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富士山の見える研究所で

 岩田は淡々と酒を飲みながら、肴をつついていた。山梨の田舎の酒場の数も、大不況に飲み込まれ、半分に減っていた。その数少ない残り灯の馴染みの店で、岩田は一人酒を飲む。

 答えなんて見えない。

 HAL研究所の未来は絶望的な倒産だと、皮肉にも彼の冷徹なプログラミングで培われたシミュレーションが告げていた。

 鹿児島の地酒にも手を出してみる。

 熱くて喉がひりひりとした。

 マッキーこと槇原敬之の「どんなときも」が空々しく、他に客がいない岩田だけの空間に流れていた。


   *


 岩田はふらふらと家への帰路を歩く。自身の立場、収入は問題がない。むしろ大出世と言えるような一流企業からヘッドハンディングされている。だが、そんなものは問題ではない。岩田はそんな栄光のコースを見向きもせずに、たった五人のベンチャー企業だったHALに就職したのではないか。

 岩田の脳裏にあの時の父の反発の声が聞こえた。

「あんな海千山千の企業に就職してどうする? 将来の保証などないぞ!」

 当時は反発するしかなかった父の言葉が、今では重く響く。HAL研は倒産する。そして自身も家族を養う身、妻がいて幼い子供がいる身となっている。もう、夢を見てはいけないのか。夢から醒める時期なのか。深い酔いの中、妙に頭がひんやりと計算をし始める。岩田はぶんぶんと頭を振った。

 山梨の田舎道には、街灯などついていない。深夜には車も通らない。春の草の匂いがつんとした。


   *


 HAL研究所は1992年6月22日に和議を申請して倒産をした。負債総額は約50億円だった。


   *


 その和議申請の前夜、岩田の家に一本の電話がかかった。

「あなた電話よ、任天堂のやまうちさんって方から」

 妻と同じく、岩田も訝しんだ。

「やまうちさん? 誰だろう」


「俺や、山内や」

「えっ?」

「そうだ」

 岩田は慌てて

「任天堂の社長の」

 山内は笑いながら

「そう格式張らんでええ。ざっくばらんで行こうや」

「はい」

「それでどうなんだ、HAL研は? 厳しいと聞いているが」

「はい、でも、大丈夫です。僕たちがいるから」


 その後つらつらと語られる現状、山梨移転の負債の重み、バブル崩壊によるショック、そして何よりもゲーム開発部長としての岩田の分析。開発の悪循環。

「時間がない」→「ちゃんと仕上げないでソフトを出す」→「つまらないからたいして売れない→「次はもっと大変」

 そんな流れ。

 全てがHAL研究所の終わりを予感させるものだった。

 山内は苦笑した。この岩田という男、ここまでクレバーに分析する力がありながら、まだ諦めていない。本当のバカか、もしかしたら本当に。

 再建できると思っている?

 山内は口角を上げ、にやりとする。


 そしてとって返すように

「ハル研究所が行き詰ったのは、ユーザーが面白いと思う味つけが下手だった、ってことやね」

 岩田は応える。

「これから、を見ていてください」

 山内は最初は、他の会社と同じく岩田をヘッドハンティングしようと社長直々に要請することを企んでいた。だが、この男はどうだ。この男の背負っているもの、背負おうとしているものの重みはどうだ。

「辛かったろう」

 少し間があった。

「はは、なんでもないです」

 山内は繰り返す。

「つらかったな」

 電話越しに鼻水をすする音が聞こえた。


「任天堂がHAL研究所を援助しない手が無いわけではない。大事なパートナーやからな」

 思わぬ大きな返事が返って来た。

「はい!」

「いやな、仮にだが」

 そんなこと聞きもせずに

「どうか! どうか!」

 山内は笑う。任天堂の主力商品だった花札は昔ギャンブルに使われていたこともあった。その博徒の血がまた騒ぐ。

「HAL研究所を再建させるのに、任天堂の力を貸すというのもありだな。任天堂の技術開発提供、資金援助、相互のより深い繋がり」

「はい!」

「だがな、それには二つ条件がある」

「はい!」

 返事は止まらない。だが、次の条件で止まることを山内は知っている。

「まずはHAL研究所が広い意味での倒産、和議を申請すること。これで50億の借金は15億に減る。といってもとんでもない金額なのは変わらないが。それともう一つ、これがとても重要でな」

 岩田の耳に山内の深呼吸が電話越しに響く。

「岩田くん、君が次期HAL研究所の社長になることが二つ目の条件だ」

 岩田の息がつまる。

「僕が……社長に……ですか」

 プログラム能力を買われて、開発陣をよりまとめるのならまだ分かる。だが、社長業など全く未知のものを勧める。山内博だから出来る提案であるし、山内以外には全く思いつきもしない提案だっただろう。

「さてと……」


 山内は続ける。


 日本の社会には

「銀行がお金を貸したときは経営者が個人で保証しなさい」

 という仕組みがあるんやな。

 中小の企業の会社では、要するに

「会社が倒産したら、個人が一生かかってつぐなうんだ」

 という約束をさせるならわしがある。


 岩田は息を飲む。

 山内は更に追い込みをかける。


「つまりあんたが社長になって、借金を返せないでまた倒産したら、その借金はぜんぶお前さんが被ることになるわけや」

 岩田は改める。

「僕の家族が、ですね」


 岩田に、妻と幼い息子の顔が浮かんだ。


   *


 岩田は珍しく、朝食の目玉焼きを焼いていた。焼き加減がわからず、黄身が硬めになっていた。

 それを小皿に移しながら、妻にこれまでの経緯を語る。

 極めてハードな状況だ。だけど、一つでも希望があれば、真っすぐに突き進む強さを持っている。時にそれが我がままで強引でも。そして仲間思いであることも。


 妻は知っている。


 「好きか嫌いかではなく、僕が社長になることが一番合理的なんだ」


 それがどんなに不合理か、妻も岩田も知っている。


「でも」


 岩田は目玉焼きをフライパンから皿に移し、妻の眼を見て


「もし逃げたら自分は一生後悔する。一緒に汗をかいた仲間がいるのにどうして逃げられるか。それが一番の理由かな」


 妻はふっと笑う。軽く息を吐いて。


「一緒に汗を流したい。そのために借金を背負うなんてちっとも合理的じゃないけど。あなたらしいわ。あなたらしい美学」


「ありがとう、HAL研も君も絶対に幸せにする、僕の全てを賭けて」


   *


 片側車線の道で、岩田はスポーツカーを走らせる。安いスポーツカーがぐらぐらと舗装されきっていない道を車体を揺らしながら登る。林をカーブすると、富士山が近くに見えてきた。近くの駐車場に車を止め、真っすぐに前を向いて歩く。


 岩田は「よしっ」と強くこぶしを握る。


 会社の就任式ではメンバーは90人から半分に減っている、負債も50億から15億に減った。

 それでも果てしない道だ。だけど迷わない。逃げない。光がその先にあるから。

 岩田は就任式で社員らに言う。初期メンバーである彼にとって、どのメンバーとも顔なじみだ。

「僕たちにはカービィがある。この桃色の愛すべきキャラを中心に再起しよう」

 空気が動いた。

「任天堂からの頼みも喜んで引き受けよう。すまない。ソフトに集中する代わりに、ハードの周辺機器は凍結する。だけど、それも含めていっぱい僕たちは語りあおう」

 頷く顔が何十とあった。

「会社内に連帯をもう一度吹かそう。僕たちはまだやれる。これは【信じてる】だけじゃなくて、僕のプログラマーとしての【シミュレーション】だから。そして今日、僕はここの社長になります。まだまだ若輩者だけど、どうか。みんな、ハッピーになろう!」


 岩田聡の33歳という若さでの社長就任だった。

 その日、富士山の見える研究所に、春の風が吹いた。

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