第20話.魔王の素顔
お読みいただきありがとうございます!
ちょっとしたお知らせですが、魔法科クラス入学の生徒数を12→20人に変更しました。
そのため9話以降は一部訂正箇所があります。よろしくお願いします。
木の枝に躓いた魔王が尻餅をつく。
魔王としてはあまりに気の抜けた失態を前にして――キラーン、とリルは菫色の目を輝かせた。
『しめたっ!』
きっと人間形態だったらパチン、と指を鳴らしていただろう。
しかし今のリルは猫の姿だからか、シャキンと鋭い爪が伸びただけだった。それにしても高性能なぬいぐるみである。
『これは千載一遇の好機よナナオ! その剣で魔王をブッ刺すか、あの最強魔法でも何でも出して丸焼きにしてちょうだ――えええっ!?』
だがこれ以上無くテンションが上がっていたリルの言葉は、途中でひっくり返って中断される。
というのも、リルの目の前でナナオが……剣を放り投げて、一目散に走り出したからだ。
それも転けたばかりの魔王に向かって!
『ちょっ……何してんの!?』
もしかして素手で殴るのか? ともリルは思ったが、違う。
ナナオは軽くリルを振り返りながら、事も無げにこう言ったのだ。
「何って、魔王が転んだから助けようと思って」
『はああああああっっ!?!』
何――言ってんの!?
しかし驚きすぎて顎が外れたのか、リルの驚きはもう言葉にもならない。
そんな女神を置き去りにして、魔王のすぐ傍まで辿り着いたナナオは、未だ呆けたように地面に尻をつけている黒フードに向かって右腕を差し出した。
「だって魔王って言ったって……この子、まだ小さい子どもだろ?」
ぎくり――としたのかは分からないが、魔王の肩のあたりがちょっと強張ったように見えた。
そう。裾の長い黒衣を纏うことで誤魔化してはいるが、小柄なフミカよりも、魔王はさらに小さい。
八歳のケータよりは大きいので、十歳くらいには達しているのだろうが、それくらいの年齢の子が魔王なんて重い責務を背負っていることがナナオには信じられなかった。
結局、リルが役立つ武器を与えてくれたところで、それを子どもに対して振るうなんてことはナナオにはできそうもない。
せいぜい強大な魔力によって生み出された矢や槍を防いで弾き飛ばすくらいが限界だ。そして空気が弛緩した今こそ、この無駄に規模のでかい戦いを終わらせるチャンスなのかもしれない――とも。
ナナオは考えつつ「ほら」と魔王を急かす。
だが魔王はなかなか動こうとはしない。まるで魔法で氷漬けにでもされているかのように、ナナオの方を向こうともしないのだ。
どうしたものか、とナナオは頬を掻いた。
魔王からすると、ナナオはさっきまでリルの味方として振る舞っていた相手。そう簡単に信用できないということだろうか。
「……あ、そうだ」
そういえば大事なことを忘れていた。
腕を差し伸べたまま、ナナオはにこっと笑った。目つきの悪さで怖がられないよう、なるべく柔らかい笑顔を浮かべたつもりだ。
「俺、ミヤウチ・ナナオっていうんだ。よろしく」
「…………」
「君は? 魔王じゃなくて、ちゃんと名前があるんじゃないの?」
「…………」
魔王は答えない。
だが、あの張り詰めていたような殺意は気がつけば霧散している。俯いたままのフードからは、僅かに戸惑いの気配が伝わってきている。
やがて、本当に長い時間をかけて、おずおずと……青白い小さな手が、ナナオの腕に縋るようにして差し出される。
やはり、意外と魔王は話の通じる相手なのかもしれない。
上手く行けば、もしかしたら話し合いに持ち込めるかも――そうナナオが期待したとき。
『あのねー、どこの世界に魔王に友好的に話しかける勇者がいるのよ』
「…………!?」
びくり! と、その小さな手が震える。
見ると、ナナオの両足の間にぴょこんと、リルがその小さな顔を出しているではないか。
「ちょっ……リル! 今はまだ――」
制止しようとしたナナオだが、それはもう完全に手遅れだった。
収まりつつあった魔王の殺意が、一気に膨らむ。リルの姿を目にした瞬間、怒濤の勢いで。
『ひっ! ヤバっ!』
この間近で殺気に当てられてびびったのだろう、リルが慌てて駆け上がる。
それも何と、樹木に見立てるようにしてナナオの背中を……だった。
そんなリルの手当たり次第な行動に、急に嫌な予感を覚えるナナオ。
頭の中で警鐘が鳴っている。何だろう。何かものすごーく、大事なことを見落としているような。
――状況を整理してみよう。
魔王は依然として、躓いて尻餅をついている。
そんな魔王の目の前に急にリルが姿を見せたため、魔王はかなり気が立っている様子だ。
慌てたリルはナナオの背中を駆け上がって、何とか魔王から逃げ果せようとしている。
するとどうなるか?
魔王は、当然ながら……隠れようとするリルの姿を追って、反射的に攻撃してくるのでは?
「――ッ!」
「え? ま、待って。待っ――」
やっぱり、何もかも間に合わず。
魔王は逃げる猫のシルエットを追うようにして、右足を振り上げる。
この距離で炎や雷の魔法を使えば自分ごと傷ついてしまうだろうし、妥当な判断ではある。そう、妥当ではあるのだが。
結果的にそれは起こった。
魔王の放った鋭すぎる強烈な蹴りが、ナナオの股間へと直撃したのだ。
いッッ――――――、
瞬間。
痛いとか、そういう一言では済まされないレベルの衝撃がナナオを襲った。
股間から脳天までもをブチ抜くような激痛。激痛! 激痛の嵐!!
もはや上下左右が分からない。理解できない。自分は立っているのか? 座っているのか? 転げ回って悶絶しているのか? 下半身はいっそ丸ごともげちゃったりしているのでは?
どっと全身から噴き出た脂汗と涙の湖で溺れ死にそう。奥歯は噛み締めていたが、歯の間からは悲痛な叫び声が何度も漏れ出てくる。
死ぬ……マジで死ぬ、これは!
『な、ナナオ? ごめんなさい、大丈夫……?』
さすがに悪いと思ったのか、おろおろと顔の周りをリルが彷徨っているが、答えるほどの元気もナナオにはない。
『くっ、悪しき魔王め! 童貞の股間をここまで痛めつけるとは……恐るべしっ!』
ツッコむ余裕も当たり前だが無かった。
しかし痛みにもんどり打って苦しみながらも、ナナオは見た。
脳裏に焼きつけるようにして目にしたのだ。
「ぁ、お……、おと、こ……ッッ!」
わなわなと震える、小さな唇。
フードの陰にほとんど隠されながらも、それでも僅かに見えた――魔王の素顔を。
「えっ……?」
ナナオがそれを見たことに、魔王も勘づいたのだろう。
慌てて、乱れかけていたフードを再び深く被り直す魔王。
そしてナナオにとっては運の良いことに、聞き覚えのある数人の声が近づいてきていた。
「ミス・ミヤウチ! どこですか!」
「ナナオ! ナナオ、無事ですか!?」
「……ナナオ君! きこえてるなら返事、して!」
サリバ。それにレティシアやフミカも。
未だ色濃く残る痛みに苦しみつつ、微かに笑みを浮かべるナナオ。
それに対し魔王は、何かしらの動揺があったのか。
この場面で引く必要もないだろうに、身体にバチバチッ、と紫電を纏わせると、あっという間に空に吸い込まれるようにして飛んでいってしまった。やって来たときと同じ、とんでもない速度で。
「……なぁ、リル……」
その軌跡を見送りつつ、ナナオはどうにかして口を開く。
「お前……俺に……」
だが、その先は言葉にならない。やっぱ股間痛すぎる。まともに喋れん。
リルからの返事はないままだったが、気配は変わらずすぐ傍にある。何だよ、と思い視線だけ動かしてみると、リルは呑気に毛繕いをしていた。ほんとに何なのこの女神。
「……あっ! サリバ先生、あちらですわ!」
遠くからでもよく通るレティシアの声。
それに伴い、近づいてくる三人の足音をききながら……ナナオはぐったりと、意識を失ったのだった。