届いた
蕗田先生が来た。
手ぶらじゃなかった。
両手で原稿の束を持っていた。
「完成しました」
ただ、それだけ言った。
俺はその原稿を受け取った。
ずしっと重かった。
「……読んでいただけますか」
「読みます」
「お世辞はいらないです」
「言いません」
先生が少し笑った。
七海がお茶を持ってきた。
原稿を見て、一瞬固まった。
「……先生。完成したんですか」
「おかげさまで」
七海がまた固まった。
今度は、少し長かった。
「……よかったです」
「ありがとう。七海さん、でしたね」
「はい」
「あなたがきちんと帳簿をつけていると青柳さんから聞きました」
「え」
「きちょうめんな人が、そばにいるんだなと思って。書いていて何度か励みになりました」
七海がまた黙った。
「……私は何もしていないです」
「いえ。そばにいる人間というのは、思いのほか大きいものですよ」
先生が静かにお茶を飲んだ。
その日の夜。
俺はソファで原稿を読んだ。
気づいたら三時間が経っていた。
正直に言う。
俺は本をほとんど読まない。活字もそんなに得意じゃない。
でもこの原稿は、読んでいる間ずっと、ページをめくる手が止まらなかった。
なんでかは、うまく言えない。
ただ、最後のページを読み終わった時、なんか静かな感じになった。
胸の奥が、すうっと落ち着く感じがした。
翌日、先生に言った。
「……すごかったです」
「どんなふうにですか」
「うまく言えないんですが……読んでる間、他のことを考えなかったです」
先生がふっと笑った。
「それは、最高の感想です」
「そうですか」
「書き手にとって、読んでいる間ほかのことを考えさせないというのが一番難しいんです。それができていたなら」
「できてました」
「ありがとうございます」
「七海さんには、読んでいただけましたか」
「読みました」と七海が言った。
「どうでしたか」
七海が少し黙った。
蕗田先生が七海をしばらく見た。それから、柔らかく笑った。
「泣いてくれたんですね」
七海が黙った。
「ありがとうございます。この本を書いていて一番書きたかったのは、そういう場面でした」
澪が地下から上がってきた。
原稿を見て、ぽつりと言った。
「……読んだ」
「もう読んだのか」と俺。
「昨日のうちに。途中で寝れなかった」
「お前が寝れないって珍しいな」
「うん。続きが気になって」
澪が先生を見た。
「次の本は、いつですか」
先生が少し目を細めた。
「書きますよ。また」
「待ってます」
「ありがとう」
帰り際、蕗田先生が俺に言った。
「お代は、今日は要りません」
「でも」
「体の話で来たわけじゃないので」
「そうですが」
「……それに。今日いただいたものの方が、ずっと大きいので」
先生が出ていった。
三人で、しばらく黙っていた。
「いい人だったな」と俺。
「はい」
「また来てくれるかな」
「来てくれると思います」と七海。
「なんで」
「……澪さんに、「待ってます」と言われたので」
澪がモニターを見たまま、ぽつりと言った。
「本当に待ってる」
「知ってる」と俺。
窓の外が、夕方になっていた。




