67. △「3人目・三夜凛々翠」
教育者の父からは過保護に、大企業副社長の母からは門限や交友関係まで含め日々の生活の全部を厳しく育てられ、はや21年。
結果出来上がったのはさしたる取り柄もなければ外見も精神性も幼く内向的で、大層世間知らずな陰キャ女子大生が1匹だった。
でもただでさえ浪人時代も家にばかりいたしこのままではと、先月パパの反対を押してバイトを始めてはみたのはいいものの、
『えと、難しいなあこれ……効果的に教えるにはどうすれば』
『おい、三夜さんっ! 特講テキストが定位置に戻ってないぞ! いつまでも独占してるなよ!』
『わわ、すみません!』
『あと、あそこの親御さんからクレームあったよ。ウチの子だけ指導時間が少なかった、ってさ』
『ごっ、ごめんなさい』
『とにかく時間配分が下手、視野も狭すぎなんだよ。相手が中学生だからってなめてるのか!?』
『すみません。でもひとりで4人をみるのは、私にはまだ――』
『言い訳するな! 我々は高い時給もらってるんだ。そういうバイト感覚でいられちゃ困るよ!』
うう、じゃあこれバイトじゃなきゃ何だってのよ。それに準備時間の分の前残業代が出ないんじゃ別段高給でもないじゃない。
『ひそひそ……まーたイビられてら』
『ぼそぼそ……それより、デカくね』
『こそこそ……風俗行けばいいのに』
こうしてシフトリーダーにはいつも強く当たられて、周りからはよからぬ陰口を叩かれる日々。
正直なところ何度辞めようと思ったかわからない。それでも何とか1ヶ月しぶとくもったのは、
『三夜さん、ちょっと』
『あっ、明星さん? もしかして私何かまた、迷惑を――?』
『これ、貸しますから。あのテキストの、丸ごとコピーです』
『えっ、すごいっ! あたしなんかにそんな、いいんですか』
『うん、そもそもあれ1冊しかないのがいけないんだ。悪いのは塾とあいつです』
『あっ、ありがとうございます。わざわざこんな――本当に』
『三夜さんが入る前は、あの野郎にゃ僕も散々言われましたので。気にしないで』
こういう優しい人もいたからかな。大体週3でシフトが一緒になる、明星さん。
言っちゃ悪いけど目つき悪いし無口で何を考えてるかわからない、そんな印象とは裏腹に彼にはずいぶんと助けてもらってた。
『ひそひそ……珍しいな明星のやつ。自分から話しかけてよ』
『ぼそぼそ……狙ってんじゃねぇの。あれなら俺でもってさ』
『こそこそ……オレも揉みてぇなァ。もっと垢抜けてりゃよ』
無能なあたしも一応胸だけはある。それも無駄に93cmも。
だから彼のこの態度も実は下心があるんじゃないのかと、100%信用はせず純粋な厚意とは捉えていなかった。この時はまだ。
「――今からのシフトが変更に??」
「うん、急に欠席が相次いでね。悪いけど他の先生たちにあてて調整をしたんだ」
そして話は“現在”へ。
「明星君も、体調悪いところ来てもらったのに悪いね。代わりに事務作業を頼むよ。これならあんまり負担にはならないでしょ」
そこで今日はというとそんな彼と急遽、教材作りなど雑用をすることに。まあたまにはこういうのもいいかと黙々取りかかる。
「三夜さん。こっちの分頼みますね」
「えっ。――ってこれ、私の分だいぶ少なくないですか。均等の枚数でいいのに」
「いや、こんな機会もそうそうないから。せっかくだからゆっくりしてて下さい」
「そっ、そんなわけにいきませんよ」
「いいんですよ。普段より安い時給だし、そんな真面目にやることないですから」
「いえ、ホントに大丈夫ですから!」
紙束を強引に取り戻す。すると元々少ない会話がさらに減り何とも重い空気に。
けど、全然別にそこまで気を遣わないでいいのに。まあでも一応フォローはしておくべきかな。
「いつもこんなあたしに良くしてくれて、ありがとうございます。でも本当大丈夫ですから。これもひとつの“積み重ね”ですし」
「……」
「こういう仕事だって地味だと“思考停止”しちゃうのは簡単です。でも誰かがちゃんとやらなくちゃ。必要なことなんですから」
「……」
「そりゃ塾講師は勉強教えてナンボです。だからってそれがすべてじゃないし、こういう“日陰”も充分に意義のある役割ですよ」
「……フフ」
不意にその唇が綻ぶ。彼のこんな顔は初めて見たけどその時はムッ、あたし何か変なこと言ったの? という感情が強かった。
彼もそれを察したか、珍しくこっちと視線を合わせて言う。
「いや、最近読んで気に入った小説みたいなこと言ったから。立派な考えですね」
――2019年11月25日の夜。今でも忘れない。彼との距離が新幹線以上の速度でググンと縮まった、あたしのこの運命の瞬間を。




