原点
ある日の午後。
聞き覚えのある声が、玄関から聞こえた。
「……おう、りおん。えらい立派になったなあ」
渡辺健三さん、通称ナベさんだった。
「ナベさん、なんで来たんですか」
「商店街のクミさんに聞いた。お前、田舎の方に引っ越したって。一回、見に来たかった」
「事前に連絡してくれれば……」
「俺、スマホ使えないんだよ」
「相変わらずですね」
ナベさんが、ボロ屋の外観を見回した。
「……ボロいな」
「わかってます」
「いや、でも、なんか、お前らしい」
七海が、お茶を出した。
「ナベさんって、どういう方ですか」と、七海が俺に聞いた。
「最初の客です」
「最初の……あの、9,800円の頃の?」
「そう。俺が初めて若返らせた人」
七海が、ナベさんを見た。ナベさんが、七海を見た。
「……橘七海といいます。青柳のところで働いています」
「渡辺健三です。りおんに膝と顔を治してもらった、焼き鳥屋です」
「焼き鳥屋」
「商店街の外れで、三十年」
七海が、少し、表情を和らげた。「……りおんさんの原点の方ですね」
「原点、って言えるかわからんけど。こいつ、最初は部屋が段ボールだらけだったぞ」
「知っています」
「まだ、段ボール、あるのか」
「今は、ありません。私が片付けました」
「そうか。ありがとう、あんた」
七海が、わずかに目を細めた。
澪が、地下から上がってきた。
ナベさんを見て、ぺこりと会釈した。
「水瀬澪です」
「渡辺です。お前さんも、ここで働いてるの」
「住んでます」
「住んでるの?」
「はい」
「この家に?」
「地下に」
ナベさんが、俺を見た。
「……地下があるのか、ここ」
「あります」
「なんで」
「いろいろあって」
「いろいろか」
「いろいろです」
ナベさんは、それ以上、聞かなかった。
長年、店をやってきた人間の勘だと思った。
深く聞かない方がいいことがある、ということを、知っている人の顔だった。
「あの、ナベさん」
俺は、聞いた。
「娘さんの結婚式、どうでしたか」
「ああ」ナベさんが、目元を、少し、緩めた。「よかったよ。去年の春な。いい式だった」
「行けましたか、ちゃんと」
「行けた。膝が治ってたおかげで、最前列で、ずっと立ってた。……お前に治してもらって、よかったよ」
俺は、何も言わなかった。
それで、十分だった。
「顔は、また少し、戻ってきたな」
ナベさんが、自分の頬を、触った。
「数年経てば、戻ってきますよ。やり直しましょうか」
「いや、いい」
「え、いいんですか」
「なんか、これくらいでいいと思ってる」
「……そうですか」
「六十代の顔が、六十代らしくて、ちょうどいい。……あの時は、娘の結婚式もあったし、若返りたかったけど。今は、このくらいで」
ナベさんが、お茶を一口、飲んだ。
「お前の力は、本物だと思ってる。でも、なんでも治せばいいってものでもないだろ」
俺は、それを聞いて、少し、考えた。
そうか、と思った。
治せる、からといって、全部治すのが正解じゃない。
ナベさんみたいに、「このくらいでいい」という人もいる。
「……そうですね」
「商売、うまくいってるか」
「おかげさまで」
「そうか。……クミさんが、お前のこと自分の息子みたいに自慢してたぞ」
「やめてくださいそれ」
「本当のことだ」
ナベさんが帰る時、澪が地下から何かを持ってきた。
焼き鳥屋の包装紙に包まれた、小さな箱を。
「これ、ナベさんに」
「……なんだ、これ」
「先週、店に注文した。ネットで」
「お前が?」
「うん。会うかもしれないと思って」
「……なんで、そう思った」
澪が、少し考えた。
「わかんない。でも、なんか、そういう気がした」
ナベさんが、箱を受け取った。
「ありがとう。……お前さん、変わってるな」
「よく言われる」
「いい意味だぞ」
「わかってる。りおんも、いつも同じこと言う」
ナベさんが帰った後。
俺は、ソファに沈んで、ぼんやりした。
最初の客だ、と思った。
あの頃、ポケットに14,200円しかなくて、家賃が払えなくて、神様から力を貰って——そこから始まった。
三年で、ずいぶん、遠くに来た。
遠くに来たけど、ナベさんが来ると、なんか、戻ってきた感じがした。
いい意味で。
「……青柳さん」
七海が、言った。
「ん」
「あの方が来てくれてよかったですね」
「そうだな」
「私は、青柳さんがどこから来たのか、あまり知らないので」
「……知りたいか」
「少し」
「今度、話します。長いけど」
「聞きます」
俺は、また、ぼんやりした。
商店街の焼き鳥屋の暖簾から始まって、今、地下三階建ての基地にいる。
我ながら、面白い三年間だった。
……あ、そういえば、ナベさんの店の煮込み、久しぶりに食いたいな。今度、食いに行くか——。
「……青柳さん、何を考えていましたか」
「煮込み」
「今は」
「煮込みのことを考えてた」
七海が、息をついた。
「ナベさんのお話を、していたんですけど」
「してたな。……あと、なんか、煮込みが食いたくなった」
「それは普通の連想です」
「ADHDじゃないのか」
「ナベさんの焼き鳥屋の話をしていたので、食べ物を思い出しただけです。それはADHDではありません」
「そうか。じゃあ今度、食いに行くか」
「ぜひ」
七海が、少し、笑った。




