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身だしなみを整えて、鏡に自分の姿を映す。髪型がひどく不格好になっているのが気になって、リリィは毛先に指で触れた。テッドの銃弾をかすめて爆ぜたその部位は、ぼろぼろになって乾燥しきっていた。
はさみが置いてあるわけでもないので、リリィは仕方なく、整えることをあきらめた。ぱしっと気合を入れるように頬を両手で押さえこむ。髪型を気にすることが出来る程度には余裕ができた。ならば、大丈夫。そう念じて勢いづけ、部屋の扉を一気に開けた。
夜よりも昼間の方が、この建物の広さが分かりやすかった。壁一面に広がる窓と、まっすぐに長く延びる廊下と、それに沿って並ぶいくつかの扉。故郷で通った初等学校を思い出させる構造だった。新しい建物ではないようで、壁の隅などに老朽化の兆しが見える。だがよく掃除が行き届いているようで、居心地の悪さは感じない。
廊下の端に、昇りと下りの階段があった。リリィはスティアの指示を思い出しながら一階に降りる。同じような構造の廊下が伸びていたが、二階には何個か客室が並んでいた場所に、一階はひとつきりの大部屋があるようだった。開きっぱなしの扉から食べ物の匂いがしていた。
中を覗く。リリィの学校の食堂ほどに広くはないとはいえ、テーブルと椅子を六セット設えられるだけの広間になっている。奥は厨房のカウンターにつながっていた。ここがスティアの言っていた食堂だろう。
入り口に近い場所で、白衣を着た見知らぬ男と、同じような格好をした女が、食事をしていた。
彼らはリリィに気づくと、ああ、と納得をしたような顔をして、友好的な笑顔を浮かべた。そのまま、部屋の奥を指し示す。
スティアとレイバが、そこにいた。スープにひたしたパンを頬張るレイバの前で、何も食べていないスティアが肘をついている。二人は会話をしていたようだが、リリィの接近に気づくと、スティアは場所を示すように軽く手を上げた。
食べ物を口にしながら振り返ったレイバは、リリィの目がやや腫れているのを見て、驚いたようだった。スティアの方は何も言わず、表情もまったく変えなかった。
「おそよう」
パンを飲み込んだレイバが、いつもの気楽な口調でそう言った。
リリィは答えず、部屋からずっと右手に握っていたものを、レイバらがかけているテーブルの上に置いた。離した手の下から現れたものは、銀色のプレート。
ガイル・ブルーノの名が刻まれた、ガードライセンス。
「聞きたいことが、たくさんあるの」
リリィは強く言い放った。
「何が起きたのか、ここがどこなのか、これはなんなのか、父さんは、なんだったのか……全部教えて」
「飯も食わずに、せっかちだな。って当たり前か」
レイバはパンをもしゃもしゃと頬張りながら、気楽に言った。
「俺、食事中だから、説明役はスティアにパスね。こっちに座って」
レイバの隣の席につくと、彼の正面にいるスティアと目が合った。彼もまた、なにげない口調で、同じ事を聞いてきた。
「お腹空いてるなら、無理せず食べながらどうぞ。もう二時だし」
「……食べる気になれないよ。あなただって、何も食べてないじゃない」
「俺は普通食が摂れないって、言わなかったっけ」
「全部嘘だったんじゃないの?」
「演技で飯は抜けないよ」
スティアは笑った。
「ま、お望みなら急ぎましょうか。質疑応答含めて、夕飯には間に合うように頑張るよ」
「どう短縮しても、長い話になりそうだけどなあ」
レイバが口をもごもご言わせながら口を挟む。その不作法に苛立って、リリィは思わず、隣に座る彼を肘で突いた。「痛って!」
「とりあえず現状の説明かな。ここはレイバの職場だよ」
レイバの悲鳴を無視したスティアは、食堂全体を指し示すように、腕を広げてみせた。
「住所は〈教区〉の内部。〈居住区〉からは、遺跡の影になって見えない位置にある」
「え?」
「十何年か前に、だだっぴろい遺跡街を解析する上で、拠点として作られた建物らしいよ。今はレイバたち研究者の仕事場になってるけど」
「ちょ、ちょっと待って」
すらすらと続く説明を、必死で遮った。
「〈教区〉って……」
「そう」
「だって、立ち入り禁止区域でしょう⁉︎ 文化財保護と解析研究のために政府が管理してて、現在の介入権はカンパニーとかテンプルの一部の研究者だけって」
「その通り」
スティアは悠然と肯定した。
「だからこそ、カンパニーの技師や学者、テンプルの権力者はここに入る権利を正式に持ってるってことだよ」
「どういう意味?」
「レイバはテンプルに所属する技術者であり、同時にやっかいごと専門の闇医者なんだ。この施設に出入りして、この施設で仕事をする正式な権利を持っている」
理解ができず、思わずレイバの方を見た。
スープを飲み込んだレイバは、あっさりと頷いてみせた。
「ほら、俺言ってたっしょ。仕事仲間で寄り集まって、仕事場を借りていろいろ作ってるって」
「き、聞いてたけど……」
「依頼主とかの説明を省いたのは悪かったよ。でも、お前に言ってもワケ分からないだろうし、言う必要もないかなって思って。守秘義務とかそういう、面倒なこともあるしね」
悪びれる様子もなく、レイバは快活にそう言った。
「でもちょっと待ってよ。そもそも、テンプルって、あのテンプルなの?」
反復するように問いかけながら、リリィは思わず〈テンプル〉の定義を胸の内で確認してしまった。
テンプルとは森人信仰を掲げる、大陸でもっともポピュラーな信仰である。
デカルト・シティの面積の三分の一を占める〈教区〉は、森人の残した都市の遺跡である。それを研究するために考古学者がキャンプを築いたのが、この街の起源であると言われている。
森人の残した魔法文明は、レアリス・カンパニーが開発した通信技術や〈シェルター〉、〈ストーン〉などを中心に汎用化が進められており、今や生活に欠かせないものになっているが、そういった文明的な側面ではなく、思想的な側面で森人を崇める団体もまた存在した。それが〈テンプル〉である。森を使役していた森人を奉ることで、魔法を崇敬し、自然を崇敬する、そんな思想を掲げていたはずだ。
デカルトは技術者の街であり、遺跡の街である。信仰を定めた法令はなく、住民の自由意志が尊重されている。だからこの街では、遺跡の近くにいることをありがたがる敬虔な森人信者と、信仰にはまったく興味を示さず技術にのみ依存する無神論者とが、ほぼ同程度の割合で存在し、共存している。これはこの街の治安の良さを計る材料になる程度には、珍しいことだ。デカルトと位置を近くする、リリィの出身地であるスピノザも同じようなものだった。
リリィ自身は無神論者だった。だから、テンプルの権威については話に聞く以上の実感がない。
とはいえ、〈教区〉の入り口近くに場所を構える寺院が、礼拝堂として民間に解放されていることは知っているし、週の明けの講師会ではそれなりに賑わっていることも知っている。存在を当然のものとして認知できる程度には、テンプルの存在は生活にとけ込んでいる。カンパニーが技術で人を救っているのに対し、テンプルは思想で人を救っているというのは、ごく一般的な見解だ。
つまりは、宗教法人。
リリィは思わずまじまじとレイバを見てしまった。作業着に身を包み、健康サンダルを履いた、髪色の不自然な、ピアスだらけの叔父を。
「レイバ、前、信仰は持たないって言ってたじゃない。宗教とか嫌いだからって」
「言ったけど、どっちかってーとお前をこっちに近づけないための防衛だったかな。自分の仕事のこと知られるのって、恥ずいじゃん」
叔父はあっさりとそう言い放って、残りのパンをスープにひたした。
「それに、俺としては教義とかそういうのはどうでもいいんだよね。労働条件がよかったってだけで」
「レイバは教師として働いているわけじゃない。あくまで裏方仕事だからね。あんたがイメージする〈テンプル〉とは繋がらないような仕事しかしてないよ」
スティアが補足した。
「寺院に幻想を抱いているのなら、ここから先の話は聞かない方がいいかもね」
「別に、そんなことはないけど……」
言いながら、その言葉とは裏腹に、リリィは居心地の悪さを感じ始めていた。先日にレアリス・カンパニーの汚い部分を見せつけられてすぐに、助けてくれたテンプルの汚い部分も話されるのかと思うと、複雑ではある。
世の中のすべてがきれいごとで回っていると思っていたわけではない。そういうつもりだった。が――やはり、つもりはつもりにすぎないということか。
嘘だらけの世界には、薄っぺらな建前がばらまかれている。
きっとその建前こそが、人が望む平和を空中に築いている大事な一線なのだろう。そんな風に思った。
「とにかく、レイバは正式にテンプルの一員。で、ここはテンプルの所有する研究施設。白衣の人とか、作業着の人がやたら多いのはそういうこと。みんなみんな裏方で、寺院の教義には何も興味がない変わり者ばっかりだ。構えなくても平気だよ」
「昨日の女の人も?」
「ケイトはまた別枠だけど、似たようなもん。彼女は技術者じゃなくて、雑用を一手に引き受けてる。交通の管理とかね」
スティアは言った。
「この施設で行われている研究は、一般には極秘。建前としてテンプルは、研究のためではなく、教義上の必要性を訴えて遺跡の管理権限を求めたんだ。高揚する技術者への適度な抑止剤として働くことを期待して、国はそれを認めた。……だけどその実、一定範囲を聖域として保護しながら、影ながら少数の研究班を奥地に派遣して、政府から隠れた研究に勤しんでる。だからこの施設は公には認められない後ろめたい場所なのさ。知らなきゃたどり着けないややこしい場所にある理由はそれなんだ」
「地下を通って来たみたいだけど……」
「あんたがさらわれた入り口からでも、繋がってはいるんだけどね。でもあのあたりはカンパニー側の領地だから勝手に横切ることはできない。〈教区〉において、カンパニーとテンプルの縄張り協定は厳密なんだ」
「テンプルとカンパニーは、表面上は提携してるけど、ぶっちゃけるなら冷戦状態だからな。お手手つないで仲良く仕事はできないから、ハッキリ線が引かれてる」
レイバが横から説明を加えた。
「カンパニー側の方が出入りする人間も多いから、利便性の高い入り口近くはだいたいあちらさんのものだ。でも、俺らは隠れることが目的の一つでもあるわけだから、そこは都合が良かった。どうせならややこしいものをもっとややこしくして、秘密基地にしちまおうぜって話で、こんなことになったんだよ。遺跡に残されていた地下通路をフル活用して、入場を難しくしてる」
「俺とかレイバも、行って帰ってくる道くらいは覚えてるけど、迷ったら出られる自信はない。ケイトはすごいよ。このあたりの道を完璧に把握してる」
スティアが、厨房の方を目で指し示した。先ほどの言を思い出すに、今のケイトは台所仕事でもしているのだろうか。ここからでは姿は見えなかったが。
あとできちんと礼を言って、食事をいただこう。そんなことを考えつつ、リリィは質問を重ねた。
「スティアは、どういう立場でここにいるの?」
「被験体。レイバの監督下にある」
簡潔に言って、彼は苦笑した。
「俺とロールはここに所属してるわけじゃないから半分くらいゲストだね。ガイルさんのことを話すなら、そのへんの説明から始めないといけないけど」
「そういえば、ロールちゃんは? どこかに出かけたの」
「ちょっと外にね。気を遣ったんじゃないかな。出来ればロールのいない所で、あんたに説明を終えたかったし」
「どうして? ロールちゃんは関係ないの?」
「これ以上なく関係者だよ。だからこそ言いづらいこともある」
意味がわからなかったが、問いただすより早くスティアは話を変えた。
「あんたが知りたいのは、きっとガイルさんのことだろうけど、それを話す前にちょっと質問してもいいかな。あんたが、どれくらいの知識を持ってるかで、こっちの説明の仕方を変えなきゃいけないから」
「……知識?」
「たいしたことじゃないよ。……〈グランドクロス〉と〈セカンド・グランドクロス〉が、いつに起きた、どういう事件だかは知ってるよね」
予想外の問いに、思わずぱちくりと瞬きをしてしまう。知らないわけがない。一般常識だ。
「〈グランド〉が八年前。〈セカンド〉が三年前。原因も正体も分からないエネルギー体が大爆発を起こしたことにともなう、震災被害だって言われてる。原因が分からない以上、双方の因果関係も不明だけど、無関係とするにはあまりに似た現象だから、セットで名前がつけられている……これくらいでいい?」
「その口振りだと、教科書にもそれくらいは載ってるんだね。オッケー、次。〈グランド〉が発生した場所はどこ?」
「ノースグラウンドの、ハウアー・タウン」
「正解。〈グランド〉と〈セカンド〉がもたらしたものは、突然の大爆発と、それに伴った震災だけど、それらの物理的被害のほかに、大陸全体に強い影響を及ぼした。それはなに?」
「獣の狂暴化と、森の活性化。森を縄張りにする〈ビースト〉の発生。ハウアー・タウンは、その影響による機能麻痺で、街としてのとどめを刺されたって言われてる」
「正解。じゃ、爆発もしくは震災に分類される〈グランド〉と〈セカンド〉が、獣を狂暴化させるに至った、直接のつながりを説明できる?」
「まだ解明されていないって習った。ただ……爆発の影響で、大陸じゅうのアニマが乱れて、動物の体に影響を与えたって説が一般的だと思ってるけど」
「オッケー、優等生だね。じゃ、ちょっと高度な質問」
スティアはにやりと、挑発的に笑った。
「実は、獣が狂暴化する兆候は〈グランドクロス〉以前にも動物学者とか自然科学者の間では囁かれていた。明るみに出たきっかけが〈グランド〉だったってだけで、もっと前から、ちょっとずつ動物には変化が出ていたんだよ。その兆候が初めて見られたのは、何年前だか知ってる?」
「えっと、ちょっと待って。習った。……だいたい、十四、五年前じゃなかったっけ」
「ほぼ正解。それくらい知ってれば、たいしたもんだ」
問答を打ち切って、スティアは椅子の背もたれに体重を預けた。
「あんたの知識は、一般常識の範囲では完璧。でも、俺はその曖昧な認識に、もっと具体的な答えをあげられる」
「え?」
「獣の狂暴化が始まったのは、十四年前の九月二十七日」
断言した。
「〈グランド〉が発生した場所は、ハウアー・タウン。爆心地は中心街のユゴー地区、三番地の二区の十九号、二階の西部屋。獣が狂暴化した原因は、アニマの氾濫。強力無比なアニマの集合体が現出したことで、連鎖反応が起きて、はしゃいでしまっている」
スティアは、椅子に座り直して、腕を組んだ。
「うちの妹の誕生日は、十四年前の九月二十七日」
顔をあげて、まっすぐにこちらの顔を見る。
「俺と妹の出身地は、ノースグラウンドの、ハウアー・タウン」
リリィには、何一つ言葉を発することができなかった。
「ついでに言えば、住所は中心街のユゴー地区、三番地の二区の十九号」
きっぱりとしたスティアの言葉が、頭の中で意味を持つまで時間がかかった。
「妹の左目に、無限のアニマの集合体である、真っ黒な眼球が覚醒したのは三年前。〈セカンド・グランドクロス〉の日」
スティアは、リリィから目を反らさなかった。
「ガイルさんが亡くなったのも、〈セカンド・グランドクロス〉の日」
聞き逃せない情報を、突きつけられたが。
だが、最後の一声に限らず、すべての言葉がリリィを縛りつけるようだった。父のことを聞くはずだった。父のことを聞ければよかった。だけどスティアの今の言葉を統合すれば、その意味は。
「学校を脱出する時、ロールの左目を見たでしょ」
リリィは固りかけた首で、なんとか頷く。スティアは続けた。
「凶悪な動物の背中に乗っても、あいつは絶対に攻撃をされないんだ。同じように、ビーストのすべても、あいつを恐れて攻撃ができない」
「……え?」
「この大陸で獣が狂暴化をたどりはじめたのは、俺の妹が生まれた日だ」
強い口調で、彼は言った。
「ロール・アリビートはすべてのビーストの王であり、生まれついての神なんだ。――それがすべての始まりさ」
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〈教区〉を歩くことには慣れていた。殺風景な遺跡街。白くて、四角くて、何もない。いつもと変わらない。
ロールは華奢な両足で、てくてく散歩をしていた。ここ二年ほど、時間を持て余すたびに行う日課だった。行くことが出来る場所は限られているため、視界に広がるのは今日も代わり映えのない景色だった。最初はすぐに飽きた。やがてそれを通り越した。今ではこの空気を吸わなければ、落ち着かなくなっていた。
昨日とは異なり、今日は風があった。春風のようなやわらかさで、髪や服をくすぐり、流れていく。
肌に触れるその暖かさが、心地よかった。
左目を覆う眼帯を、外したくなった。
だけど、それは、しなかった。




