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第二話 僕のもう一つの顔

水族館や、魚が好きな雨宮優里。彼には、魚と意思疎通が図れるという能力があった。そしてもう一つ。悪夢を祓えるということ。今日も今日とて眠りにつき、静かに夢のなかへ落ちていく――。

 静まり返る夜。星々がみんなの眠りをじっと見つめていた。


 優里の意識も、深く深く暗い夜空に溶けていくように沈んでいく。海の底へ沈んでいくように。気がつけば、彼はまた夢の中にいた。


 冷たい。いや、ひんやりしていて心地がいい。

 目を開けると、そこには広大な海が広がっていた。じゃりじゃりとした海底に、優里は“生まれ変わった姿”で立っている。


 現実世界では黒髪黒目の、どこにでもいる青年。

 だが今の彼は違う。


 桃色の髪がゆらりとなびき、胸元では真珠のネックレスがきらりと光る。首には黒いチョーカー。足元はサンダル。数秒後、どこからともなく魚たちが集まってきた。雨宮水族館にいた魚たちだ。

 この魚たちと意思疎通するために必要なのが、そのチョーカー。そういう設定にしたのは、紛れもなく優里本人である。


 夢の中なのだから、自由に夢を見てもいい。

 そして彼は、その精度が一般人とは比べものにならないほど高い。

 手に取るように世界を作り変えられる。


 これこそが、彼の二つ目の能力の本質。夢の中で自由に生活し、夢の内容を覚えていられる力。


 魚たちに見守られながら海底を進む優里。

 ふと、急に泡が押し寄せてきた。優里には見覚えがあるらしい。無表情の口元に、かすかな笑みが灯る。


 泡が消え、海が再び静けさを取り戻した頃。

 遠方から黒い影が押し寄せてくるのが見えた。


 優里は手のひらを天に向け、虚空を掴む。

 光の粒子がみるみる集まり、彼の手を包み込む。


 そして――


 ビュン、と音を立てて、金色に輝くトライデントが手の中に収まった。

 なんとも中二病チックな登場だが、優里は慣れた手つきで構え、影を見据える。


「さぁ、掃除の時間だ。」


 その言葉を合図に、魚たちも優里自身も黒い影へと前進した。


 トライデントを剣のように振りかぶり、横に薙ぎ、時には投擲して遠くの影を倒す。

 魚の形を模した影は数が多く、次々と押し寄せてくる。それでも優里たちは後退しない。


 影は霧のように薄れ、勢いを失っていく。

 まるで洗剤で分解されていく汚れのように。


 すべてが消え去る頃、あたりには静けさとは違う、あたたかな空気が流れていた。

 優里はほっとしたように胸をなでおろす。


「今日は怪我しなかった。よかった。みんなも無事かな?」


 周囲を見渡し、一匹一匹傷がないか確認する。問題はなかったらしく、優里は小さく微笑み、近くの魚にそっと触れた。


「あと二カ所だっけ。君の予想なら。」


 青い瞳の先には、彼の飼っている亀が、大きなウミガメとなって泳いでいる。

 優里はその甲羅にそっと乗り、すいすいと移動していった。

 夢の中だからやりたい放題に見えるが、実際には“無意識に仕事をしている”だけだ。

 優里自身はまだ気づいていない。


 その夜は、亀の予想通り二カ所に影の魚が漂っていたらしい。

 朝になったらご褒美をあげようと、優里はひそかに決意した。亀も満足そうだ。


 やがて、朝を迎えるかのように光の線が差し込んでくる。

 小さく微笑む優里は、水族館でひたすらモップを動かしているとは思えないほど、年相応の姿を見せていた。

 それでも現実でこの表情を頻繁に見せることはない。理由はきっと、心の奥底に隠している。


 午前七時。

 今日は平日で学校がある。学校が終わればバイトだ。


 優里はアラームなしにゆっくり意識を浮上させると、ふと指先に痛みが走った。


 見ると、赤い線がひとつ刻まれている。

 切り口からぷっくりと血が垂れ、止まる気配がない。


 なぜ怪我をしているのか気になったが、優里は考えるのをやめた。

 気にしたところで変わらない、と。

 雑に絆創膏を貼り、立ち上がる。軽く軽食を食べ、髪を整える。


 亀に大好物のレタスをあげ、カバンを手に取る。

 学校は徒歩十分。遅刻の心配はない。忘れ物をしても隣の教室に取りに行けるほど近い。


「いってきます。」


 亀に小さく挨拶し、優里は出発した。たった十分の登校へ。


 学校は優里にとってモノクロのように見える。

 いつも通り授業を受け、掃除をし、昼食を食べ、放課後を迎える。


 友人はあまりいない。

 頭が特別いいわけでも悪いわけでもない、平凡な生徒。

 教師ともほとんど話さない。

 言われたことをやるだけのロボットのような人間。


 だからこそ、夢の中では生き生きと生きられているのかもしれない。それでも学校には必ず行くし、バイトのために電車を乗り継ぐ。


 それが優里という青年だった。今日までは。


 学校が終わって、バイト先へ向かうため電車に乗っていた。ふと、視線が上に行く。よくある広告だと彼は思ったのかもしれない。


 ただ、一つだけ妙な広告があったのだ。


 ――あなたの悪夢祓います。


 優里の黒い瞳は、その文字から磁石に惹かれる砂鉄のように離れられなかった。


「悪夢を祓う……。」


 無意識に言葉に出ていたらしい。近くにいたサラリーマンが不信がりながらこちらを見ていた。


「すみません……。」


 謝って顔を上げると、やっぱりあの広告に優里は夢中になっていた。


 悪夢を祓うとはいったい?


 その考えが頭にあふれていた。自分は夢の中で好き勝手遊んでいるにすぎないと思っている。だが実際は、あれこそが広告の内容なのだが誰にも言われないのなら、気づくことすらかなわないらしい。


 指の怪我よりも、あの広告のことが頭から離れられない。何となく既視感がある。そう思いながら、水族館へと足を運びだした。

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