第22話.秘したがる英雄
白い天井が目に入った。
「…………?」
首を動かさないまま、ぼんやりと、眼球のみを動かして周囲を観察する。
夕焼けの柔らかな光が差し込む室内には、見覚えがあった。学院一階の角にある保健室だろう。
一度案内を受けたきりの場所だが、元々の世界で何度かお世話になった保健室とよく似たデザインだから、不思議と安心感を覚える。自分はどうやら、そのベッドに寝かされているようだ。
開いた窓から流れ込んた風がカーテンを揺らし、汗で湿った前髪と額の間をやさしくすり抜けていった。
まだ意識はぼぅっとしていたのだが、ナナオはその風に背中を押されるようにして、腕を使いつつ上半身を起こしていく。
そして、起き上がったナナオの目の前に。
天使が居た。
「すぅ……すぅ……」
規則正しい寝息を立てる、金色の天使。
夕陽色のやさしいオーラに包まれた彼女は、ナナオが寝ていたベッドに上半身だけ預け、椅子の上ですやすやと眠っている。
組んだ両手の上には小さな頭が載っていて、乱れた髪の毛の間から、長い睫毛と目蓋が覗いていた。唇がちょっとだけ開いていて、そこから洩れる呼気さえも、何やら甘い香りを放っているかのようだ。
起こすのは悪い気がするし、もう少しこの寝顔を見ていたいという本音もあったが、状況を確認するためにも起きてもらう必要がありそうだ。
「シア、起きて」
呼び掛けると、レティシアは軽く身動ぎをした。
「ニャンニャン、起きて。もう夕方だよ」
「……ニャンニャンではなく……レティニャ・ニャ・ニャ……ですわ……」
ナナオは噴き出しそうになるのを何とか堪えた。
何なのこの生き物。可愛すぎるんですけど。
「ふぐッ……れ、レティシア……」
口元を抑えつつ、細い肩を控えめに揺さぶる。
すると「うむむ」と変な唸り声を上げつつ、やがてレティシアが――むくり、と身体を起こした。
目元を何度か擦りつつ、きょろきょろ、と現状を確認するように辺りを見回す。
それからパチリ、とナナオと目が合った。
「な――ナナオ! 目が覚めたのですね!」
目が合ったかと思えばものすごいスピードで飛び起きるレティシアに、「う、うん」と頷くしかないナナオ。
「大丈夫ですかっ? 身体にどこか痛む部分はありませんかっ?」
ぺたぺたぺた、と頭や肩やら腰やら、いろんな場所にボディタッチしてくるレティシア。
かなり積極的な行動に、思わずドキドキしてしまうナナオ。ナナオのことを女性だと思っている以上は、レティシアの行為には何らおかしいことはないのだが……でも何というか、レティシアの白い手に触れられると、ほんの少し妙な気分というか……
「なんか妙に全身がバッキバキですし! やはり魔王から何かの攻撃を喰らったのでは」
「あ、いやそれは筋肉――ううん、大丈夫。一箇所だけ致命的な攻撃を喰らいはしたけど」
それ即ち男の急所で、股間っていうんだけどね。
気絶する前の激痛に比べれば大分マシになってはいるが、まだ違和感が残っている下半身である。
「致命的な攻撃!? どこですか、まさか精神攻撃の類を……!? わたくしが誰か分かりますかナナオ!」
「わかる。レティニャ・ニャ・ニャ」
「ふざけてますの!?」
すごい勢いで怒られた。さっき自分で言ってたのに。
――というか俺、いつの間にか着替えてる?
ナナオの頬をだらりと冷や汗が伝う。
自分の身体を見下ろしてみると、病院の入院患者が着るようなパジャマチックな服装になっていたのだ。
普段はフリルましましのスカートやらで隠しているといっても、これを脱いでしまえばナナオの身体は完全に男のそれである。何をどう頑張っても誤魔化しようはない。
レティシアの普段通りの態度からして、彼女が着替えさせてくれたとは考えにくいが……。
「シア。あのさ、俺を着替えさせてくれたのって……」
「フミカさんがひとりでやる、と言い張ってアナタを着替えさせたのです」
レティシアの言葉に、毛布の下でナナオは密かに拳を握った。
サンキューフミカ! やっぱり持つべきモノは頼りになるルームメイト!
「そのフミカはどこに?」
「アナタと一緒に毛布の中にくるまってますわ」
一応止めたのですけど、となぜか唇を尖らせてレティシア。
えっ、と驚いて毛布をめくってみると、本当だった。
「むにゃ……」
とか言いつつ、フミカが白いシーツの上でナナオに寄り添うように眠っている。
そのあどけなくも可憐な寝顔にほっこりしつつ、気持ちよさそうだったのでまた毛布を掛けておいてあげた。
「それじゃリル……じゃない、あの白猫はどこに行ったかわかる?」
「明け方までは姿を見ましたわ。使い魔は、主から供給された魔力が不足すると異界に引き戻されるそうですから、あの神獣もおそらくは」
なるほどなるほど。
調子よく納得していたナナオだったが、レティシアの発言には一箇所、聞き逃せない部分があった。
「え? 明け方って……シアはずっとつきっきりで俺の看病をしてくれてたの?」
「あ――」
失言だった、というように口を覆うレティシア。
「あ、違――授業の合間を縫って、とかですしっ。その、だってナナオが……目を覚まさないから」
「俺のことを心配してくれたんだね、ありがとう」
「しっ、しんぱ……しますわよ、心配! 当たり前でしょう!? アナタは魔王と戦っていたのですから!」
開き直ったように小声で怒鳴ってくるレティシア。
それにしても、日付が変わっているということはつまり、
「そうか。俺は一日半近く寝たきりだったんだな……」
さすがに寝過ぎだった。それでもまだ股間が痛むってどういうこと? なんかいろいろ大事な機能を失ったりしてないだろうか。
するとレティシアがさらりととんでもないことを言った。
「違いますわ。アナタが寝ていたのは約二日半です」
「ふ――二日!?」
目を剥くナナオに、嘘偽りない表情で頷くレティシア。
そこでタイミング良くというべきか、ドアを開けてサリバがやってきた。
「意識を取り戻しましたか、ミス・ミヤウチ」
「は、はい。おかげさまで……」
「さっそくで申し訳ありませんが、話したいことがあります。……ミス・アルーニャ」
ちらりと目配せされ、レティシアが慌てて直立する。
「でもサリバ先生。まだナナオは疲れている様子です」
「話をするのはほんの数分ですので」
サリバが簡潔に答えると、まだレティシアは何か言いたげだったが、渋々と頷く。
「ほら、フミカさん。アナタも出ますわよ」
「うぅ……眠い……」
布団の中で丸くなっていたフミカも、レティシアにずるずると引きずられていく形で保健室を去っていく。
ふたりの姿を見送ってから、サリバが改めてナナオの顔を見る。
ベッドから出ようとするのは片手で制しつつ、彼女はまずこう言った。
「ミス・ミヤウチ。我々にも遠巻きに、貴女が魔王の猛攻を凌いでいるのだろう姿が何度か確認できました」
これは怒られる流れだなー、と察するナナオ。
だが、違った。サリバはその神経質そうな瞳をほんの少し細めて、ゆっくりと、ナナオに頭を下げたのだ。
「教師という立場上、本来守るべき生徒に向けるべき言葉ではないかもしれませんが――ありがとう。貴女がいたからこそ、今も学院や他の生徒たちは平穏無事です」
「…………いえ、そんな。俺は……」
「その上で、やはりこんなことを恩人である貴女に訊きたくはありませんが、それでも私は訊かなくてはなりません」
ナナオは息を呑む。
次に顔を上げたサリバの表情は、犯人から情報を引き出そうとする刑事のように厳格に引き締まっていたからだ。
「魔王は、貴女のことを狙っていました。その理由に心当たりは?」
正しくは、魔王の狙いは女神リル――が入った、猫型のぬいぐるみだった。リル本人が項垂れつつ認めていたので、間違いないだろう。
だがサリバからすると、ナナオの腕に抱えられたリルが狙われていたか、ナナオ自身が狙われていたかまでは判断がつかなかったはずだ。それはナナオにとって一種の幸運だった。リルのことを追及されれば、なし崩し的にナナオの正体や前世のことまでも露見する可能性があるからだ。
だが、ナナオはこう答えた。
「あります」
ぴくり、とサリバの眉が跳ねる。
ナナオは嘘を吐くのがあまり得意ではない。無論、駆け引きとか頭を使うタイプの戦術も。
だから馬鹿正直にでも認める他なかった。
「でも理由は話せません。俺自身にも、まだわかってないことが多いので」
「……ミス・ヘーゲンバーグとの決闘にて、貴女は魔王を倒すという旨の宣言をしましたね。その発言と今回の襲撃に、関連性はありますか?」
「……あるとは言い切れないですが、ちょっとあります」
我ながらめちゃくちゃ曖昧だな、と自覚しつつ、何とかそう答えるナナオ。
いよいよサリバが怒って氷魔法で拷問とかしてきたらどうしよう。そうナナオが焦り出したとき、サリバはそれは深い溜め息を吐いたのだった。
「……今回の件は不問に付します」
「サリバ先生!」
「学院の生徒たちや王国には、囮になって魔王を引きつけようとした貴女が、森で穴に落ちて気絶をしていたと説明します。その間に魔王は魔国に引き返したようだ、と。……疑われるかもしれませんが、貴女も話を合わせるように」
「わかりました!」
「ですが――本来貴女に与えられるはずだった賞賛はこれで失われました」
サリバの黒目がちな瞳が、じっとナナオを見る。冷酷無慈悲で生徒たちに恐れられるサリバの瞳には、しかし普段とは異なる迷いの色が感じ取れた。
だがナナオは迷わず首を振った。
「どうでもいいです、そんなの。俺には必要ないものですから」
「……そうですか」
僅かに目を見開いたサリバが――注視していないとわからない程度に小さく、頷く。
「では今後、この学院に在籍する以上は、危険勢力との戦闘行為の一切を禁止とします」
「えっ? それは約束できません」
「……ミス・ミヤウチ」
あ、しまった。ちょっとだけ柔らかくなっていたサリバの怒気がまた強まっている。
焦りつつ何とか弁解を試みるナナオ。
「だって、大切な人が目の前で傷つけられそうになったら飛び出して助けるしかないじゃないですか。だからそれを禁じられたら困ります。というか無理です」
「……貴女という人は」
「それに先生だって、俺たち生徒を魔王から庇ってくれたじゃないですか!」
――ぐ、とサリバが言葉に詰まった。そのようにナナオには見えた。
「それは……私が貴女たちを守るべき立場の人間だからです。論点をずらすのは止めなさい」
「ずれてないです。だってサリバ先生はきっと、俺たちがまったく無関係のそこらの悪ガキだったとしても、迷わないで助けてくれたでしょう」
「ただの買い被りです。私は――!」
それきりサリバは口を閉ざしてしまった。
言いかけた言葉を、まるで自ら無理やり呑み込んだかのような挙動に、ナナオは瞬きをする。
だがサリバはまたいつもの鉄面皮に戻ってしまった。わずかに剥がれかけた仮面を、素早く元の位置に貼りつけたかのように。
「……いえ。では、こんなことは金輪際あってはならないことですが、もしまた貴女が教師からの許可なく戦闘行為に及んだ場合は、即刻退学処分とします」
「……分かりました」
致し方なく頷くナナオ。サリバの危惧も当然なので、これ以上文句は言えまい。
それで話は終わったのか、サリバは無駄のない動きで振り返り、保健室を出て行こうとした。
しかしドアに手をかけたところで、ほんの小さな囁きが聞こえた。
「…………貴女は、嘘だけは吐かなかった。その点を私は個人的にですが評価します」
「え――」
ピシャン! とドアが閉まる。もはや取り付く島もなしに。
すると急に気が抜けて来て、ナナオはふらふら~と、またベッドに倒れ込んだ。
「はぁ……」
なんか――大変なことになってきたな。
まさか転生して一週間足らずで魔王と相対する羽目になるとは、夢にも思っていなかった。
しかもその素顔を偶然ながら目撃したことによって、ナナオにとって魔王はただの記号ではなくなった。倒せば全部が丸く収まる、なんて簡単な話ではなくなってきたのだ。
先行きは見えないままで。
リルが傍にいる限り魔王から狙われるのだとしたら、むしろナナオはこの学院に居ない方がいいのかもしれない。名前も知らないどこか遠い場所で、ひとりで暮らした方が良いのかもしれないけれど。
でも――
「ナナオ! 話は終わりましたか!」
「……ナナオ君。げんき?」
――彼女たちを守るには。
「――うん、終わった。そしてめっちゃ元気だよ」
ナナオはわざと両手の拳をにぎにぎして、歯を見せて笑う。
もっと強くなろう、と胸の中だけで決意を固める。
剣も魔法も。……あとできれば下半身も。