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17 パラレルワールドの静寂 

 いくぶん僕は歩いたと思う。同じ道を。変化すら窺わせない無機質な景色を繰り返して。彼女の歩幅を辿って僕は地面を這う闇を踏みつけ続けた。紫色の蛍光色が宿った手すりを撫でる。繰り返される景色。闇を飾る光は延々と流れている。僕は視界の先にいる彼女に見蕩れていた。僕は彼女に惚れ惚れとしたまま、彼女の揺れる髪をひたすら見据えていた。夜の風をあやかって揺れる彼女の髪を見つめていると、自然と僕の足は歩みを続けた。そこに疲労を覚える感覚は無い。すでに僕の身体から疲弊は消滅してしまっていた。

 彼女の正体を僕はまだ知らない。「迷子の案内人」という概念すらも僕の脳には備えていなかった。根本的なことから僕は知らないのだ。そして僕は彼女に訊ねたのだった。彼女は僕の顔を一瞥する。ただの迷子ですよ。彼女はそう述べた。僕はその発言の意味がよくわからなかった。しかし問い返すことを僕はしなかった。言及してよいものか、それを判断する力を僕は携えていなかったのだ。

 夜の寂寥さを身にまとった彼女は着々と歩みを進めていた。僕もそんな彼女の後を追うだけだった。疲れは感じない。まるで僕そのものが夜の風になったみたいに。僕の中から疲れという概念は失せている。朝に浮かんでいた雲みたいに。今となっては消えている。やがて彼女の歩みが中断する。まるで歩みを進めることに躊躇を覚えたみたいに。彼女が引き摺っていた夜の流れが滞る。淀んだ夜の冷気と共に僕も歩みを停止した。どうしたんですか? 僕は彼女の背中越しに訊ねる。「ようやく見えてきました」と彼女は言った。僕は顔を出して訊ねた。それってどういう――。

 僕は彼女の見つめる先に目をやる。夜に見守られながら続く長い歩道の先に、怪奇な緑色の光が見えた。その光は刹那にきらめく閃光のように鮮明に輝きを放っている。深く明るい緑色の光。僕はその正体を探った。わからかった。なんですかあれ? と、僕は訊ねた。トンネルです。西畑さんはそう言った。あれが見えてきたということはもうすぐ到着しますよ。そうですか。と僕は言って息を吐いた。その吐息を合図に僕の中で忘れていた疲れが目を醒ました。麻酔が切れたみたいに、僕の体に疲れが落ちてきたのだ。忘れていた疲労が肩を遅い、足を襲った。壁を一層厚くしたみたいに疲労が自身の身に乗っかった。西畑さんはそんな僕の状態を察したのか、休憩を取りますか? と確認をしてきた。確かに疲れる道のりでしょう。僕はいえ、とかぶりを振った。大丈夫です。もう少しなんだし、頑張ります。強く撓まれた直後のように感覚のない僕の足を動かそうと試みる。まだ歩けるさ。僕は若いんだ。それに――ひかりが僕を待っている。本当ですか? と西畑さんは訊ねる。ええ、と僕は言った。いきましょう。はい。彼女は視線をくるりと踵を返してその緑色の奇妙なトンネルのほうにへと歩みを再開した。僕も急いで歩みを始めた。夜は闇を深める営みに耽っている。夜の深みはさらに進行していく。

「堀澤さん」歩みを続けながら西畑さんが僕の名を呼んだ。

 はい? と僕は返した。疲れをなるべく悟らせないように注意する。息が上がり始めていた。

「先ほどあなたは私に「あなたは誰なんですか?」と訊ねましたよね」

 ま、まあ。と言って僕は肯いた。今更なんだろう?

「私はただの迷子ですよ」彼女はそう言った。それは先ほど聞きましたよ。僕は言った。

 やがてその奇妙なトンネルの中にへと足を踏み入れる。踏んでいた夜の絨毯は一瞬にして深緑にへと変貌を遂げる。トンネルはコンクリートで作られた象徴的なものだが、何よりも先に強い印象を刻ませるのは天井に並んだ無数のランプだった。そのランプが放っている光が、この奇妙な緑色の光の正体だった。それはまるでメロンソーダの中にでもいるみたいだった。僕の前で世界は鮮明な緑色に支配されていた。多分緑茶の中を泳いだとしても、これほどの緑ではないだろうと思う。それは完全な緑の色合いだった。それ以上の色彩はこの世界からは除外されていた。僕の視界がその不思議な光に包まれる。瞼を閉じると脳がその色に染まる。その色から連想してしまうのはやはりメロンソーダだった。僕は内部で氷を踊らせながら炭酸泡を上昇させているグラスに注がれたメロンソーダを想像した。それから僕は目を開けて、このトンネルの中に浮かぶ氷を探した。もちろんそんなものは無かった。それでも僕は今メロンソーダの中を歩いている気がした。トンネルの表面は冷たい水滴が覆われていることだろう。

 それからしばらく歩みを続ける。奇妙な色に染まったトンネルの中は世界から孤立していた。そして孤立したその空間はその中で、また新たな世界を完成させていた。しばらく歩みを続けているとこのトンネルの中は世界の一部の屍のような気がした。僕は世界の一部の屍の中をさすらっているのだ。その屍の光の中で僕は黒く長い影を足元に引き摺りながら歩いている。

 「迷子の案内人」というのは、迷子の方を元いた居場所に帰すという役目です。それはわかりますか? と彼女は僕に訊いた。確認をとるように。まあ、と僕は曖昧に肯いた。それはなんとなくですが、わかります。それを聞いて彼女は肯く。どんな表情をしているかはわからないけれど。それなら簡単な事です。と彼女は言った。

「私は――いえ、私「たち」は、案内する役目でありながら同時に「迷子」なのです。それはもう二度と正解を見つけることのできない「永遠の迷子」です。私たちはまだそこに「希望」の可能性がある迷子を手助けするだけなのです。私たち――「迷子の案内人」という概念は、希望が廃れてしまって「完結した」迷子なのです」

 ひとしきり話し終えると西畑さんはスーツの袖で目元を隠した。まるで涙を拭うみたいに。上品なグレーのスーツで。彼女がどんな表情をしているのか、僕は確認できない。それでも言えることは、彼女の話したことを僕は毛頭と理解できていないということだった。

 そんなの、わかりませんよ。と僕は彼女の後ろから言った。「永遠の迷子」というのが何か想像もできませんし、まるで見当もつきません。それは僕の理解力が乏しいだけかもしれないだけかもしれませんけれど。僕はやはりわかりません。すみません。

「それでいいんですよ」と彼女は言った。「理解できるほうがおかしいですよ」

 僕は肯く。彼女はゆっくりと歩みをとめた。それに倣って僕も歩みをやめた。西畑さんが振り向く。深緑な光を覆っている彼女の肌。それでも目元を赤く腫らしていることがわかった。なぜ涙を流しているのか、僕にはわからない。彼女の話を僕は理解できていないからだ。否定もできなければ、肯定も僕はできなかった。

「もうすこし早く、あなたと出会っていればよかったです」と彼女はいささか震えを佩びた声調で言った。

 その言葉に僕は思わず頬を赤らめる。そんな僕をみて彼女は優しく微笑んだ。世界の一部の屍にわずかな生気が蘇った気がした。意味がわかりませんよ、と僕は言った。彼女から目を逸らしてしまう。もっと僕は彼女を見つめていたいのに。

 ふふ、と彼女は静かに笑う。「女性を後悔させることが上手ですね。堀澤さんは」そう言って、また笑った。



 私がもしあの時「迷っていなければ」、今頃私は堀澤さんと同じ大学生の生活を送っていたとおもいます。つまりあなたの知る――あなたが一目惚れした――「西畑さん」と同じだったと思います。ですが私は道を踏み外してしまいました。この世界に辟易としてしまっていたのです。あなたのせいですよ? そう言って西畑さんは微笑む。僕のせいなんですか。すみません、と僕は謝る。するとふふ、と彼女は優しく静かに笑って「冗談ですよ」とまた微笑んだ。

「僕の方はいささか西畑さんの話している事とはズレているかもしれませんが……」と僕は言った。「僕も、あなたともう少し早くに会っていたかったです」

「まったくですよ」彼女は言った。「あなたともうすこし早く出会っていれば、今頃このようにはなっていません」と彼女は言った。「「迷子の案内人」なんて、なっていませんよ」

 彼女も昔は、僕とおなじ通常の人生を過ごしていたのだ。そんな彼女がなにを経て「迷子の案内人」へとなったのか。僕にはわからない。なぜ、あなたは「迷子の案内人」になったんですか。僕は訊ねた。

「あなたと同じですよ」と西畑さんは言った。

 僕と同じ?

 そう、と彼女は肯く。「あなたと同じ」

「私も、あなたのようにパラレルワールドに迷い込んでしまったんですよ。そしてあなたと同じように「迷子の案内人」さんに案内されたんですが、帰れなかったんです」

 帰れなかった? 僕はその部分を繰り返した。その言葉を反芻した。帰れなかった? やがてメロンソーダのような世界の屍から、僕らは抜け出す。再び深い夜が僕らを迎えた。

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