060.ペク・ジュノ
第三十二階層に入った。
フィールド自体は下の階層とそれほど変化はないが、ここではハネアリが邪魔。
地上にはヒアリも現れるようになったので、多少移動ペースが落ちる。
キキが弓に切り替えてロックと共にハネアリ対応。
ハネアリは前回は最優先で倒していたのであまり気にならなかったのだが、放置しておくと上から酸を広範囲にまき散らしたり火球を吐いたりして非常に鬱陶しいのだった。
その点、ロスティの雷魔法が広範囲に展開してだいぶ助けになった。
ヒアリは例によって火属性耐性のあるハリー、マルス、ゲイル辺りに加えてセイラが担当。
ペースダウンしたのをヤンが不満そうにしている様子をジュノ軍曹は近くで見ていた。
今回のヤンはこれまでのヤンとは何か雰囲気が違って、終始ピリピリしているようにジュノ軍曹には感じられた。
中層第二十四階層の階層主を倒した後、スピードアップしたのはあくまでもその先にいるであろう上層の魔物に関する情報収集のためだったと、ヤンは言っていた。
しかし今回はまだ上層に入った初日で、しかもやや不慣れな二人を抱えている状況なので、そんなに急ぐ必要がどこにあるのかジュノ軍曹にはわからなかった。
いつもは休憩中にとりとめもない雑談で気分を和らげてくれるのに、今回はひとりでじっと考え込んでいるような様子なのも気になっていた。
そうした諸々が引っかかりながらも、ヤンに直接問い質すのは怖かったので先延ばしに、いや見なかったことにしてしまっていた。
* * * * *
ジュノ軍曹がヤンと個人的に親しくなったきっかけは第三部隊で一緒だった時、空き時間にこっそり体術の指導をお願いしたことだった。
もうかなり前のことのようにも思えるが、実はまだ二週間も経っていない。
第三部隊の案内人であるというヤンを最初見た時は目を疑った。
まさか自分とさほど年が違わないような子が、帝国の軍人たちの先頭に立つなんて、と。
ところが実際にはもっと年下の十二歳だったことが判明する。
これは本当に衝撃的だった。
あまりに驚き過ぎて、瞬間的にドキドキした鼓動がまるで他の特別な感情であるかのような錯覚さえ起こしてしまうほどだった。
いざ行軍が始まると、ジュノ軍曹はあることに気が付いた。
(この人、わたしと同じ動きをしている)
ヤンの身のこなしがジュノ軍曹の実家の道場で教えている動きの基礎に全く忠実だったのだ。
厳密に言えば違う部分もあったのだが、道場を継いだ兄弟子の師範より自然で理にかなっていて実に見事だった。
これはジュノ軍曹がある程度の達人の域にあったからこそわかることで、純粋に円空拳のスキルだけで言えばジュノ軍曹の方が師範に座に相応しかったのだった。
ただ、いざ組手や試合となると体格差パワー差のある兄弟子に対して分が悪かった上、本気で相手を倒すまでの覚悟がまだジュノ軍曹には備わっていなかったのも影響していた。
ともあれ、機を伺っていたジュノ軍曹はみんなで自己紹介をした日の夜、意を決してヤンに話しかけた。
「あの、ヤン教官。ひとつ聞いてもいいでしょうか」
「あ、どうもヤンです。なに?」
「ヤンさん……は、円空拳を使われるのですか」
「なにそれ聞いたことないけど」
「え、でもヤンさんの動きって……」
「ボクは小さい頃からとうちゃんに鍛えられたんだ。そのなんとかってのは知らない」
「ヤンさんのお父様はどちらで学ばれたんですか」
「うーん、どこだろう? それは聞いたことないなぁ。それよりそのさん付けはなんか堅苦しいからやめてよ。ボクはペクちゃんて呼ぶからさ」
「ぺ……あ、はい構いません。それでは私はヤン……くん?」
「うん、それがいいや」
明るく笑うヤンの笑顔を今もはっきり憶えている。
以来、ペクちゃんヤンくんと呼び合う関係が始まったのだった。
ジュノ軍曹はヤンと一緒に稽古をしてみてわかったことがある。
ヤンも「気」を練ることができている、と。
前述の通り、ジュノ軍曹の実家は円空拳の道場だった。
元々は祖父のまた祖父の代から続く由緒ある道場ということだったが、さすがにジュノ軍曹にはそんな昔の話までは詳しくなかった。
ジュノ軍曹にとっては道場が祖父であり、その祖父が直接教えてくれたのが円空拳だったのだ。
円空拳とは格闘術の流派のひとつと言われていたが、実際のところ「円空拳」という呼称を使い始めたのは祖父の代になってからで、それ以前は「円空拳」の名称は表に出さず単に格闘術道場として指導していたらしい。
そこら辺の詳しい事情はジュノ軍曹にもわからなかったが、これでますます祖父イコール「円空拳」という図式が出来上がってしまったのは事実だった。
「円の如く、空の如く」が円空拳の教えであった。
その言葉は大きな額にして道場にも飾ってあった。
「円の如く」は動きの基本のことであり、体内の「気」の集め方であるとジュノ軍曹は理解できていたのだが、「空の如く」の方はさっぱりわからなかった。
「お天道様の空ではないぞ、空っぽにするという意味の空じゃ」
祖父の言葉だけは憶えている。
だが「空っぽの空」と言われても全くピンと来ない。
ジュノ軍曹は十六になった今なら少しわかるような気がしていた。
心を無にする、様々な欲=邪心を捨てて無心になるという意味と、もうひとつ。
器である円を空っぽにして、そこに充分に「気」を溜め込むのだと。
ある程度「気」を溜められるようになったら今度はその円を回転させるのだと言われてジュノ軍曹はちんぷんかんぷんで口を空けていた。
それでも毎日毎日繰り返すうちに祖父のいう「回転」のイメージがつかめてきて、やがて自分でも驚くほどに速く安定して回転させられるようになった時、初めて祖父が大きく相好を崩して褒めてくれたのだった。
改めてそんなことを思い出しながらヤンの隣で体を動かしていると、今まで感じたことのない不思議な感覚があった。
あえて言葉にするなら、ヤンの「気」と自分の「気」とか共鳴しているような……、
それがどういうことなのか、どんな意味があるのかはわからないが、お互いの「気」を通して何かが通じ合ったような気がした。
「それが円空拳、とかいうヤツなの?」
ジュノ軍曹が新たな感覚を楽しんでいる時、ヤンが唐突に声をかけてきた。
「え、あ、はいっ。……たぶん」
なんと答えていいものかわからなかったので、酷く曖昧な返事になったのを恥ずかしく思うと同時に少し後悔した。
「ちゃんと回してるんだね」
「えっ……」
ヤンの言葉の意味をすぐに理解したジュノ軍曹は、だからこそ返答に詰まった。
「ペクちゃんは五つ、くらい?」
そこまでわかるなんて!と内心飛びあがるほど驚いたジュノ軍曹だったが、驚きすぎると逆にリアクションが取れずに固まるパターンに陥っていた。
「ヤン君も円を回せるんですか?」
「ちゃくら? ううん、ボクのはドリルだよ」
「ドリル?」
ジュノ軍曹の頭は真っ白。
ハテナマークで埋め尽くされる。
なんのことか全くわかりませーん。
「とうちゃんから教えてもらったんだ。体の中のドリルを回転させるんだって」
「体の中……の、ドリル」
ジュノ軍曹は頭をフル回転させてなんとなく理解した。
円空拳の円がヤンにとってのドリルなのだと。
ヤンが円空拳を知らないのに、その動きをマスターしているのと同じことなのだと。
「ヤン君、そのドリルはどこにいくつあるんですか?」
「うんとね、お尻のところとおへその下とお腹のところと胸と喉とおでこと頭の上」
「七つ?」
「そう、七つのドリル」
円空拳の円とほぼ同じだった。
場所はおそらくヤンの表現のせいで誤差があるだけで、きっと同じものなのだ。
「ヤン君はそれ、全部回せるんですか?」
「うん。でも全力で回せるのは五つまでかなぁ」
「私も! 私も五つ!」
ジュノ軍曹は思わずヤンの両手を握り締める。
「あっ……」
思わず恥ずかしくなって赤面したまま手を離して俯くジュノ軍曹。
「すごいね。きっと十年以上は修行したでしょ」
その瞬間、祖父の顔と目の前のヤンの飾り気のない無邪気といってもいい笑顔が重なる。
「えっ、どうしたのペクちゃん!」
今度はヤンが驚く方だった。
慌てて動きを止めてジュノ軍曹の肩に手を置いて顔を覗き込む。
「あ、ごめんなさい。私……なんでもないんです。ちょっと祖父のことを思い出してしまって」
自分が涙を流していることに気付いてジュノ軍曹は慌てて頬を拭う。
「ボクなんか悪いこと言っちゃった?ごめん、本当にごめんなさい」
ひたすらに謝るヤンを見て、ジュノ軍曹もようやく平常心を取り戻す。
「もう大丈夫だから。本当に。ヤン君は何も悪くないから安心して」
それまで敬語だったジュノ軍曹が、ヤンを安心させようとお姉さんぶってタメ語で話した最初の言葉だった。
「ほんと? ほんとにほんと?」
「ほんとにほんとのほんとです!」
すぐにまた敬語に戻ってしまったけれどお姉さんっぽさは健在だった。
「じゃあ良かった。女の子泣かせたりなんかしたらボク、とうちゃんに死ぬほど怒られちゃうよ」
ヤンはもう平常運転に戻ったらしい。
「ふふっ、それもいいかもね」
「えっ?」
思わず顔を見合わせた二人が初めて一緒に大笑いした瞬間だった。
* * * * *
ジュノ軍曹は帝国生まれ帝国育ちだが、その祖父は今は亡きアルトミック王国の辺境にあったイルザーレという小さな町の出身で、道場の歴史もその地で始まっていた。
祖父の祖父の更に前から代々同じ土地に住み続けていたのだという。
そんな故郷を離れ、遠い異国の帝国に定住するという決断がどれほどの痛みを伴ったものであったかを推し量るのは若きジュノ軍曹にはまだ難しかった。
ジュノ軍曹の両親は共に円空拳道場の門下生で、イルザーレの地の幼馴染だった。
二人ともかなり小さい頃から道場に通い、一緒に稽古に励んでいたそうだ。
祖父は実の息子であるジュノ軍曹の父を可愛がり、時に優しく時に厳しく指導した。
しかし、二人が本格的に成長を始める前にアルトミック王国が滅んでしまった。
結果、二人はバラバラになり、祖父と父も故郷を捨てて帝国へ移り住んだ。
この辺りの話は祖父はあまり話したがらず、ジュノ軍曹は曖昧な話しか聞けていない。
ある日、帝国内でばったり幼馴染の母と再会した父はこの機を逃したら二度とチャンスはないものとすぐに結婚を申し込み、母も快諾して道場に隣接する家で暮らし始めた。
母は家族と離れてひとり帝国の食堂に住み込みで働いていたのだった。
こうして運命的な再会から結婚へと、ドラマチックな人生が始まったかのように思われた二人だったが、ジュノ軍曹が生れた四年後になんと事故で共に帰らぬ人となってしまった。
この事故についても祖父は詳細を話してくれなかった。
あまりに痛ましい事故で思い出すのも辛かったのだろうとジュノ軍曹は勝手に理解した。
そこからは祖父との二人暮らし。
家事をやりながら道場で稽古に参加する日々。
道場の門下生たちにもさんざん世話になった。
ジュノ軍曹にとって家と道場が世界の全てだった頃。
そのうち道場に通っていたお年寄りのワン老師という人に、回復士の術を教えてもらうようになった。
ワンさんは元々ジュノ軍曹の母と懇意にしていたらしく、ジュノ軍曹に素質があるから面倒をみてあげて欲しいとワンさんに頼んだのは母だったそうだ。
ジュノ軍曹は道場の稽古そっちのけで必死になって回復士の訓練に明け暮れた。
一般的な回復職は聖魔法が使える神官が担うものであったが、聖魔法の適性がある者に対して簡易的に回復系の魔法のみ習得させて回復士にする、というケースが多かった。
神官に頼むと法外な報酬を要求される場合が少なくなく、軍などの団体・組織が回復士を常駐させようとした時には非神官の回復士を育成するのが常識なのだった。
これに対して、例外的にモンク職が専用スキルとして使う回復術というものがあり、非常にレアなケースながらモンク職を回復士に充当するという場合もあった。
モンク職が使用する回復術というのは聖魔法とは異なる仕組みを用いており、自身の体内に蓄積したエネルギーを治癒のそれに変換して対象に照射する=分け与える、という仕組みになっており、当然魔力を消費するものでもなく、またスキル値を消費するものでもなく、ただ己の体力を削って行うという自己犠牲的行為なのだった。
この回復術使用による体力消費を抑えることと、エネルギー還元率の向上こそがモンク職のレベルであり鍛錬すべき要素であった。
一方でモンク職が使える回復スキルの種類は限定的で、聖魔法のバリエーションと比較すると汎用性という意味では見劣りするので、主流はあくまでも聖魔法による回復なのであった。
ともあれ、ジュノ軍曹は祖父から円空拳を、ワン老師から回復術を学び、比較的幼い時期からモンクとして徹底的に鍛え上げられたのだった。
そして、ジュノ軍曹の運命が動き出したのは十三歳の時――。
偶然通りかかった店舗の張り紙で帝国軍の回復士候補募集を知ったのだ。
これだ!と直感した。
自分が行く道はこれしかない、と。
折しも、その前年に祖父が老衰で亡くなっており、道場は後継者問題を抱えていたが、当時の兄弟子だった師範代が後を引き継ぐ形で決着。
ジュノ軍曹は居心地の悪くなってしまった家を出てどこかでひとり暮らそうと考えていた矢先だったのだ。
すぐに応募書類を書いて、軍の出張所の窓口に提出。
翌日には迎えの兵隊さんが道場までやって来てジュノ軍曹は無事連行……もとい軍の養成所までわざわざ送ってもらってそこから寮生活が始まった。
養成所は回復士班で、神官職でなくとも聖魔法を習得することが出来るというのがウリであった(もちろん聖魔法の素質は事前に鑑定済み)。
ジュノ軍曹は魔法を勉強すること自体が初めてのことで、しかも一方ではモンクの回復術をほぼマスターしている状態だったので、養成所側もどうしたものかと考えあぐねていたところ、入学わずか一週間でジュノ軍曹は複数の属性魔法の素質をも開花させてしまった。
それからわずか半年ちょっとで必須の聖魔法に加えて、火・水・雷の三属性魔法まで習得してしまったのだった。
三属性の方はほぼ独力によるもので(回復士班にそれ用のカリキュラムがなかったため)、誰かに教えられたわけではなく座学による習得だった。
充実した養成所の書庫にジュノ軍曹は心から感謝した。
更に剣術についても半年ほどで一人前の腕前になってしまった。
これは格闘家としての基礎が出来ているため、運動能力が人並外れて高くなってしまっていたことと、ジュノ軍曹自身の学習能力の高さによるものであった。
いよいよ教えることがなくなってしまったので養成所としては通常丸三年かかるカリキュラムを全て終了したものとして飛び級で卒業させてしまうことにした。
二階級特進の十四歳が正式に軍への入隊を認められたのは帝国史上初めてのことで、軍内部ではかなり厳しい声もあったのだが、優秀な回復士であるという一点が決め手となって許可されたのだった。
入隊後しばらくは二階級特進ということで噂の人扱いをされていたが、回復士であるということで一般兵とは一緒になる機会が少なかったため、次第に噂も集束していき最終的には完全に忘れられたかのように存在感を消すことに成功していた。
軍の中で平和な日常を獲得した頃、この迷宮遠征部隊に選出された。
回復士枠の中でも多少魔法と体術も使えるからというのが選出理由とされていたが、基本的には遠征隊の中でも全く無名のままだった。
にも関わらずそこから更に三分の一の確率で迷宮に入るメンバーに選出され、ムンバ少佐率いる第三小隊に配属された。
これは果たして偶然だったのか、なにかの運命だったのか。
今回の遠征はジュノ軍曹にとって、迷宮に到着するまではとても長かったがそれ以降はあれよあれよという間に状況が変化していって理解がおいつかない、というのが正直なところだった。
自分で考え消化する間もなく、行動に移さなければならなかった。
今となってはそれが逆に良かったのかもしれない、とジュノ軍曹は思っていた。
* * * * *
ヤンと朝晩の稽古をしながら、一緒に下層をエンダまで上がったドリルの日々はジュノ軍曹にとって忘れられない、かけがえのない時間だった。
何よりその短い期間で常識では考えられないほど急激に成長できたのだ。
生まれてこの方味わったことのないような高揚感と充足感。
ジュノ軍曹にとって祖父の教え、ワン老師の教えがここで一気に花開いたように感じたのだった。
ヤン君はすごい!
このダンジョンはすごい!
このダンジョンの中にいる限り、まだまだ成長できる確信があった。
だから何があってもヤンについて行きたいと思った。
問題はムンバ少佐や軍のお偉いさんたちがそれを認めてくれるかどうかだったが、幸いにも今こうして上層へ同行する機会にも恵まれた。
でもこれから先はどうなんだろう?
現実問題、帝国軍は将校の人たちでさえ今遅れをとっている状態だった。
仮に遅れてセインに到着したとしても、後からジュノ軍曹たちを追って上層へ上がってくるだろうか。
いや、ボッツ少将閣下なら賢明な判断をするはず。
他の上官たちも無理を迫るような人たちではない。
そうなると今のこの作戦が終わったら自分も帝国軍に戻って行動を共にすることになるだろう。
それでいいのだろうか。
帝都へ戻って、第四大隊に戻って、また今までの生活に……。
せっかくここへ来てから付けた力も発揮する機会がないまま、ただ命令に従うだけの毎日に戻るのは――イヤッ!
そもそも軍に入隊したのは祖父のいなくなった道場でただ稽古だけ続ける日々がイヤになったからだ。
居場所が変わっただけで結局同じことの繰り返しになるくらいなら……。
焦りの見えるヤンの背中を追いながら、ジュノ軍曹は静かに心を決めていた。





