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15 パラレルワールドの静寂 

 僕は今どこを歩いているのだろう。僕がこの歩道を歩き始めて、何分ほど経過したのだろう? それすらも見当がつかない。歩き始めても一向に景色に変化は無い。だからまだあまり時間は経過していないのかもしれない。それでも長時間歩みを進めている気がする。一時間くらい。僕はまるで同じ風景を繰り返して繋ぎ合わせられたような景色の中を歩いていた。僕の前には西畑さんが着々と歩みを進めている。どこに向かっている? 先の先にある闇に向かってる。そして僕は本当にここが「歩道」と名づけてよいものか、と考えてみる。

 自動車が一台通れるほどの幅をした道路がある。それを挟むように人間一人ほどが通れそうな幅の歩道があった。その道二つを隔てさせるのはガラス製の柵だった。僕はその歩道――あまりにも奇妙だが、僕はそう名状させてもらう――を歩いていた。その歩道のさらに隣にも僕の腰くらいの高さをしたガラス製の柵が挟んである。それよりも外は奈落が広がっている。その柵から身をのりだしてみる。奈落の底へと視線を落とす。光彩が散りばめられた夜景が限りなく広がっていた。空にはむかっているような姿勢の高層ビルの数々。無数の建物。それらはすべては夜に喰われている。支配された闇の中で弱々しくも存在を主張する光。まるで恐縮です。すみません。すみません、と謙虚に呟いているようだった。夜を謙譲している。それらの滑稽じみた光たちは無数に存在していた。どれもこれもが夜をへりくだっているような謙虚な光の粒だった。闇に吞まれ沈んだ街。敵わないと知りながら、それでも抗う体制をとる光の大群。まるでそれが一つの夜空のように。そう僕は想像した。本来の夜空の下には、偽りの夜空がある。下界のように。まるでこのパラレルワールドのように。僕はこの残虐な夜空に感想を述べる。それに平行して歩みを義務的に進めた。それでも景色は変貌を遂げないままでいる。

 西畑さんはなぜかグレイのスーツを着ていた。その花を飾るものとして認定されたグレーのスーツは律儀なものだった。しわなどもちろん見当たらない。西畑さんの細い身体の曲線をそのグレーのスーツは明瞭になぞっている。西畑さんに代わって「合格」と僕が認定した。あのグレーのスーツのような人間に僕もなりたい。僕はそのグレーのスーツを尊敬した。律儀で清潔なスーツとは対称的に、足元を彩るのはプーマのテニスシューズだった。白い背景の中を紫色のトラックレーンがカーブを描いて刻まれていた。どこにでも目にするようなスニーカーだ。この状況から連想すれば、このテニスシューズの意味も納得できる。そして僕はそのテニスシューズを尊敬した。憧憬を抱いた。

 「あの」と僕は恐縮しながら小さく声をあげた。西畑さんは歩みをやめる。はい。なんでしょう? とそして言った。いや、歩いたままでいいですよ、と僕はあわてて言った。西畑さんははあ、と肯いて歩みを再開した。僕も後を追う。「僕は今どこに向かっているのでしょう?」

「元の世界です」と西畑さんは歩きながら言った。「まだしばらく距離があります。休憩したかったら、いつでも声をかけてくださいね」

 わかりました、と僕は言ってから再び夜景に視界を移した。夜景が見渡せるということは、ここは結構高い位置にあるんだな。そういえば先ほどから葉っぱ同士がさすりあう音がしているような気がする。冷えた風が夜をさすらう音も耳元を走っている。どうやらこの道は森の中に存在しているようだ。いわばこの奇妙な道路は、橋なのだ。しかし長いな。このガラス製の隔たりを跨いであの奈落に落ちていくとどれくらいの高さなのだろう? ふと僕は興味を抱いた。結構な距離だろうと思う。真下の夜景は飢えた猛獣のように僕の足元を覗いている。そんな気がした。僅かになびく風の音が、夜の笑い声にも思えた。ここはどこなんですか? と僕は西畑さんに訊ねた。元の世界へと繋がる道ですね、と西畑さんは言った。即答だった。これまでにも質問されてきたのだろう。僕みたいな人間が他にいるとしてだけれど。

 しかしこの橋は奇妙なものだった。夜景の奈落と足場を隔てるガラスの柵は、手すりの部分が鮮明なピンク色の光を放っていた。趣味の悪い色だった。まっすぐ先だけを見据えていても、視界の左右からはその奇妙な光が入り込んでくる。わびしいイルミネーションのような光だった。右手の手すりから左手のてすりまでの間隔に闇を挟んで、二本のピンク色の光はまっすぐ伸びている。まだ確認できない終着点まで。その色を長々と視界に映していると頭がおかしくなってきそうだ。僕は足元に視線を落とす。足元は真暗な闇を広げていた。手すりが放つ光が届いていなかった。なので自分の足元を確認することはできなかった。自分のスニーカーは夜に隠れてしまっている。

 それからも僕は歩みを続けた。やがて足が痒みを憶えはじめる。体力的な疲労が蓄積をしはじめたのだ。長い間歩いた気がする。景色は変わらない。一つの夜空となった夜景もデジャヴを繰り返している。西畑さんは疲れを感じさせない歩みを続けていた。体力があるのだな。あの、と僕は声をかけた。はい? 西畑さんは歩みを中断せずに返事をした。まだ着かないんですか? もうすぐです。すみません。長いですよね。疲れましたか? 西畑さんの声を聴くかぎり、彼女は疲れていない。いえ、別に。僕は嘘をつく。十分すぎるくらいにハードな道のりだ。息が上がりはじめている事実を僕は隠す。西畑さんの歩幅に合わせる。自分の口元から喘ぎが零れそうになる。

 歩みを続けるたびに西畑さんのポニーテールは、静かな揺れを見せた。束ねられた髪が左右に揺れる。揺れるたびに白い首筋が覗く。その首筋は無防備さを装いながらも、まるで意図的な行為のように僕の心内を焦らしてきた。はあ、と僕はため息を洩らす。短い空白を作るように。彼女の髪が揺れる。僕は彼女の背中だけを限定していた視界に、夜空を加えた。散らばった粒子のような星が光を放つ。その輝きは彼女の身体を包んだ。その景色に僕は感嘆の息を上げた。あまりに彼女は美しすぎた。その姿はこの世界を背景にしてすでに完結を果たしていた。気がつけば僕は疲労を忘れ、ただただ歩き続けていた。彼女の足跡をたどっていた。彼女の輝きをあやかるように。無邪気に。無意識に。

 夜の風の音。夜に喰われた街。夜に染まった景色。夜に歯向かう光。夜を引き摺って歩く彼女の背中。沈黙の中で揺れるポニーテール。僕は見蕩れる。必然的な行為のように。その圧倒的な夜の幻想風景に、僕は感嘆からもたらされるため息を、ゆっくりと虚空に洩らしたのだった。僕を残して完結してしまったその夜の世界は、彼女を美しく寂寥な闇の中にへと閉じ込めた。彼女は歩きを続ける。どこに向かっている? 彼女は僕を案内しているんじゃない。彼女は夜の静寂の中を迷っている。悲しみを抱えた夜の涙を拭うように。その世界の慈悲の欠片を抱擁するように。彼女の背中が離れていく。僕は焦りを憶えて声を出す。彼女の背中が闇に隠れるまえに。僕は訊ねる。「あなたは――」

「あなたは一体、誰なんですか?」

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