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門の向こうにそびえる遺跡街を眼前にして、ようやくリリィは呼吸を整えた。通信機でしか見ていないメッセージ通りに現実が動いていることは、夢で見た光景が目の前に現れたような違和感がある。
〈教区〉の内部に立ち入る権利を持つのは、政府もしくはカンパニーの息がかかった研究者や調査員が多い。森人崇拝とその文明の保存を教義に掲げるテンプルも、政府の認可の元、部分的に管理権限を与えられている。つまりは国から正式な許可を得ない限りは侵入が許されず、街の四分の一近くの面積を占めているにも関わらず、その実態を多くの人間に知られていない場所なのだ。
父がそれを、自分のために開けたのだ。そう考えると緊張した。
通信機を服のポケットに無理やり押し込んでから、足の裏に力を入れて、一歩を踏み出した。せめてもの礼儀として、胸を張って堂々と入ることを意識した。
敷地内に足を踏み入れると、ここが街の中であるという意識が希薄になる。
一面の廃墟だった。かつては都市だったのだろうか。風化した建造物はそのほとんどが石で作られており、全体的に白を基調としている。現代文明とは明らかに形を異としたその町並みは、まるで神殿が連なっているようだ。細かな彫刻を凝らした白い柱が、きれいな形で残っている。
表面が苔や蔦の浸食を受けているのは、作り上げられてから今日までに流れた月日を考えれば当然だが、建物そのものは、想像していたよりもずっとしっかりと残っていた。レイバの家の方がよほど原型を失っている。人間が保存に尽力したのか、〈森人〉の建築技術が進んでいたのかはよくわからない。両方かもしれない。
空気がひんやりとしている。人口密度ばかりが高まる〈居住区〉とはまったく違う。植物と動物が活発に活動するシェルターの外とも違う。ここには生物の存在が感じられなかった。音も、人影もない。
歴史の教科書から、切り取ってきた挿絵のようだ。
(この遺跡を解体したジャンクパーツを解析して、機械の開発に勤しんでるって、レイバは言ってたけど……)
機械文明のイメージを喚起させるような、近代的な要素はどこにも見あたらなかった。古代より残る石の遺跡であり、それ以上でもそれ以下でもないように見える。
(本当に、私の知ってる形じゃないのかな)
科学の原型は魔法だという。ならば科学のもととなるパーツとて、形として残っているわけではないのかもしれない。……入り口に近いこんな場所では、価値あるものが全て回収されてしまったのかもしれないが。
奥を見やるが、白い石を敷き詰めて舗装された道がまっすぐに伸びている。ずっと先には、直角に交わる同種の道路がいくつかあるようだ。上空からみたら、チェス盤のようになっているのだろうか。
(父さんは……)
人の姿はどこにもない。
リリィは不安になって、人影を探して歩きだした。最初の曲がり角に着くまでは、出入り口からの道は一直線である。深入りしなけば、入れ違いはないだろう。
道路の両隅には、排水溝と思われる溝があった。
先住民たちの生活感を感じて、そのことに驚いている自分に気づいた。魔法使いたちが、雨が降っても水が溜まらないよう、リリィたち人間と同じような仕組みを建築しているとは想像しなかった。なんとなく、呪文の一声で雨を止ませるイメージがあったのだが。確かにそんなことをしても自然の循環が狂うだけだ。
馬鹿げたことを思い、これだけ身近に寄り添っていた技術に対して、本当に無知であることを自覚した。〈ストーン〉だって〈シェルター〉だって、自分は結局、どういう仕組みで動いているかは知らないのだ。知ろうとすることもなかった。それは学者の仕事だ。知らなくても生きていける。
だからこそ、父は外界を歩きまわり、今は遺跡に関わる仕事をしているのだろうか。知らなくてもいいようなことばかりを掘り起こして、学者とは異なる形で、無知を知に変えることを楽しんだのだろうか。
会って、一通りの話をしたら、そのあたりのことを聞いてみよう。レイバとも話が合うだろう。動かぬ証拠として、父本人の姿を連れ帰った時の叔父のリアクションも、きっと見物だ。
カツン。
人気のなかった背後から、わざと立てたような足音が聞こえた。
振り返る。
誰もいなかったと思っていた、リリィが通り過ぎたはずの道の真ん中に、一人の男が姿を現していた。
ごく普通のスーツ。若干、姿勢悪く曲がった背筋。赤い髪。
――それらの特徴を、認めた瞬間。
違和感が、すべての感情を縛りつけた。
「やあ、リリィ」
歩み寄ってきた男が、声をあげるのが聞こえた。
だが、顔が目に入らない。いや――頭に、入らない。
自分は、決定的な間違いを犯した。
理由や根拠を飛ばして、真っ先に、確信する。
普通の男だった。長旅でくたびれた服や、実用性だけを極めた装備や、がっしりとした頑健な肉体や、伸びっぱなしの無精ひげ――そういったものが、なにもない。
会社員のようなスーツ。武術の心得など見受けられないふらりとした足取り。高くも安くもなさそうな革靴で石畳を踏んで、近づいてくる。
今の父は、トレジャー・ハンターでも、〈ハンター〉でもない。それは分かっていた。
だけど。
声が出ない。
ドク、ドク、と。自分の心臓の音が、身体の内側から重く響く。
赤毛の男は、親しげに――だが粘着質に、にやにやと笑っていた。その肌には張りがあり、皺や乾燥は見受けられなかった。髪型は街でよく見る流行りのカットで、そのことに何の違和感もなかった。
若かった。
せいぜい、二十代の半ばにしか見えなかった。
レイバよりは絶対に年下だ。――そう確信した瞬間に、リリィは動いていた。
棒立ちになっていた体勢から、身体を開く。足を広げて重心を下げ、腿に手を当てるが、銃のホルスターは身につけていなかった。――当たり前だ。ここは街の中。学校でも、外でもない。武器を構える意味はない。
なのに、総毛立つような警戒が全身から抜けなかった。息が詰まる。呼吸のリズムを乱すことが、なによりも愚かだとは分かっていても。
リリィの動作を見て、男は一瞬だけきょとんとした後、すぐに笑い声を出した。
「ひどいなぁ」
くつくつと、可笑しくてたまらないとでも言うように、肩が揺れる。嫌悪感を覚えるほどの、甘い声音。
「そんなにびっくりしなくてもいいのに。ちょっと驚かしてみただけじゃないか」
「あなた、誰……?」
声がかすれているのを自覚しながら、なんとかそれだけを口にする。
赤毛の男は微笑んだ。
「照れなくてもいいのに。ずっとメールをしていたじゃない」
「……?」
「〈教区〉を待ち合わせ場所に指定したのは、俺なのになぁ」
自分の夢の中で出会った、自分しか知らない怪物にでも、殴られたような心地がした。
冷静になるべきだと、どこかで理解しながら、頭が回らなかった。目の前の男の挙動のひとつひとつに、ぞっとした。自覚するべきではなかった。だが、足下から沸き上がるような鋭い寒気は否定しようもなかった。
「ガイルだよ」
男は、猫撫で声で、父の名を口にした。
リリィの沈黙を見つめて、満足げに笑む。
「俺が、ガイル・ブルーノさ」
「なに言って……」
「お望みなら、これまでお前が俺に送ってくれたメールの中身を、すべて言えるよ。試験、終わったんだよな」
口の中が乾いてゆく。ただ、目を見張る。
「これまでずっと、真面目に頑張ってきたもんなぁ。きっといい成績を取れるよ」
「…………」
「どうしてそんな目で見るのさ」
愛情深さすら覗かせるやわらかな眼差しで、まっすぐに見つめられた。
「お前とずっとメールをしていたのは、間違いなく俺なんだぜ」
「テッド」
別の声が聞こえたのは、背後から。つまりは〈教区〉の奥からだった。
振り返ると、またも見知らぬ人間が近づいてきていた。金髪の若い男だ。
すらりと四肢が長く、モデルのように見栄えのする体格をしていた。南大陸では希有な、華やかな金髪。まるで顔を隠すことが目的であるように、細部の意匠に凝った、大仰なサングラスをかけていた。
薄手のトレンチコートの色は、派手な白。一目で高級品と分かるシャツの襟元で、首にかけられたネックレスが、夕刻の西日を反射した。――ダイヤだ。ダイヤモンドの指輪を、鎖に通してネックレスにしているらしい。
金回りが良いことは一目で分かった。今まで関わったことのない種類の人間だとも。こんな場所で出会わなければ、芸能人だと思いこんだに違いなかった。
サングラスの男が、赤毛の男に向けてまっすぐに告げた。
「出てくるなと言ったはずだ」
赤毛の男は、リリィに対する甘い表情を一掃させた。機嫌悪く鼻を鳴らす。
「納得できねえな。リリィの事を一番よく知っているのは俺だ」
「それが非常識だと言っているんだ。まったく……」
サングラスの男は口元にかすかな嫌悪をにじませたが、ため息をこらえるような沈黙を置いて、再びリリィに向けて顔をあげた。
「連れが失礼をしました。リリィ・ブルーノさんですね」
「……なんなの」
まともな問答も出来ないまま、リリィの声は震えた。男の口調は、落ち着いて丁寧だった。
「驚かせてしまって、本当に申し訳ありません。こちらとしても、このような方法を取るのは本意ではなかった。……失礼。お父上に関する重大なお話があります。共に来ていただけますか」
言葉のすべてが、リリィの理解を越えた。
「機密情報に触れるため、正当な呼び出し方ができなかったことは謝罪します。ですが、あなたにとって悪い話にするつもりはない。我々は」
「……なんなのって、聞いてるの!」
震える声で叫んだ。恐怖は手の先にまで伝染していた。わけが分からなかった。だって、おかしい。
「私は父さんに呼ばれてここに来たのに、父さんは――なんで父さんのアドレスで、私にメールが」
「順を追って説明します」
サングラスの男はあくまで柔らかい口調を保ったが、声には焦りが見受けられた。
「ですが、ここはまずい。別の場所にご案内いたします。だから」
「来ないで!」
叫んで、リリィはきびすを返した。〈教区〉の出入り口からは、まだそう離れていない。
いけすかない赤毛の男の横をすり抜けて、石造りの通路を全力で走る。助けを呼ぼうと、がむしゃらに声を張りあげようとした。その時。
全速力で駆けていた所を、横から突き飛ばされた。視界が回転し、石の床に激突する。
鈍痛にうめきながら半身を起こすが、髪の毛が排水溝に引っかかって、起きあがるのに時間がかかった。
なんとか顔をあげて、視線をさまよわせる。ふらつく視界に犯人を見い出した瞬間、リリィは今までで一番――待ちわびていたメールを見た瞬間や、わけのわからない男たちの登場なんかを、すべて忘れるほど――驚いた。完全無比に、思考が停止した。
知っている男だった。間違いようもないほど、ほとんど毎日を共に過ごしていた。
「ジャン……?」
声になっていなかったかもしれない。だが彼は、唇の動きだけで、呼びかけられたことを理解したようだった。リリィをとっさに突き飛ばしたという体勢のまま、倒れたリリィの方を呆然と眺め、自分自身の行動に驚くように、立ち尽くし……呼吸をしながら、目をそらして自分の両手を見下ろした。見たことのない表情だった。軽薄な調子はなりをひそめ、なにか、とてつもない秘密がばれてしまったような……気まずさと後ろめたさと、諦めを宿した目をしていた。
足音が聞こえた。リリィと、出口を結ぶ直線上にもうひとり男が現れた。俯向くそちらの顔もまた、知っていた。
リック……
「仕方がない」
沈黙は、自分で思っていたよりも長かったらしい。
サングラスの男の声が、すぐ後ろで聞こえた。
「失礼します」
肩を掴まれた。顔を覗き込まれる。そしてリリィは言葉を失った。
(え……?)
男は、顔を覆っていたサングラスを外していた。そして間近でかち合うその瞳は。
(あ……)
リリィの視界と、頭と、心の中までも、すべてが一瞬で白んだ。
すべての色を飲み込むような白光に、意識のすべてがさらわれて、全身の力が抜けた。