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星輪のギメルス エフェス編  作者: アドム・ザナヴ


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第3話 星月夜

 家を飛び出したエフェスは、昼間の祝宴の喧騒(けんそう)が嘘のように静まり返った広場へと向かった。目が夜の暗さに慣れるまでもなく、空には満天の星が広がっていた。ハールコテルゲドラー山脈の険しい稜線(りょうせん)が星々の輝きをより一層際立たせ、まるで巨大な満月かのごとく大地を淡く、青白く照らし出している。


 エフェスの心は昼間の宴とはまた別の意味で、そわそわと浮ついていた。昨夜、エセルから「明日、話したいことがあるの」と耳打ちされたのだ。まさか、とんでもないことを言われるのではないか。いや、そんなはずはない。ありもしない想像を頭に思い浮かべては、ぶんぶんと首を振って打ち消す。そんな一人問答を繰り返していると、背後から声をかけられた。


「こらエフェス、夜に一人で出歩いてよかとね?」

「うん! じいちゃんが、よかって言うたよ!」

「そうか、でも遅くなんなよー」


 宴の後片付けをしていた大人たちが、心配そうに声をかけてくれる。そのたびにエフェスの心臓はドキリと跳ねた。怒られるかもしれないという恐怖ではない。これからエセルと会うという、自分だけの秘密を見透かされているような後ろめたさからだった。

 広場に着いたエフェスは、燃え尽きた焚き火の残滓(ざんし)を眺めながら、祭りの後にだけ訪れる独特の寂しさに少しだけ感傷的な気分になっていた。


「昼間はあんなに楽しかったとに、今はこんなに寂しく感じるのも不思議やね」


 そんな独り言を呟いた時、向こうから歩いてくる二つの人影を見つけた。エセルだ。そしてその隣には護衛のメル・カヴァがいる。エフェスはとっさに、あくまで偶然を装って近づいていった。いくら平和な村とはいえ、夜中に年頃の娘を一人で歩かせるほどこの村の大人たちは呑気(のんき)ではない。


「エセル、メル姉ちゃん、こんばんは。珍しかね、こんな夜中に」

「あら、エフェス! こんばんは! 今夜の星はとても綺麗だから、散歩したくて来てしまったの」


 エフェスとエセルの演技は、お世辞にも上手いとは言えなかった。しかし生真面目なメルには二人の拙(つたな)い芝居は気づかれていないようだ。

 彼女はブルーグレーの前下がりショートヘアを揺らし、黄色と赤が混じった瞳でエフェスを上から下まで値踏みするように見た。百七十二センチの長身と筋肉質な体格、そしてしっかりとした眉が与える威圧感は、三十歳という年齢以上の「歴戦の戦士」の空気を漂わせている。

 だが、口元から覗く八重歯にはどこか少年のような快活さもあった。エセルを姉のように見守る彼女にとってエフェスは常に警戒すべき対象であり、こうして少しでも距離が縮まれば鋭く目を光らせるのが常だった。


「メル姉ちゃんも帰ってきとったとね。昼間は見かけんやったけど、どこに行っとったと?」

「南の関所まで、な。それよりもエフェス。子供が一人で夜道を歩くとは感心せんな」

「じいちゃんが、よかって言うたけん大丈夫たい」

「ヤコブ殿が……? うぬぬ、いや、しかしマイムハレムとはいえ、夜は何が出るかわからんぞ」


 その口調は、まるで壮年の堅物な指導教官のようだ。このままではいつまで経ってもメルが傍を離れてくれない。そう判断したエセルは意を決して口を開いた。


「メル、ごめんなさい。少しの間だけエフェスと二人で話がしたいから、どうか少し離れた場所から見守ってはいただけませんか?」

「なっ……! 何を仰いますか、エセル様! 獣は夜行性です! どこから現れるか分からないのですよ!」

「村の中なら大丈夫だって、メル姉ちゃん」

「うるさい! 貴様は黙っていろ!」


 突然のエセルの言葉に動揺したメルは、エフェスに鋭い声を浴びせた。その剣幕(けんまく)にエフェスは思わず口をつぐむ。


「ねえ、メル。お願い。本当に、大事な話があるの」


 エセルが真剣な瞳で重ねて頼むと、メルは「んーーー~~~ッ!」と天を仰いで唸った。融通を利かせるのが苦手な彼女は、護衛としての任務と主君の願いとの間で激しく葛藤しているようだった。

 やがて大きなため息をついたメルは、エフェスには聞こえないようエセルの耳元で何かを囁(ささや)いた。途端にエセルの顔が真っ赤になる。


「メル! 何を考えているのですか! エフェスは、あなたにとっても友人でしょう!」

「友人であることと、護衛の任務は別です。その覚悟で私はお側に仕えております。いざという時は、エフェスを……斬ってでもお守りします」

「メルッ!」


 何を言われたのかは分からないが、主君と護衛の間に流れる真剣な空気に、エフェスはただ黙って二人を見つめるしかなかった。


◇


 ようやくメルが険呑(けんのん)な視線をこちらに向けながらも、木陰へと姿を消した。

 二人きりになったエフェスとエセルは、村の北にあるエロスの湖へとゆっくりと歩き始めた。道中何を話したのか、エフェスはほとんど覚えていない。エセルが一体どんな「大事な話」をするのか、そのことで頭がいっぱいだったからだ。


 湖畔に着くと、息を呑むような光景が広がっていた。

 湖の周りでは無数のヤマトボタルが月光花と競うように、淡く、そして力強い光の軌跡を描いて舞っている。静まり返った湖面は、まるで磨き上げられた黒曜石(こくようせき)の鏡のようだ。満天の星々が寸分の狂いもなくその水面に映り込んでいる。

 天と地、二つの星空に挟まれたその場所は、とても現実とは思えないほど美しかった。


「うわー……本当に綺麗か……。星も、絶対いつもより明るかよ」

「ええ、本当に……!」


 その幻想的な光に照らされたエセルの横顔に、エフェスは思わず見惚れた。自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。


(今日のエセル、無茶苦茶かわいか……なんだこれ!?)


「ねえ、エフェス」

「にゃっ……なんだよ?」


 動揺を悟られまいと、そっぽを向いたまま答える。エセルはそんなエフェスの様子には気づかず、水面に映る星々を見つめながら晴れやかな声で話し始めた。


「私、このガラーシャ村に住めて本当に良かったと感謝しているの。ここで皆さんと一緒に暮らして、毎日が本当に幸せで……マリア様、ヤコブ様、ゲデオンさん、サラさん、皆、本当に優しい方ばかりで大好き」

「何ば今更。エセルもこの村の家族やん。みんなもエセルのことが大好きやし、当たり前やろが……?」


 エフェスがそう言ってふとエセルの方を向くと、彼女の青緑色の瞳から大粒の涙が静かにこぼれ落ちていた。


「ど、どうしたエセル! おい、何か変なこと言うたか!?」

「ごめんなさい……大丈夫。何でもないの。ただ、嬉しくて……」


 涙を浮かべながら、それでも微笑もうとするエセルの顔は胸が締め付けられるほど美しく、そして儚(はかな)かった。エフェスはかける言葉が見つからない。

 エセルは涙をそっと拭うと、再び遠い星を見つめて話し始めた。


「私、成人式を終えてから色々考えてみたの。『もし私が、本当の戻るべき国に戻れたら何をしたいか』って」

「……何ば、すっと?」

「私が戻るべき国は、カナン王国というの。でも私はその国のことを何も知らないの。だからまず自分の国のことを知りたい。そして国に戻れたら、そこで困っている人たちを助けたい。このガラーシャ村のような国にしたいの。それが、私の夢」

「夢……」


 決意を秘めた彼女の横顔は、エフェスが今まで見たことのない凛とした大人の表情をしていた。先程までの胸の高鳴りとは違う、焦りと、そして悔しさに似た感情がエフェスの胸に込み上げてくる。


「私、明日、この村を発つの」


 予感はあった。それでもエセルの口から放たれた言葉は、エフェスの呼吸を止めるには十分すぎた。


「……そう、なんだ」


 やっとの思いで、それだけを口にする。


「エフェスには直接、さよならって伝えたかったの」

「……また、戻ってこんと?」

「ええ。多分、戻ってはこれないわ。マイムハレムでの暮らしは私が少し大きくなるまでの間だけって、元々イマ母様が決めていたみたいだから」


 昼間に見せたエセルの寂しそうな横顔の理由が、今、痛いほどに分かった。エフェスは彼女をこのまま悲しい顔で行かせたくない一心で、頭を必死に回転させた。


「だったら! 今度は、おいがエセルに会いに行っけん!」

「え?」

「カナン王国かなんだか知らんけど、そん国に行けば会えるっちゃろ? 何なら、おいも色々勉強してそん国に行けるようになったら、マシューたちもみんな連れて行ってやる! そしたら、寂しくなかやろうが!」


 我ながら名案だ。エフェスは少し得意げに胸を張った。

 エセルは一瞬きょとんとした後、くすりと笑い、やがて声を上げて笑い出した。


「……ふふっ……あはははっ!」

「な、なんだよ。そげな、おかしかったか?」

「ううん! ……すごく、嬉しいの!」

「……なら、よか」


 その笑顔に、エフェスの心も少しだけ軽くなった。


「エフェス。これを、あなたに」


 エセルはそう言って自らの首にかけていた小さな丸い石がついたネックレスを外すと、エフェスに手渡した。


「もし嫌だったらごめんなさい。この石、私の角でできているの」

「え!? 本当か!? ……って、確かに角の先っちょが無かね!」

「そこは、もっと前に気づいてよ……」

「……ごめん」


 いつもの気の置けないやり取り。その当たり前の空気が、今はどうしようもなく愛おしい。


「このネックレス、絶対に大事にすっけん」

「ええ」

「会いに行く時、絶対に着けていっけん」

「うん。エフェスが大きくなって別人みたいになっても、それなら分かるわ。良い目印ね」

「目印って、おい」

「……エフェス」

「ん?」


 エセルに呼ばれ、振り向いた瞬間、彼女のシルバーブロンドの髪が目の前に広がり、エフェスは思わず目を閉じた。

 唇に、柔らかく温かいものが触れる。

 何が起こったのかを理解するのに、二秒はかかった。目を開くと、すぐそこに固く瞳を閉じたエセルの顔があった。エフェスの思考はそこで完全に停止した。

 唇が、そっと離れる。


「エフェス。私、今夜のこと絶対に忘れないわ……また、会いに来てね」


 そう言って微笑むと、エセルは駆け足でメルが待つ木陰へと戻っていく。エフェスは思考が止まったまま、遠ざかっていく彼女の背中にただゆっくりと手を振ることしかできなかった。


 しばらくして一人残されたエフェスは、先程までエセルと一緒に眺めていた湖面に目を向けた。

 水面に映る満天の星が、さっきよりもいっそう強く輝いて見えた。


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