16 虚ろな独り言
高木はこの状況が理解できずにいた。振り向いたままの首はその体勢を維持して停止している。何度もまばたきをする。まばたきを繰り返す。一瞬の闇を迎えてすぐに再開する世界の中央には、やはり彼女の姿がいた。その事態が混乱をもたらす。西畑さんの登場に高木は困惑し、そして様々な思考が散らばった。小石を弾ませて跳ねた水みたいに。そして収集できずに焦りを額に滲ませる。ほとばしった思考を急いでたぐり寄せようとする。事態が把握しきれず、え、え? と洩れてしまう声を噤むことすらも不可能だった。あらゆる方向へと視線が泳ぐ。ガラス窓に隔てられ遠くに広がる空。食堂の白い壁。西畑さんの後ろの席で水を吞む茶髪の男。あの、という彼女の声を高木の耳は逃さない。その声のほうへと視線は走る。そして高木は彼女と視線が合った。
あの。西畑さんは不安そうな表情で高木に訊ねた。高木……さんですよね?
わずかに高木は冷静を取り戻す。攪拌した思想は元いた位置にへと踵を返していく。焦りが額から退いていき、なんとか西畑さんと視点を合わすことができた。なんと返答すればいいのだろうか。高木は言葉を即座に選ぶ。「そ、そうですけど」それだけだった。それしか浮かばなかった。水の中で息絶えたみたいに。水面から泡沫が浮かばなくなるみたいに。
西畑さんは高木の顔を覗き込んで訊ねる。前の席いいですか? 構いませんよ、と高木は言った。彼女は小さく礼を言って高木と向き合う椅子に腰をおろした。高木はオムライスを一口食べた。何度か噛んで吞みこむ。その作業が終了するのを彼女は黙って待っていた。すみません。高木は水を吞んでからスプーンの動きをやめた。彼女は構いませんよ、とかぶりを振った。そして高木の顔をみつめた。可憐な瞳の内部に高木の顔が描かれる。その瞳からでも自分が仄かに紅潮しているのがわかった。この状況のことを堀澤が知ったらどうなるだろう、と高木は思った。嫉妬って程度で終了するはずがないな。そう考えると思わず苦笑が洩れそうになった。そして俺はなぜ彼女に頬を赤らめているのだろうか、と疑問を抱いた。すでにわかっている。彼女がそれだけ美しかったのだ。堀澤が一目惚れするのも理解できる気がした。彼女は静寂な空から降る雪を迎える花のようだった。ところで。高木はこめかみを掻きながら小さく訊ねる。お、俺になんかようでしょうか? 自身の緊張がその口調から露骨に表れている。彼女は高木から視線を逸らす。いや、あの……。という声をこぼす。高木は首をかしげる。そこから続くとおもわれる言葉を待った。
「あの……。ほ、堀澤さんは大学に来ていないんですか?」
そのぎこちない口調に苦笑する前に、高木は思わず「は?」という声をこぼしてしまった。虚ろに。声が洩れる。悪い癖がでた。堀澤? その名を耳にして高木は驚く。なぜ西畑さんが堀澤の名前を出すのだ? その意味が高木にはわからなかった。立場が逆ではないか? 堀澤なら、最近大学に来てないんです。と高木は説明した。彼女は弱い声で「そうですか」とだけ述べた。でも、どうして? 高木はそう訊ねられずにはいられなかった。いえ……なんでもないです。彼女はそう返すだけで、質問の意図は曖昧なままの状態で隠した。言葉がつづくような気配はなかった。あきらめて高木はスプーンを手に取る。それからオムライスを食べた。
オムライスを食べながら高木は彼女をみた。彼女はなぜか席を立つことをしなかった。無機質で意思を携えていない視線は、食堂の白いテーブルの角に注がれていた。まだなにか訊きたいことがあるのだろうか。いや、訊きたいことがあるのは自分のほうだけれど。なぜ彼女は堀澤のことを訊ねてきたのだろう? そしてなぜ彼女は俺に声をかけたのだろう? なぜ黙っているのだろう? やがて疑問は渦を巻きはじめる。静かに回りはじめる。高木は混乱した。高木の思考と疑問は、まるで誰もいない夜の孤独なメリーゴーランドのようだった。。もうすこしで午後の講義が開始してしまう。急がなければ。高木はオムライスを口に運ぶ作業を急かした。それは辟易としてしまう自身の混乱を曖昧にしてしまおうという意思からでもあった。
それでは俺はそろそろ……、という高木の声で西畑さんははっとする。そして今まで自分はぼんやりとしていたことに気がつく。気がつけば高木はオムライスを平らげていた。白い皿の表面には主役を喪失した後の余白だけが残っている。そして高木は水を一気に喉に流し込んで、食べ終わった皿の上にそのコップを置いた。そしてそれを両手で持って立ちあがる。西畑さんはあ、はい。すみませんでした。と言って頭を下げた。いえいえ、と高木は言って微笑みを作った。作った、微笑みだった。作り笑い。
西畑さんは離れていく高木の背中をゆっくり見つめる。高木の背中からは屈託さを背負った憂鬱が孤独にたたずんでいるような気がした。深けた夜の足元を照らす一本の電灯みたいに。彼が一体どんな状況に囚われているのかは知らない。けれど彼女は高木に同情の感情を覚えていた。その哀れむ気持ちは視界に映るようだった。高木の背中はそのまま遠くの虚空へと消えていく。白い霧に包み隠されてそこに高木がいたという事実は消失する。そんな気がして。西畑さんは声を上げてしまっていたのだった。「あの!」
高木の歩みが滞る。振り向く。はい? と声がした。彼女の張り上げた声は彼の耳に届く。誇張した憂鬱の抽象的な空気の中で彼女の声は透き通る。
「……あの」高木が振り向いたことで二人は再び目が合う。西畑さんは声を口元まで持ち運ぶ。強く結んでいる唇のわずかな隙間を彼女の声は探していた。訊ねたいことはただ一つだった。やがて彼女は訊ねた。
「堀澤さんは、帰ってきますよね?」
その発言は、高木の心底で十分すぎるくらいに強く弾んだ。帰ってきますよね? 言葉が静かな密室で響いた音みたいに繰り返される。なぜ彼女がそんなことを訊ねるのかはわからない。西畑さんの黒い前髪が揺れる。静寂の中で花が揺れる。一体どういうことだ? 一瞬。高木は自分はいま夢をみているのではないか、と思った。けれどそんなはずはない。西畑さんの今の言葉の意図が摑めなかった。それは単なる質問なのかもしれないし、「パラレルワールド」に関する何かを示唆するものなのかもしれないのだ。仮にそうだったとして、なぜそんなことを彼女が訊ねるのだ? 西畑さんは堀澤と知り合いだったのか? いつ知りあった? 高木が知るかぎり、そんな風には思えなかった。じゃあなぜ? 高木は西畑さんを見る。西畑さんは高木の返答をじっと待っていた。その視線の先には高木の顔が映っている。高木は息苦しさを覚えずにはいられなかった。きりきりとした空気の中で高木は彼女を見つる。彼女は一体、何者なんだ?
その刹那。ふと、ある思想が脳裏を過ぎった。それは摩擦のような熱を残して消えていった。その一閃の想像に高木は自嘲気味な笑みがこぼれた。西畑さんはその笑みを見て不思議に思う。高木のそれはただの憶測にすぎない。その想像は真実ではない。あくまで高木の、「そうであってほしい」という希望だ。それにすぎない。
彼女は堀澤のストーキングに気づいている。そして彼女も密かに、堀澤のことを気にかけている。堀澤が彼女に一目惚れして、その瞬間から目で彼女を追うようになったみたいに。彼女も――。彼女も堀澤の姿を目で追っていたのではないか?
そう思うと高木は再び笑みが洩れそうになった。自分の勝手な解釈なだけなのに、そうとしか思えなくなったのだ。もしかするといま自分の前にいる彼女はパラレルワールドから訪れた西畑さんなのかもしれない。しかし、それを訊ねることはしなかった。どちらでも構わない。高木は苦笑を洩らす。やれやれ、と思った。堀澤は彼女を求めている。そして西畑さんも彼を求めている。自分の憶測だけれど。暫定的なものにすぎないけれど。高木はそれで納得してしまっていた。
「あいつは帰ってきますよ。絶対」
高木はそう言った。そして微笑んだ。今度は作っていない微笑みだった。素の感情がもたらしたものだ。その言葉を聞いて西畑さんも微笑む。そして肯いた。美しく揺れる束ねられた黒髪が、その空間の空気を美しく震わせた。彼女は静寂の中で肯く。空気中に豊富な色彩を配っていた。夜の空に寛大に浮かんだ月の光みたいに。
彼女は頭を下げる。ありがとうございます、と礼を言う。そして食堂をでていった。午後の講義に向かったのかもしれないし、パラレルワールドに帰ったのかもしれない。どちらでも構わない。彼女が堀澤を求めていることに変わりはないのだ。自分の憶測だけで断定するのはどうかと思うけれど。
なあ、堀澤。と高木は脳裏で呟く。お前が失くしてしまったものなんて、どこにもねえじゃねえか。なに自分自身もよく知らねえ場所いってんだよ。自分探しの旅みたいなことしてんだよ。お前は世界に置いていかれたわけじゃない。世界はお前に希望を残している。希望を散りばめている。夜空を飾る星みたいにな。だからよ、帰ってこいよ。違うな。俺が迎えに行ってやるよ。だからよ、そこで待ってろ。
「そこで待ってろ」
高木は笑みを洩らす。作ったものではない。本物だ。高木の意思をあらわす真実のものだ。それから今の呟きが口元から洩れてしまっていないか確認する。洩れちまっていてもいいか。構わない、と高木は思った。




