「分かりやすいです」
リリアナも微笑む。
「来客用、だけだと使えませんでしたね」
「はい」
次に「上等品」。
棚にあったのは、少し良い布や予備の毛布だった。
それらは上等品だから使ってはいけない、と下働きたちは思っていた。
しかし、冬の夜番用に使うための毛布も混ざっていた。
つまり、上等品という札が、使うべきものまで止めていた。
エレノアが言った。
「上等品という分類は、保管上は必要かもしれない。でも、使用場面が分からないなら意味がないわ」
マルタが分類を変える。
――夜番用毛布。寒い夜に使用可。使用後干して戻す。
――来客予備布。担当者確認。
――修繕用良布。勝手に切らない。担当者確認。
同じ上等品でも、扱いが違う。
使ってよいもの。
確認がいるもの。
切ってはいけないもの。
一つの札では足りなかったのだ。
最後に、「使用人用」。
この言葉は、何度も出ていた。
使用人用食器。
使用人用椅子。
使用人用布。
使用人用棚。
もちろん、区別自体が全部悪いわけではない。
主人用と使用人用で、置き場所や管理が違うものはある。
しかし、使用人用という札が、傷物や余り物や粗末な物の言い換えになっている場所があった。
リリアナは、そこで言葉を選んだ。
「使用人用という札を全部なくすことはできないと思います。でも、それだけでは足りないです」
マルタが頷く。
「何のための使用人用かを書くべきですね」
「はい。普段使いなのか、作業用なのか、食事用なのか、夜番用なのか」
ベラが言った。
「使用人用、とだけ書いてあると、壊れていても我慢するものみたいに見える時があります」
小食堂が少し静かになった。
それは、かなり重い言葉だった。
リリアナは、まっすぐに頷いた。
「その見え方を変えたいです」
仮の方針が決まった。
――使用人用、単独表記を避ける。
――作業用、食事用、夜番用、普段使用可、担当者確認など、用途を併記。
――欠け・割れ・火傷・怪我の危険がある物は、使用人用として回さない。
マルタは、最後の一文を見て静かに頷いた。
「これが一番大事です」
リリアナも頷いた。
使用人用だから危なくてもいい、という考えを残してはいけない。
会の終わりに、アリナの三枚の紙片は回収されず、写しを取ることになった。
原本はアリナの手元に残す。
本人が集めたものだからだ。
アリナは驚いた。
「私が持っていてよいのですか?」
エレノアが答えた。
「ええ。七日後確認の時に、また使います」
「でも、私の字、あまり綺麗では」
「綺麗な報告が必要な時は、写しを作ります。今日は、あなたがどこで迷ったかが大事です」
アリナは紙片を見つめ、少しだけ嬉しそうにした。
「分からないところを、また見ます」
「お願いします」
リリアナが言うと、アリナは深く頷いた。
夕方、王宮へ戻る馬車の中で、リリアナは静かだった。
エレノアが尋ねる。
「今日はどうだった?」
「分からないと言える人がいると、こんなに見えるのですね」
「ええ」
「私は、分からないことを恥ずかしいと思っていました。たぶん今も思っています」
「普通よ」
「でも、分からない人がいないと、札は直らない」
「その通り」
リリアナは、アリナの紙片を思い出した。
字は少し揺れていた。
けれど、その揺れた字が、使用人宿舎の古い言葉を動かした。
夜、北翼へ戻ってから、リリアナは報告を書いた。
――アリナさんが分からない札を集めた。分かりにくい札、怖い札、使ってよいか迷う札。
――濡れ物、予備、上等品、後で、使える物、古い物は、意味が広すぎる。
――勝手に持ち出し禁止、触るな、主人用、失敗品は怖い。怖い札には、守る怖さと怯えさせる怖さがある。理由を書く必要がある。
――来客用は、普段使ってはいけないと誤解されていた。来客時優先椅子、普段使用可、来客前日点検へ変更。
――上等品は、夜番用毛布、来客予備布、修繕用良布へ分ける。使ってよいものと確認が必要なものを分ける。
――使用人用という単独表記を避ける。作業用、食事用、夜番用など用途を併記。欠け・割れ・火傷・怪我の危険がある物は、使用人用として回さない。
――分からないと言える人がいないと、札は直らない。古い人の記憶だけで回している場所は、新しい人を黙らせる。
最後に、少し考えてから書いた。
――アリナさんの字は少し揺れていた。でも、その揺れた字が、屋敷の古い言葉を動かした。綺麗な字ではなく、迷った場所が書かれていることが大事だった。
エレノアはそれを読み、静かに頷いた。
「今日の報告は、アリナにも読ませてあげたいわね」
「恥ずかしがるかもしれません」
「そうね。でも、必要なら写しを渡しましょう」
「はい」
リリアナは手帳を閉じた。
使用人宿舎では、まだ仮札が揺れている。
予備。
上等品。
来客用。
使用人用。
それらの古い言葉は、今日少しだけほどけた。
分からないと言った少女の手で。
屋敷を変えるのは、大きな命令だけではない。
小さく揺れた字が、古い札を外すこともある。




