後
婚約することでしか家から出ることができなかった。彼女が提案した計画では婚約期間をなるべく長く引き伸ばすことで対策を立てて独り立ちする形だった。
頼ってくれたことがうれしかったから、先のことはまた後で考えればいいと思っていた。
まず会えたこと自体が奇跡のように思えて顔も見たことのない神に感謝したいくらいだった。
すぐにメロディはこちらの家で一緒に暮らし始めた。
父や家令のベルンから向けられる生暖かい目も気にならないくらいに僕は浮かれていた。父の仕事を引き継ぐことに対してもメロディといるために必要なら仕方ないと受け入れられるようになっていた。
「助かったよ。あの家はとても窮屈でね。母は私を見ることはないのに、周りは私に女であることを強要する。刺繍もダンスもお菓子作りも全部下手なままだ。そんなことをするくらいなら本を読み勉強して何かの為に役立てたい。そう思うのが私であるのに、母に仕える彼女達にはわからないらしい」
「君が着たいなら男物の服だって僕は構わないと思うよ」
「そうかい?」
「それに言葉遣いを無理に直そうとする必要だってない。君が君らしく生きていけるのならそれが一番いいんだ」
「そうか」
「今更謝っても仕方ないんだろうけど……ごめんなさい。僕が軽率に言葉にしたせいで僕は君から全てを奪ってしまったんだから」
メロディは頭を振った。
「いや、それでよかったんだ。きっと。ブライアンが真実の目を手に入れたことは公表はされなかったが、必要な場所には届いていただろう。だから私の罪は君の功績で相殺になった。本当なら嫡男として届けを出していた時点で、私の未来はなかった。でも母が平常な精神状態になかったことは君が証明してくれただろう?生まれたばかりの私には自分を偽ることなどできなかったと判断されたんだ」
「メロディのためにできることがあってよかったよ」
「ありがとう。ブライアンには助けられてばかりだな」
そんなことはない。
僕にできることは些細なことばかりで、僕以外でもできるようなことでしかない。
「女であるというだけで憧れた仕事にも就けないのがかなしいね。私にとっては寄宿学校にいた時間が人生で一番輝かしい時間だったよ」
「そんなこと言わないでよ。今からだって楽しい時間はいくらだって作れるだろうに」
「ブライアン、君の妻になってか?私は正直妻となるにはふさわしくないよ」
「そんなことはない」
「助けてくれたことには感謝してる。でも私は君の重荷になる気はないんだ」
「重荷だなんて思うものか。それにふさわしいかどうかは僕が決めるよ。僕は君だから望むんだ。頼まれたからだけじゃない」
「そうなのか?てっきり同情と家のための婚約かと思っていたが」
「違う。僕が君を好きだからだよ。これからの人生をずっと共に歩みたいと思ったから」
メロディは目線を落とし、友としてでもうれしいよと呟く。友だとは思っているがそれ以上の存在であることは言葉で伝えても軽くなる気がしたから、僕は口を挟むのをやめた。
父から商会の手伝いをしていたからと弟の婚約者を紹介されたのはこの頃のことだ。
寄宿学校入学前に数回会ったことがある弟の婚約者、ミレニアは可憐な誰もが手を差し伸べたくなるような雰囲気を持った少女だった。
実際は見た目と正反対の性格をしていて驚いた。驚いたがそれだけだ。僕にとってはメロディといる時間を作るために仕事をしていて、仕事に関わるからミレニアとの時間がある。ただそれだけなのに、周囲はどうも深読みしたらしい。僕の婚約者はメロディなのに、商会の仕事をするのはミレニアで、だからきっとミレニアが妻となるのだというのが共通認識になってしまっていた。
僕が気づいた時にはすでにベルン以外は皆思い込んでいて、僕がどれだけ思いのたけをぶちまけても理解されることはなかった。
メロディには誤解されたくなくて毎日商会の仕事について話していたけれど、反応はかんばしくなかった。
必死な毎日を過ごす中、僕は父の態度が軟化した本当の理由を知った。
僕が思っていた継母を愛したからだという大前提が覆された。父は継母に操られていたらしい。意識を操作されて思い込んでいたのだ。
継母は魔女の末裔であった。僕の思い込みではなく実際に魔女だったのだ。だからこそ多くの人間を操れた。
教えてくれたのはミレニアだ。父もベルンも教えてはくれなかった。継母のことだけではない、弟はいると思っていただけで実際はいなかったというのだから僕は驚いた。真実の目を得た後に一度でも家に帰ることができていたなら看破できたのではないかと思うと、どんなに不仲になっていても一度くらいは顔を見せに戻ればよかったと後悔した。
弟だという人形はすでに廃棄されたらしく、僕が見ることはないだろう。
継母は本来僕の婚約者になるはずだったミレニアを弟の婚約者に据えることで家での自身の地位を向上させようとしたのだろう。
ミレニア自身には耐性があったため、継母の暗示がさほど効かなかったらしい。
「とはいえ、お兄様に近づくことができませんでしたけど……」
悔しそうな表情は淑女がするようなものではなかったけれど、見ない間に大人びた彼女が見せる子供らしさに見えて微笑ましかった。
「お義父様がお兄様よりもあちらを優先させていたのは操られていたのもありますが、可愛がることでお兄様を危険にさらさないようにとの配慮ですわ」
「あの父がねえ……」
「偶然とはいえお兄様のためになることができてうれしいです。これできっと仲良く暮らすことができましてよ」
僕は口元を必死に上げる。ミレニアのように自然に笑えなくてかなしい。
「君がそう言ってくれるのはありがたいけど無理だよ。彼らが操られていたとしても僕にしたことは消えないんだ。全部があれのせいだったと言われても」
今の父は嫌いではない。しかし昔の父の行いを許せるかといったらまた別の問題だろう。
「すぐに仲良くしましょうという話ではありません。ただお義父様の気持ちを知っておいてほしかっただけですから」
「ああ、わかった。気にはとめておくよ」
部屋を出て行こうとしたミレニアは振り返った。
「お兄様、今は眼鏡をしてらっしゃいますのね。綺麗なお顔なのに隠すなんてもったいない」
「ははは。勿体ないのは眼鏡のほうじゃないかな。頂き物でね、僕が使うのがふさわしいとは思えないけれど。でもないと困るんだよ」
「あらそうでしたの」
「ああ」
今までの職場ではなくてはならないものだった真実の目は商会での仕事では知りすぎて困ることが多い。必要な時以外は見えなくなるように休職の際に上司に渡された。国宝級の品らしくあげるのではなく貸すんだからなと何度も念を押されてしまった。
単なる眼鏡ではなく、あらゆる効果をかき消すものらしい。僕の場合は真実の目で見えてしまうもろもろが見えなくなるのだ。
知りたくないことまで見えてしまうのはわかっていたのに、一番身近にいる人の本心を見るなんて気がひけるのだ。
メロディには婚約してすぐに説明した。なぜ女だとバレたのか不思議だったと理由がわかってすっきりしたと言っていた。
もし僕がバラすことなくそのままブライアンとの学生生活が続いていたら、今と同じように婚約できていたのだろうか。
できていたなら学生生活が充実していて今よりもっと楽しい生活になっていたかもしれないし、逆に友としての交流にとどまっていたかもしれない。
今自分が選んでいる道以外のことを考えても仕方ないのに、自分にこの目がなかったならよかったのにと思ってしまうのはきっと贅沢だろう。
少なくとも交渉で必要な時には活用しているのだし、あったほうが良い場合のほうが多い。
思考が同じ場所を行ったり来たりし始めたように感じる。
最近は特になりやすい。仕事で疲れているせいか、最近頭が上手く回らなくなってきた。
仕事の合間にも休みたいけれど、休んでしまってはいけないような気がしてわずかに休憩時間を作るにとどめている。
それでも終わらないのだから本格的に仕事に関わる人数を増やすか、仕事の量を調整するかしなくてはならないだろう。
「すまない。待ったかい?」
「ブライアン、そんな顔をしないで。忙しいのはわかっているから気にしていないよ」
メロディの言葉に甘えるわけにはいかないと思う。改善は難しいが。
僕は土産の袋を差し出した。
「本当は一緒に買いに行けたらよかったんだけどね」
「ありがとう。美味しそうだな。私も一緒に行けたら楽しかっただろうな。ああ、すまない。ミレニアと一緒とはいえブライアンは仕事だったってのに」
「いや」
「君はローランドとはきっと一緒に仕事してただろうな。……私が女でなければよかった」
「メロディ?」
「……女でなかったら。本当にローランドであったならこんなに悩むこともなかっただろうな。私ではブライアンの助けにはなれないのか?一緒に暮らしているはずなのにこれほどブライアンに会うことができなくなるとは思っていなかった」
「すまない、僕が仕事を上手く調整できないのが悪い」
「仕事、か。本当に?」
「何が言いたいんだ?」
「私が知らないはずはないと思わないか?わたしは君を信じている。でもミレニアが君と結婚するつもりなのは知っているんだよ」
「それは違う。元々弟の婚約者だっただけで、単に仕事を覚えているから手伝ってもらっているだけだ」
「ならどうして私にも手伝わせないんだ?私はそんなに頼りないか?会いたいと思っているのは声が聞きたいと思っているのは私だけなのか?教えてくれブライアン。私には一体何が足りない?」
「ち、違うんだ」
「違う?何が。私よりミレニアがいいから彼女を始終そばに置いているのだろう」
「僕が好きなのは君だよ、メロディ。それにミレニアは妹みたいなもので、君と比べる気もない」
「本当に?ああ、嫌だな。確かめる気なんてなかったんだ。私がブライアンを信じていられればすむことだと思っていた。でも周りから私が家に居座っているって、二人の邪魔をするなって言われ続けるとそうなのかもしれないと思い始めてしまって」
「誰が言っている?そんなはずないだろ……」
「なら君の口から皆に知らしめてくれ。ブライアンと結婚するのは私だと。何度ベルンさんが言っても皆すぐに忘れてしまうみたいなんだ」
確かに皆の様子がおかしい。僕の言葉も素通りしているように思える。
逃げるように背を向けてメロディは出て行ってしまった。
追いかけようとしたところでメイドに届いていた手紙や書類の束を渡されてしまい、機会を逃してしまった。
手紙の返事を書き連ねつつ先ほどのメロディの姿を思い出していると、静かにベルンが近寄ってきた。珍しく周囲を見回している。家令という立場は使用人の中で一番上だ。そんなベルンがとる行動にしては様子がおかしい。
ベルンは眉をひそめつつ、独り言に近い小さな声で話し始めた。
「坊ちゃん、メロディさんに仕事を覚えてもらったほうがいいでしょう。旦那様に申し上げても受け入れてもらえませんでしたが、早めにミレニアさんに辞めてもらったほうがいい。最初は大変かもしれませんがいっそすぐにでも」
「いやしかし……」
どこで見ていたのか、メロディに言われた後にまた同じことを諭されて僕の心は反発した。
「坊ちゃん?坊ちゃんまで操られましたか?その目は節穴ですか?かけていたほうが安心できるのかもしれませんが、外してあの女を見れば坊ちゃんにはすぐに真実が見えるはずです」
「見えていいことはないよ」
「何を馬鹿な。それこそ思い込みですよ。他の人と違ったってそれは坊ちゃんの個性です。真実の目を使うことに痛みを伴うわけでもないのに、傷つくのが怖いとは臆病にもほどがある」
「ベルンに何がわかるんだよ」
「わかりますよ。私も似た状態ですからね。旦那様があの女に操られていた時、坊ちゃんをお守りしたのはこの私ですから」
僕と同じだったらしい。ベルンも色の変わった目をしていると思っていたが。
「坊ちゃんほどではありませんが、うっすらと見ることはできるのです。ですので元奥様の力にも抵抗することができました」
継母と弟がいてもベルンだけが僕のことを考えてくれていた。他でもない彼の言うことなら信用できると思った。
つまり今のメロディにはベルン以外に家には味方がいない状態ということらしい。僕なら大丈夫だとベルンは思っていたがあまりに状況が悪化しているために、また一人で動こうとしていたという。
「元奥様は油断してくれていましたから隙をつけましたが。彼女の場合は私のことはすでに織り込み済みだったようで」
ベルンが言うには家令として仕事のことで話をする分には皆と話せるが、仕事の範囲を越えてミレニアやメロディに関することを話そうとした途端に相手がベルンをいないものとして扱うようになるのだ。僕にも思い当たることがあった。
「……メロディに謝らなくては。許してもらえるかはわからないけど」
いやメロディの不安を減らすためにも、ミレニアではなくメロディと仕事をすること、共に生きるのはメロディだということを知らしめなくては。
相手の出方がわからないからにはメロディは僕と一緒に行動したほうが安全だろう。ベルンが正気だったからよかったものの、屋敷全部となっていたらメロディは今頃去ってしまっていただろう。
僕はすぐさまメロディの部屋へと向かった。ノックの返事を聞くのももどかしく、メロディの声がすると同時に扉を開けた。
「どうしたんだ?急に」
「いや。顔が見たくなって。それと話があるんだ」
僕の言葉にメロディは表情をなくした。
「私にはない。やっぱりミレニアと仕事をすると言いたいんだろ?ブライアンは優しいから私のことを無碍にできなかったんだろう。私からお願いしたが婚約者であるのは確かなのだからな」
僕は慌てた。
「婚約はこっちから言い出したことだ。それに僕が話したいことってのはさっき話してくれたことだ。メロディ、一緒に仕事をしよう」
「え、あ、本当に?」
「僕は君に嘘をつくことはないよ」
頬を染めるメロディの背を僕は何度も撫でた。もう大丈夫だと思った。
一緒に仕事をするのは今の仕事がひと段落ついてからでも遅くないはずだ。なぜそう思ったのかがわからないが、僕は問題を先送りしてしまった。
話すことで安心してしまったのだ。
これから先はきっとよくなると安易に思い込んでしまったのだろう。
メロディが笑わなくなったことに気づいたのは、やっとひと段落して久しぶりに夕食を共にした後のことだ。久しぶりに彼女の部屋を訪れる。
疲れているのかもしれないと思い話を振ることにした。
「最近はどうしていたの?」
「どうって。いつも通りだよ。新製品の開発もやっと軌道に乘りそうだし、資金を提供してくれる投資家も見つかった。もう少しで楽になるよ」
「そう、ブライアンが楽になるのなら私も嬉しいわ」
貼り付けたような笑みを浮かべる。前はこんなことなかった。前?それは一体いつのことだ?
「どうしたんだ?まるで」
「誰かに似ていた?一体誰?いまだにあなたにべったりのミレニアかしら?」
寒気がした。そうだ、僕はどうしてミレニアを辞めさせていないのか。
いや、メロディが断ったから、……断った?いつ?
「僕は君に何かした?君らしくない」
「私らしくないって?それはどっちのことを言っているの?ローランド?メロディ?」
「どっちだっていい。どちらも君じゃないか」
「そう。……私がローランドだったことを口にしてくれるのはもうあなたくらいになってしまった」
「一緒に学んだ奴らならきっと誰だってローランドのことを忘れたりするはずないだろう」
「ならその話をしてくれる誰かを紹介してくれないかしら。私、これでも婚約者のいる身の上ですもの。他の男性とお話するのもはばかられるのですよ?」
そう言って彼女は長い溜息を吐いた。
「まったく……ブライアン。君さあ察しが悪いって言われないか?俺は君がいる時にしか学校の奴らに会うことはできないってことだよ」
「僕がいなくたって好きに会ったらいいじゃないか。僕は心配なんてしてないから」
メロディは髪をかき上げながら声を上げ笑った。
「はは!知ってるよ。私はブライアンが好きだし学校の奴らは仲間だとは思うけどそういう対象だと思ったことはないからね。ブライアンが信じてくれるのはわかってるんだ。でも世間はそう思わないってことさ」
「まさか。ローランドとして一緒の学校に通っていたことはみんな知っていることだよ。疑う必要なんてない」
「そう思うならブライアンはよほど他人を信用しているお人好しってことさ」
「そもそも会っていることなんて家に来る分には外には漏れないだろ」
「話して歩くのが何人もいるからさ」
「まさか。もしいるなら教えてよ。注意してやめさせるから」
「やめさせる?君にできるのか?いまだにミレニアと仕事をしている君に?」
「それは……」
「すまない。私が口を出すことじゃなかったな。ブライアンがどうするか決めることだ。今更私の願いなど聞きたくもないだろう」
メロディが弱音を見せるなんて。僕は驚いた。
注意して見ても彼女は嘘をついているわけではないようで、少なくとも自分のことをとるに足らない存在だと思い込んでいる様子がうかがえた。
「ここにいる誰もが未来の女主人は別にいると思っているからな」
「僕にはメロディしかいない」
メロディの表情は笑っているはずなのに泣きそうに見えた。
「ブライアンのことは信じている。だけど君は少し不用心だ。いつでもできると思っているといつまでもできない。わかっているんだ。ブライアンが私を選んでくれていることは。でも思っていても態度に現れていない。約束したじゃないか。私と仕事をすると。君が私にいつ声をかけてくれるか待っていたけれど、今日まで一度だって誘ってはくれなかったな」
「君が断ったんだろう……?」
「いや?私はすぐにでもと思って毎日待っていたんだ。断るはずないだろう。これがまだ男として生きたことのある自分だったから我慢できたんだ。……いや我慢できないほうが幸せだったかもしれない。婚約者でいることはできないのだと早く諦めることができただろうから。どうしたブライアン?」
「僕も、影響を受けていた……?」
「別に君だけじゃない」
「僕は君に何をした?」
「何も。そんな顔するな。私なら平気だ。まだ大丈夫だ」
「まだ?そんな言い方、本当に大丈夫な人間が言うはずないだろ……!」
「怒ってくれるんだな。君がミレニアを優先していてもうれしいよ。まあ君だけではないが。この家の奥様はどうやらミレニアらしい」
「そんなはずない」
「私の見解ってわけじゃない。単なる事実だよ。ブライアンが家に帰ってこない間は彼女の家とこことどっちに住んでいるのかわからない程度には入り浸っていたが。知らないのか?」
「たまに遊びにきているようだとは聞いていたが……」
「信じられないならしょうがない。ブライアンにとってはミレニアが女主人になるであろうことを実は歓迎している、ということになるだけだ」
「違う!僕は、僕が好きなのはメロディだ!」
「ならどうして私と会う時間を作ってくれなかったんだ?何度も君に手紙を書いたのに」
「仕事が忙しくて……」
「ならしょうがないな、と言えたらよかったんだけどな。すまないな。もう私には無理だ」
「い、嫌だ」
「そのままでいていいと言ってくれたのは嬉しかったよ。私がローランドでありメロディである認めてくれたのは君だったから」
「ブライアンが認めてくれているからと本当にそのままでいた私のせいなんだ。ミレニアがいたからというのはあるが、決して彼女だけのせいではない。私がいなくなったらきっと本当に彼女が女主人になるのだろうから、嫌味を言ったりしてはいけないよ」
まるで幼子に言い聞かせるような優しい口調だった。
「何を言ってるんだ?まるで出ていくような言い方じゃないか」
「ブライアン。私は何度君に帰ってきてほしいと連絡したか覚えているかい?」
「いつ?そんな」
「ベルンが何度も君に会いに行っただろう。私に味方してくれるのはベルンだけだから」
「は。いや、ベルンには会ってない。嘘じゃない。信じてくれ」
「ああ、ブライアンは嘘をついてはいない。私はもう君を支えることはできないけど、いや元々支えてなどいなかったな……」
「メロディ?もしや別に気になる人ができた……?」
「ははは。ブライアン。君がその言葉を言うのか。私はずっと思っていたよ。本当は私ではなくミレニアのほうがいいと思っているのではないかってね」
「違う」
「だってそうじゃないか。私と会う約束はしてくれないのに、その間にミレニアには何度も会っていただろう」
「仕事だよ」
「今更隠すのか?それだけじゃないと知っているが」
「二人きりじゃない。父だっていたし」
「余計悪いだろう。家族の線引きがどこにあるのか他人が知るには充分だと思わないか?」
「……少なくとも僕にはそのつもりはない」
「ああ、知っているさ。君にとってはミレニアは可愛い妹みたいなものなのだろう?その妹という立場は他に婚約者がいても優先されるべきものだと君が証明してしまっただけで」
ふと気づいた。手に下げられる旅行鞄をメロディは持っていた。よく見れば外套も羽織っている。すぐにでも出かけることのできる恰好だった。
「嫌だ、行かないでくれよ」
「引き留めるのが遅いんだよお前。ミレニアとは本当に何もないのかと聞いたが。つまり誤解されるようなことをするなということだよ」
「なら最初からそう言ってくれればよかったんだ。君が察しが悪いと知っていたはずなのに留意しなかった私が悪いのだろうな。私がいなくなったほうがきっと上手くいく。一緒にいると決めるべきじゃなかったんだ。それにもっと自由に生きたい」
あの時と同じ目だった。僕に連れ出してと頼んだ時と同じ決意に満ちた目。
学校で共に学んでいた時にローランドがしていた目だ。僕の憧れた君のままで。
胸がしめつけられる。
「ああ……ローランドにもメロディにも自由が似合うよ」
僕といることが苦痛でしかないのだとしたら、手放すべきなのだとわかっている。全ては視野の狭くなっていた自分の招いたことなのだということも。
「でも嫌なんだ。君がいないなんて」
「私だって嫌だよ。でもねブライアン」
「会えるかもしれないと思いつつ会えなかったと悲しむ生活を送るならいっそ会えないとわかっているほうが楽なのかもしれないと思うんだよ」
「もう少しで仕事は落ち着くから、それまで待って」
「あとどのくらいだい?今までだってもうちょっととしか言わなかったじゃないか。私はちゃんと良い子にして待っていたと思うよ。誰からの誘いも受けなかったんだから」
「それは……」
「ブライアン。好きでもそれだけじゃ駄目なこともあるんだ」
「嫌だ。聞かない」
「わがままな奴だな。私と一緒にいたいと言ったはずなのに私から逃げ続けて。君はどうしたいんだい?」
「逃げていたわけじゃない。メロディのためになるようにって僕は僕なりに頑張っていたんだ」
「説明もしないで?私が君の言葉を頭から否定するとでも思ったか?途中では話すには足りない相手だと思っていたか?」
「違う……」
「ならどうして話してくれなかった?」
「君だって屋敷にミレニアが来ていると話さなかったじゃないか……!」
「ああ、ああそうだ。確かに話さなかったな。一言では終わらないから手紙には書けなかった。ミレニアのことを妹のように大切に思っているブライアンに伝えるには文字では誤解されるだろうと判断したんだ。私は間違ったのかもしれないな。何度手紙を送ってもまったく顔を合わせることもできないとは思っていなかった。はは。想い合っているのだから大丈夫だと思っていたが、驕っていたらしい」
「僕が好きなのはメロディだよ。君のことが昔も今もずっと好きなんだ」
「本当に?疑ってしまうのを許してほしい。私にはもう何が本当なのかわからないんだ。女主人になるからには淑女でなくてはならないと君が用意してくれた教師は言ったよ」
「教師?何の話だ?書庫を自由に見たいと言ったから鍵を開けておくようにと伝えたことか?それとも馬に乘りたいと君が言ったから用意した厩舎から誰か来ていたのか?」
おかしい。おかしいんだ。僕の思考が上手く回らないのはなぜだ。
手紙を持ってきていた?いつ。会えなかった?なぜ。
メロディに淑女になれと伝えた?そんな馬鹿な話があるものか。僕が好きなのはありのままの彼女で、だから自由に生きてほしいと思っていて。
だから僕のように縛られて欲しくなかったんだ。
「まだ家族にもなっていないのに、大切な書物もある書庫に自由に立ち入ることはできないと言われていたが、君の指示ではなかったのだな。きっとそうだと思っていたが、もしかしたらと思えて」
「言わない。僕が君の行動を妨げることなんてない。君の願いで僕に叶えられるものならなんだって叶えたいと思ったんだ。仕事はそれなりに順調だし、君がしたいことやりたいこと欲しいもの、なんだって叶えたいと思った。だから早く商会を大きくしたかった」
「だからって私に会わずにやることではないだろう?」
「今ならそうだと思える。でも君に会わないでいる間は君に会ってはいけないような気がしていた。なぜだろう……」
「私に会いたくなかったからではないのか?」
「違う。僕が君に会いたくないはずないだろう。メロディに早く会いたいのにまだ駄目だと思っていた。なんでまだ駄目だったのか……」
ずきりと傷む頭を抱える。
「どうした?大丈夫か」
「少し頭が痛いだけだ。大丈夫。休めばきっと治るさ」
少し経つと治まってくる。傷みはもう感じなかった。
「もう大丈夫だよ。ごめん」
「仕事のし過ぎじゃないのか。焦っても結果が早く出るとは限らないだろう」
「そうか。僕は焦っていたんだな。早く成果を上げなくては君が僕の手からするりと逃げ出してしまうんじゃないかと思って」
「……誰に言われた?」
「別に誰にも。そう自分で思っていただけだよ」
「いや。私が淑女でなくてはならないと思い込まされそうになっていたのと同じようにきっかけがあったはずだ」
「そういえばミレニアに旦那様になるなら奥様のお願いくらい叶えられるようにならないとと言われた、かもしれない」
「随分曖昧だな」
「丁度真実の目が必要な仕事がきてしまってさ。断ったら商会ごと潰されるからやらないわけにはいかなくって。バタついていたからそのあたりの記憶が曖昧なんだよ」
「些細なことでも覚えているブライアンとは思えないな」
「あのねえ。僕が細かいことまで覚えているのは相手がメロディだからだって。好きな人が話すことはなんだって覚えていたいと思うだろ?」
「なら本当にミレニアのことは何とも思ってないってことか」
「しつこいなあ。思っていない」
「はは。しつこくもするさ。そうか、ブライアンが好きなのは私なのか」
「だからずっとそうだって言ってるだろう」
「すまない。怒らないでくれよ。確認していただけだから。なあブライアン。ベルンに最後に会ったのはいつだ?」
いつ?
覚えている。あれは。
「君に一緒に働こうと言った日だ……」
「そうか。ちなみに部屋の隅にずっとベルンは立っていたが、見えていたか?」
「え、どこに……?」
メロディは今までで一番大きな溜息を吐いた。
「眼鏡を外せ。この馬鹿」
次の日仕事を手伝ってもらった。メロディにとっては針の筵で周囲の彼女を見る目がこんなに冷たかったのかと知った。驚くほどに酷い。
気づかないでいた僕の目は節穴だったのだろう。眼鏡を外すだけで手遅れになりそうなくらいに膨れ上がったものが見てとれた。
いくらメロディが優秀だからといって初めてのことにすぐに対応するのは難しい。特に商会の仕事というのは数字を追う時もあるが基本的には人との繋がりで成り立っている。友好関係を築かなくてはならない相手がすでに色々と吹き込まれているとあっては、メロディがどれだけ強い人であったとしても堪えるに決まっているのだ。
「少し休むかい?次の約束まではまだ時間があるから一息いれよう」
「いや、大丈夫だ。いつも帰りが遅かったということは普段はこの時間に別のことをしているのだろう?」
「心配しなくても大丈夫だよ。今すぐしなくてはならないほどじゃないから」
ちらとメロディが視線を動かした。その先にいるのは頬を膨らましたミレニアだ。今朝にこれからはメロディが仕事をすると聞かされて、納得できないと帰らなかったのだ。
「まったく。ブライアンが優しいからって甘えすぎですわ」
「やめてくれ。それと今までお兄様と呼んでいただろう。なぜ急に名で呼ぶ気になった」
小首を傾げる姿は本当に可愛らしい。二重に映るのが継母そっくりでなければの話だが。
「だってえ。メロディさんってば失礼ではありませんの?そもそもブライアンと近すぎます」
「メロディは婚約者だ」
「わたくし認めるつもりはありませんの」
「ミレニアが認めなくとも書類だって出した。それに僕が望んでいるんだ。黙っててくれ」
「急に冷たい態度をとられたんですもの。納得いく理由を話してもらえなければ認められるはずないじゃない」
「そもそも君は弟の婚約者だった、それだけだろ」
「いいえ、ブライアン。あなたが選ぶのはそこの小娘ではなくわたくしです」
「……僕は君のことを妹にしか思えなかった。今は余計にありえない」
「ブライアン。あなたはわたくしの夫となるのです。それがあなたの存在する意」
「僕の存在意義は君が決めることではないよ。もしも決めることができる人間がいるとするならたった一人。メロディだけだ。僕が好きなのはメロディだし、僕が幸せにしたいと思うのもメロディだよ。一番大切だしメロディのお願いはなんだって叶えたい」
「だからってどんな願いを持っているか勝手に解釈されるのは困るよ」
「もう!二人でばかり話していないでよ!」
「ミレニア、君のような人のことを世間では可愛らしいと好ましいと思うのだろうね。私にとって普通であることがこの家では普通ではないのだと思い知らされたよ。元々自分が男だと思っていたから最初から女性である人には可愛らしさで勝てないような気がするんだ」
「何よ、嫌味?」
「メロディ、君自身が思うよりずっと君は魅力的だよ。誰よりも恰好いいと思うし、可愛いとも思うよ。勝ち負けの基準がもしも僕にあるなら、君は他の誰に負けることもない。僕のただ一人は君だから」
メロディは頬だけではなく耳まで染めていた。
「ちょっとやめてよ!メロディなんて見ないでよ!ブライアンが選ぶのはミレニアでしょ!」
「そう思われるように仕向けていたのはあんただろう。ミレニア、いやお義母様と言ったほうがいいのかな?」
「なんでわかったの。どうしてよ、ブライアン。あなたは私に逆らえないはずでしょう!」
「眼鏡外しているから見えるとは思わなかったのですか?うかつでしたね」
魔女の意識が完全に僕に向かった。その時をメロディは逃さなかった。
密かに身に着けていた短剣を取り出すと魔女の喉を掻っ切った。
「魔女には真実の目を持つ者がわからない、か。ベルンに聞くまで知らなかったが本当だったか」
「ぐ、くぅ……」
悔しそうに顔を歪めてミレニア、いや継母は消え失せた。
そこには元から何もなかったかのように跡形もなく。魔女はいなくなったのだ。
「これでブライアンへの貸しは返せただろう」
「だから出ていく必要なんてないと何度言ったらわかってくれるんだ?」
「私は君と対等な立場でいたいんだ。妻になることがそうでなくなるのなら、例え君のことを好いていても離れて暮らしたほうがいい。君が望んでくれるなら会うこともできるだろうし」
「頼む、お願いだよ。僕には君が必要なんだ……でも君が君らしくいられなくなるなら僕は」
「ブライアン。君は何か勘違いをしていないか?私と君が対等でいられるならいいんだ。君は私をないがしろにする気があるというのか?」
「ないよ。ありません」
「ならいいだろ。出ていくつもりはないよ。君が私を追い出さない限りはね」
「絶対にしない!」
「はは……そう願うよ」
僕はメロディを抱きしめる。
「僕が間違った時にはいつでも言って。僕は僕が変わることよりも君がいなくなることのほうがずっと嫌なんだ」
愛していると囁いて、僕は生涯を捧げることを彼女に誓った。
お読みくださりありがとうございました!