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グレイゾーン1  作者: サヤカ
Act1 クローズド・ソサエティ
6/36

 流し台に置いた食器を、スポンジで次々とこすっていく。

 リリィがそうして三人分の食器を洗っていると、後ろから誰かがやってくる足音がした。――レイバではない。

「手伝うこと、ある?」

 振り返ると、予想通り。シャワーを使い終えたスティアがそこにいた。自前のものであるらしい部屋着は、やはりゆったりとした長袖だった。

「ありがと。でも大丈夫だよ。せっかくさっぱりした所で、後片付けさせるのもなんだし。ゆっくりしてて」

「その皿を洗って終わり?」

 こちらの提案をゆるやかに無視しながら、彼はリビングとキッチンを分けるカウンターに近づいた。

「余計な世話じゃないなら、拭くのでも並べるのでも、手伝わせてくれないかな。体を動かしてた方が落ち着くから」

 彼は特に他意のなさそうな、愛想の微笑みを見せた。

「まだ慣れないんだ。起き上がって歩いて、普通に生活するって言う感覚に。……こっちの勝手なリハビリ意識で、足引っ張っちゃったら申し訳ないけど」

「……そっか」

 リリィは皿を洗う手を止めて、軽く手の水を切った。近くに置いていた布巾を手にとって、空いている片手でスティアを招く。

「じゃあ、洗ったお皿ここに置くから、拭くの手伝ってくれる?」

「ありがとう」

「ううん。正直、私も助かるし」

 特に気後れする様子も見せず、スティアがキッチンに入ってくる。リリィは食器用の布巾を手渡しながて、不意に目を見張る。

 布を渡した掌。風呂上りにも関わらず、変わらず薄い手袋がつけられたままだった。

「……外さないの?」

 見つめながら問うと、スティアはきょとんとした。初めて気付いたとでも言うように、戸惑いの仕草を見せる。

「あー、そっか。でも、新しいのに換えたから清潔だし」

「濡れるに決まってるよ。あんまり、その状態で食器を触っては欲しくないけど」

 控えめに忠告すると、彼はあっさりと観念した。苦笑いを浮かべながら、左手の手袋だけを外す。

「……右は勘弁して」

 悪びれるような口調で、だが、開き直ったように悪戯めいた笑みを浮かべた。

「ちょっとグロいことになってるから」

 手袋をはめたままの右手を包むようにして、彼は布巾を手に取った。素手の左で食器を持ち上げると、それを拭く作業に入る。

 リリィはその様子を眺めながら、先ほどの話を思い出した。――ビーストに襲われた。俺は右腕を噛まれて死ぬかと思った。変な病気もらったらしくて、今でも具合が悪いんだ。

 確かに左腕に比べれば、どことなく、右の動きがぎこちなかった。注意していなければ分からないほどの差異ではあるが……

「照れるよ」

 からかうようにスティアが笑った声に、リリィは我に返る。

 不遠慮に見つめてしまったことにようやく気付いて、肩が縮まった。

 反射的にごめんと言いかけて、この状況で謝罪をすることは失礼だろうかと考え直して、そんな迷いを持て余していることがさらに失礼な気がして――とにかく、混乱して何も言えなくなってしまった。そんなこちらの様子を、スティアは屈託なく笑い飛ばす。

「珍しいもんは普通は見ちゃうって。別に気にしてないよ。隠したい所は、隠させてもらってるしね」

「……ごめん」

 結局、混乱しているうちに謝ってしまった。スティアは本当に気にした様子もなく、皿を拭いていく。

 リリィが再びスポンジを握り締めて、食器洗いを再開させた時だった。彼の声が低くなった。

「ガードは危険な仕事だよ。俺の身体を見れば分かると思うけど」

 口調は、あくまで穏やかだった。

「どうして目指してるの? 別に反対してるわけじゃなくて、ただの疑問」

 リリィは押し黙る。

 こう問われることは慣れていた。当然、答えも用意がある。だが、それを口にすることをためらった。スティアが実際にビーストに襲われたことで、後遺症に苦しんでいる被害者だからだ。

 街の中で生きてきたリリィが、街の中で訓練を受けて、街の中で育ててきた想いなど、彼にしてみれば子供じみた甘い夢に聞こえるだろう。だからといってこちらが萎縮するような話ではないのだろうが、居心地は悪かった。健常者が障害者に無条件で抱いてしまう罪悪感だ。あるいは、無知に対する羞恥心だろうか。

 尻込みの理由が自己弁護に基づくものばかりだと気づいて、苦笑する。――そっちの方が、子供っぽいか。

 勇気を出して、すう、と息を吸った。罪悪感を感じてしまうなら、せめてちゃんと話そう。意識して、肩の力を抜いた。

「世界が変わっちゃったから。変わった世界で生きて行くためには、技術がいると思ったの」

 手元に視線を向けたまま、皿を洗いながら言った。彼の顔を見るには、気恥ずかしい話題だった。

「街にいれば今は安全かもしれないけど、街の外を知らないままだと、この先ずっとこの街以外で生きていけなくなりそうだから。自分の主人が自分じゃないみたいで、想像すると怖いんだ。選択肢を狭めるくらいなら、現場に立ち向かいたい。そういう視点で仕事を選ぶなら、私は研究とか開発よりは、体を動かすことの方が得意だから」

 学校の進路調査への建前ならば、この回答をベースに、ガードが社会にもたらす利益や将来性の展望を交えるように努力するが。叔父の知り合いを相手に、点数稼ぎの化粧は必要ないだろう。リリィが実際に心を砕いているのは、自分の身の振る舞い方と、その延長線上にある小さな願いだけだった。

「どこにいたってやっていけるように。どこにだっていける人になりたい」

 それ以上のことを願うには、まずは外に出る力がいる。

「親もいないから。ちゃんと、自分を守れるように。できれば、誰かを助けられるように……そんな感じかな」

 言い切ってから、ようやく恥ずかしさが限界を超えて、照れ笑いを浮かべてしまった。見やれば、スティアは少し前から、黙ってこちらを見つめていたようだった。

「……似てるな」

「え?」

「いや、なんでも」

 彼は口角を和らげて、屈託なく笑った。

「いい夢じゃん」

「そ、そうかな?」

「うん。そう思う」

 会話の隙間に飛び込んできたのは、毎日聞いているサンダルの足音だった。

「リリィ、あがったぞー」

 風呂上りのレイバが、ご機嫌な様子で近づいていた。リリィの隣にスティアがいることに気づいて、タオルで頭を拭く手を止めた。

「お、そろってんじゃん。ちょうどよかった」

「カラスじゃないんだから……」

 リリィは最後の一皿の汚れをゆすいで、スティアの方に渡しながらぼやく。レイバの早風呂は今に始まったことではないが、どんな洗い方をしているのだろうと、何度でも疑問に思う。

「まあまあ。いい思い付きしたんだよフロで。いてもたってもいられなくて出てきちゃった。スティアさ、ピアス開けようぜ、ピアス」

 唐突。

 そんな単語を思い浮かべながら、リリィはエプロンで手を拭いて溜息をついた。「なんなのよ……」

「あ。えっとな。入院中によく話してたんだ。ほら、俺のシルバー連星に、少年スティアは憧れてしまったようで」

「すげえいっぱい空いてんなって思っただけで、羨ましかったわけではないけど」

 スティアは特に自分のペースを崩すことなく、皿を拭き続けていた。「レイバ、自分が開けたいだけだろ」

「そういう気持ちもなくはない。でも、お前が自分でやるよりは安全だし、医者にかかるより経済的だぜー。退院祝いにおごってやるから」

「どっちでもいーよ」

「よし! 明日の午後は空けてるから、それでよろしく。リリィは試験今日で終わりだから、明日から時間あるんだよね」

「え? 確かに採点期間は休みだし、予定を組むのはこれからだけど」

 声をかけられた時、リリィはすっかりシャワーを浴びに行くつもりで、エプロンのポケットに入れていた通信機をカウンターに置いていた。

「だったら、スティアと二人で街に行ってきてくれないかな。ピアッサー切れててさ」

「へ?」

「午前中は俺、ジョージさんちに寄ってからから、ロールと出かけなきゃなんだよね。スティアも2ケタ番地区には詳しくないし。お前は俺ほどではないにしろ、若者っぽいピアス屋とか知ってるでしょ?」

 断る理由があるわけではないが。

 いきなりの申し出ではあった。スティアが呆れる。

「困ってんじゃん。ごめん、いいよ気にしないで」

「え、なんだよー。二人でなかよく皿とか洗ってるから、てっきり友情的な何かとか、どっちもレイバの家族だぜ的な絆とか、そういうのが芽生えたのかと思ってたのに」

「ちょ、ちょっとうるさいレイバ。別にいいよ。どうせ休みだし」

 投げやりに答える。叔父の顔が輝いた。

「ありがと姪っ子~!」

 スティアが拭いた皿を種類別に重ねながらレイバの脛を軽く蹴ると、感動の声はあっさりしぼんだ。リリィはレイバに、皿を棚に並べる仕事だけ頼んで、キッチンを出てシャワールームに向かった。


 ……なんだか、長い一日だった。

 これが最後の仕事だ。リリィは自室の机に、帰宅時から放りっぱなしにしていた銃を置いた。布を広げて、整備道具を出す。

 レイバの商売道具に侵食された家の中で、リリィの私室だけは奇跡のように片付いている。自分のことを特にきれい好きと思ったことはなかったが、レイバが思う当たり前の整頓とリリィが思う当たり前の整頓に超えられない格差があったために、いつのまにかこの家における聖域じみた空間と成り果ててしまった。

 リリィは机に向かった。書き物の趣味はないので、課題にとりくむ時間を除けば、ほとんど武具の整備台となっている。

 銃身を手早く解体し、シリンダーのカーボンをブラシで落とす。油の臭いが鼻をつく。少し開けた窓から、いずれ逃れてくることを祈った。……もっと早くすませておくべきだった。どうも今日は手際が悪い。

(なんでシャワー浴びてから気づいたんだろう……)

 仕方がないことだが、客がいると調子が狂う。

 パッチで余分な油をふき取って、不備がないかをもう一度確かめた。満足して、もうひとつのリボルバーを同じように解体する。整備しながら、今日の試験や今後のことに想いを馳せた。……試験が終わってしまえば、採点期間に入るのでしばらく授業がない。実弾を撃つ次の機会は、早くとも数日後になってしまう。

(練習場くらい、開けてくれればいいのに)

 リリィは学生なので、銃器取り扱いの正式な免許は有していない。よって学校以外の敷地で発砲は許可されておらず、銃弾も授業や試験で使用する支給品しか使用できない。学校の敷地内にある練習場に赴かなければ射撃の修行は不可能なのだ。休暇中は、実弾のない銃身で基本動作の反復練習をすることが精一杯である。もちろん、それも欠かすことのできない大事な修練だが。

 ガードアカデミーの銃器は、レアリス・カンパニーによって提供・管理されている。教師に隠れて銃弾をくすねた学生の例もたくさんあるし、完全な統制にはほど遠いのが現状だが、それでも、事が露見した時の処分は重い。

 合法の銃器販売店で自由に弾を補充するには、ガード、ポリス、ハンターいずれかの、ライセンスが必要だった。ゲートの開錠の鍵にもなっている、小さな銀のプレートだ。

 夕方のシモンを思い出して、リリィは溜息をつく。

 ライセンスを一度、シモンに見せてもらったことがある。

 表面には、所有者の名前と登録番号が刻まれている。内側には極小の〈ストーン〉が内蔵されており、IDや個人情報、本人登録の暗証番号が記録されている。カンパニーの最新技術を駆使した電子暗号が緻密に入り組んでいるようで、複製や偽造はかなり困難なのが現状のようだ。よって盗難被害が多く、持ち主不明のライセンスを無断で使用する無法者も出現し始めているという……

 〈ストーン〉について、リリィは詳しい仕組みを知らない。

 外から見れば、様々な技術に便利に使われているだけの石だ。宝石に近いきれいな外見の例もあれば、ライセンスのように目に見えないほど小粒な例も、本当にただの石ころのようにしか見えない例もある。

 はば広い用途でエネルギーソースとして使用されている〈ストーン〉だが、どのように実用されているかを、リリィはよく知らない。極小に刻んだ一粒一粒に電子暗号を生じさせて記憶媒体として使うのがライセンスであろうし、専用の装置に取り付けて化学反応を誘発することで活用するのが発電所だ。それ以外にも、予想だにしない形状で予想だにしない形で利用されていることに遭遇することもあるし、逆に、発光する石の塊が照明として使われるなど、シンプルな例を見て驚くこともある。

 カンパニーが〈ストーン〉の開発に成功し、その実用化がニュースになった時、街が一種、特殊な熱気に包まれていたことはよく覚えている。最初に活躍した局面は、言うまでもなく発電材料としてだ。電力強化の影響で工場が活性化し、その後の技術発展の基礎が築かれたとされている……

(欲しいな)

 声に出さず、呟いた。原理は完全には分からずとも、ライセンスが強力な身分証になり、プロフェッショナルの証として機能することは知っている。

(ちゃんと卒業して、早くもらわないと……)

 リリィは、銃の整備を終えると、ホルスターの状態をチェックした。特に目立った破損や汚れはない。

 銃を収める場所の内側に、ポケットがある。リリィは指先をそこに入れて、中身を取り出した。

 手製のお守りだった。

 上等なものではない。どこででも買えるような布を、お世辞にも巧いとは言えない縫い目で、袋状にしただけである。作られてから今までの年月を主張するように、もとは可愛らしいピンク色だったはずが、ほとんど肌色に近いほどに色あせてしまっている。

 糸で口を縫われていて、中身は見えない。開けるには、はさみで切るしかないのだろう。

(開けないけどね)

 掌に載せると、心地よい重みがあった。リリィは未だに中身を知らない。

 これを開けられる日は、きっともうすぐ来る。

 リリィは、お守りをそのまま机の上に置いた。寝る時はここに置いている。出かける時は、服のどこかにしまっていつでも持ち歩いている。実戦に出る日が来るのなら、その時は装備のどこかに隠すと決めていたのだ。――教室のみんなが無事で帰る事ができたのがこのお守りのおかげだなどと、信じているわけではないが。

(でも、集中力は高まったかな)

 思わず、顔が緩むのを感じた。

 ピピピピ、と電子音が鳴った。ベッドの上に置いた通信機が点滅している。

 お守りから目を反らして、機体を確かめた。――期待した発信者でなかったことに軽い落胆を覚えたが、スイッチを入れた。

「もしもし」

「あっ、出た。よかった。寝たかと思ったぜ」

 ジャンはいつもの軽い口調で、悪びれるでもなく言った。

「もう寝るところだったよ。どうしたの?」

「試験終わった記念に、明日遊ばない? リックとそんな話が出たんだけど、どうせなら、お前やエミリも誘おうと思ってさ」

 タイミングが悪い。リリィは眉根を寄せた。

「ごめん、明日はむりなんだ。先約」

「へえ、珍しいじゃん。でもどうせ同じ学校の連中でしょ? そっちの約束も合わせて、みんなでパーッとダーツでもしようぜ」

「うーんと、そうじゃなくてさ。家族の問題。今、お客さんがうちに来てて」

 ジャンの語り口調が止まった。驚いているらしい。

「レイバさんに、客?」

「そう」

「ほんとに珍しいね。お前がそういう理由で来れないの。同居してから、お互いの生活にあんまり干渉してないって言ってなかったっけ」

「それは彼の仕事を私がよく知らないだけで、また問題が違うって言うか。とにかく、街の案内みたいなことをする約束なの」

 奇妙な沈黙が降りた。

 リリィは眉根を寄せる。通話だと相手の表情が見えないのがもどかしかった。

「ジャン?」

「あ、ごめん。分かった。お前は不参加ってことでいいね」

「うん。また今度誘ってよ」

「しょーがねーなぁ。珍味的な何かを見つけたらおみやげに買ってやっから、楽しみにしてな」

「遠慮しとく」

 ジャンの笑い声を最後に、通話は向こうから途切れた。

 リリィは機体を机に置いて、交わした会話を反芻した。――いつものクラスメイトとの、いつもの会話だ。何もおかしなことはない。

 だけどなぜか、変な感じがした。違和感、というほどでもないが。胸がざわつくような。

(気のせい、だよね)

 検証する価値は感じず、リリィは汚れた手を洗うため、暗くなった廊下に出た。


 ****


 やがて、リリィが眠りにつき、二時間ほど数えた真夜中に。

 着信が再び鳴り、一日待っていたメールの続きを受け止める。


Equ8.7/22 2:18

 From: 父さん

 Title: こんな時間にごめん

 今朝は早速の返信をありがとう。そんなに喜んでくれるなんて嬉しいです。

 試験の手ごたえはどうだった? 俺の激励が功を奏しすぎて、燃え尽きていないことを祈ってる。

 そのことについてもじっくり話したいけど、このメールでは大切な用件をひとつ。

 父さんのことを話させてくれ。

 大きな任務に関わっているって言ったよな。

 本当に大きな任務になってきた。予想外の展開にコトが運んで、こっちの仕事は増えるばかりだ。

 すっげぇ大変だけど、でもそれはラッキーな事だった。

 父さんちょっと興奮してるから、思わずこんな時間にメールしちゃいます。寝てたらごめんな。起こしちゃったならもっとごめん。

 でも、このお知らせを聞いたら、お前も許してくれると信じたい。


 ――お前に、会えるかもしれない。

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