【1-1】プロローグ
日中にもかかわらずどんよりとした薄暗い曇天、そのせいで教会内は燭台の灯が妖しく満ち蠢くような影を生み出している。
窓からは日光ではなく稲光が差し込み、飾り付けられている優雅な細身の女神像すら不気味に照らす。一瞬遅れて鳴り響く落雷音は迫りくる何かの足音のようにも感じられた。
そんな中でも式はつつがなく進んでいく。今も彩司による説教が続いている最中だが耳にはほとんど入ってこない。僕の意識のほとんどは別のところに向けられていたからだ。
そんな僕の右隣りには漆黒のウェディングドレスを着た女性が立ち竦んでいた。彼女の長い銀糸のような髪は僕の頭二つ分近く高い位置から流れていて、そんなわけはないのに鼻をくすぐられている気分になる。
その肌は透き通るように白く、黒という収縮色で身を包んでいるにもかかわらず肉感的な曲線美を抑えきれないでいた。開放的なデコルテラインからこぼれんばかりの豊かな胸をクッションにするかのように収まっているペンダントが淡く瞬く。雷鳴を反射でもしたのだろうか?それとも……
紹介しておこう。そんな上玉女の名はヤーコ。聖女にして世界を何度も救った英雄ヒデオ・ヒュージンケーのパートナーだ。
だが僕はヒデオではない。僕はしがない悪徳武器商会の小倅。つまりは小悪党――いや子悪党とでも言うべきか。
何故僕のようなしょうもない人間が聖女である彼女と今こうやって結婚式を挙げているのか、言うまでもなくそれは親のコネ、要するに政略結婚というやつだ。
広い教会の参列式には所狭しと来賓が座っているが、この結婚を心から祝福しているのは親族ぐらいだろう。本心では何故聖女のお相手がお前なんだと思っているに違いない。自分で言うのも何だが僕の容姿はお世辞にも良いとは言えない。男性の平均身長を圧倒的に下回り、また肉付きも良くなくガリガリで姿勢も悪い。目つきは鋭いが口元は締まりなく歯は飛び出ていて、絶世の美女とも謳われし彼女の伴侶としては明らかに分不相応である。
だがこいつらはそんな事おくびにも出さない。連中の関心事は今後如何にして僕達から旨い汁を啜るかということだけだ。悪党の式に招待されるやつらもまた悪党、聖女の幸せを考えている奴などほとんどいやしないだろう。
そう、彼女の結婚相手が長年純愛を貫いてきた英雄でないことなどどうでもいいことなのだ――少なくとも連中にとっては。
僕は目端でこっそり彼女の様子を確認する。ヴェールで覆われているせいで表情ははっきりとは読み取れないが、身長差のお陰で覗き見えた唇は何かに耐えるかのように噛み締めているようだった。
「それでは指輪の交換を」
説教を終えた彩司が新郎新婦にそう促す。
僕はこの場に似つかわしくないメイド服を着たリングベアラーからひったくるように指輪を受け取るとすぐ、一方の聖女は覚悟を決めたかのように一つ大きく息を吐いた後ゆっくりとこちらを向く。
彼女の振り向きざまにチリンと小さな音がした。右耳に付けられていた一見知恵の輪を想起させるイヤリングが小さく鳴ったのだ。はっきり言って結婚式には似つかわしくないアクセサリーだが彼女はそれを外していなかった。それが意味するのはおそらく……
向き合った僕達は互いの薬指に指輪を通す。その際、聖女の手は小刻みに震えていた。
『――――ッ!』
近くで一際大きな雷が落ちた。参列席から少し悲鳴が上がる。
僕の左耳にもノイズが走ったが、込みあがる笑いを抑えることができず思わず口角をつり上げてしまう。
もうすぐだ……もうすぐ僕の想いが成就する!
「では、永久の愛を込めて、誓いのキスを交わしたまえ」
彩司の言葉で、僕は更に一歩前に出る。すると彼女は僕の身長に合わせるためか少し屈みこんだ。そこで僕は気づいた、ヴェールに覆われた彼女の目元から一筋の輝く水滴が落ちるのを。
かといって、止めるつもりは毛頭ない。僕は聖女のヴェールを手に取り、じっくりとじらすように上げていく――
――すると、大きな音が鳴った。
「――その結婚式、待った!」
今度の音は雷ではなかった。誰かが、扉を力任せに開け放った音だった。
「……英雄……ヒデオ!?」
誰かが叫んだ。そう、そこに現れたのはヒデオ。ヤーコと共に幾度となく世界の危機を救った、神鎧布に選ばれし聖女の輝士。
「と、取り押さえろ!」
これまた誰かが叫んだ。おそらくは式の警備担当者。彼らは一斉にヒデオへとなだれ込むが、闖入者は彼だけではなかった。
「ヒデオ!ここはオレ達に任せて彼女を迎えに行ってやれ!」
「うん、わかってる!」
更に現れた数名の男女も皆見覚えがあった。英雄ヒデオの仲間であるチーム・サリサーの乗組員たち。英雄は孤独ではない、たくさんの仲間と苦楽を共にしていたのだ。
「な、何故ここに来たのですか!?」
悲痛な叫びは僕の隣から発せられた。
「君のピンチを見過ごせるわけないじゃないか!」
警備員をいなしながら、ヒデオは聖女と会話する。
「わたくしは……わたくしはこんなこと望んではおりません!今すぐ、今すぐお引き取りください!」
いやいやと首を振るヤーコ。それにヒデオは、ゆっくり首を振った。
「悪いけどそういうわけにはいかないんだよ」
「どうして!?」
「これは君が望んだことじゃないからだ!」
開け放たれた扉から強い風が吹きすさぶ。
新婦のヴェールがめくれ、その美しい顔が露わになる。
「勝手に……勝手に決めないでください!この結婚はわたくしの意志なのです!わたくし達が幸せになるためには必要なことなのです!」
「だったら、どうしてそんな悲しそうな顔をしているんだ!?」
ヒデオが吼えた。
そう、彼女のグレーの瞳には涙が溢れていたのだ。
「俺は、君を泣かせたりなんかしない!泣かせる奴を許しやしない!」
英雄の鋭い眼光が僕を射抜く。明らかに、その言葉は僕にも向けられていた。
一歩、また一歩と英雄がこちらに近づいてくる。おそらくこのままいけば、僕は新婦をこの男に奪い取られてしまうだろう。
だから僕は――
「ひ……ひ……ひいいいいいいいいいいっ!」
叫んで逃げた。新婦を置いて、ただ一人助かるため。
彩司を押しのけ、通用口に飛び込む。
通路には明かりが灯っていなかった。落雷で停電したのか、それとも誰かが電源を落としたのか。足元は覚束ないが、そんなこと構ってなどいられない。僕はこの暗がりを必死で走った。運動不足のせいか思うように足が動かない。だが少しでも、少しでもここから距離を取らなければ……
ヒュンッ!
「ひっ!?」
僕の頬を何かがかすめた。背後から放たれたそれが正面曲がり角の壁に突き刺さっている。
雷光が轟く、その光を反射したのはナイフの刀身だった。
「どこへ行くつもりだ?」
おそるおそる振り返ると、そこにいたのは真紅の長髪を靡かせ、薄いシアン色のオーラを立ち昇らせたオリヒメ。しなやかな体躯と端麗な顔つきの彼女もまたヒデオと同じ神鎧布輝士だ。
「まさか新婦を置いて一人逃げ出すとはな……」
呆れた様子を隠そうともしないのはアレクセス。オリヒメに勝るとも劣らない容姿端麗の美丈夫で褐色の肌を持つ彼はイタメナ国第三王子であり、同時に聖鎧布閃士でもある。
今、彼らは鎧布を部分的にのみ纏っていた。ということは普段の実力の一片しか発揮できていない筈だが、それでもその圧倒的な戦闘能力で警備員たちを余裕で跳ねのけてきたのだろう。
そんな二人の鎧布士に挟まれた僕は――
「お、おお、お願いだ見逃してくれ!もうあの女はお前らに返すからさあ!」
――必死に命乞いをした。
そしてそんな僕の姿にオリヒメは露骨に顔を歪める。
「……ヤーコ様はこんな男と結婚させられるところだったのか」
明らかに僕に怒りと侮蔑の眼差しを向けていたが、そんなこと気にしている場合ではない。
「な、なあ頼むよ。だ、大体もう僕に関わってる暇なんてないだろ?さっさとあいつを連れて逃げないとマズイことになるぞ!?」
「彼女の事はヒデオに任せておけば問題ない」
「だといいがなあ!」
アレクセス――通称アレクの言葉に僕が吐き捨てると、それを脅しと捉えたのかオリヒメが僕の顎をグッと掴んだ。
「貴様ら悪党共が何を企もうと我々の敵ではない。覚えておけ!」
オリヒメのような美女から鼻が当たりそうな距離で凄まれること自体ご褒美……などと思えるようなマゾヒストではない僕はただ目を泳がせることしかできない。
しかも彼女は、僕の顎に爪を立てたまま更に引っ張る。
「い、痛っ!何すんだよ!?」
「来い、貴様には人質になってもらう」
「は、はあ!?何で僕がそんなこと……!」
「我々がここから無事離脱するために決まっている」
「そ、そんなことしてみろ!きっと後悔することになるぞ!?」
僕は吼えたが、彼女は耳元で囁くだけだった。
「後悔するのはお前たちの方だ」
血が凍るようだった。ガタガタと体が震える。これが世界の敵と幾度となく戦ってきた歴戦の勇士の持つ圧倒的迫力なのか。
ダメだ、もう逃げ切れない……僕達は、一体どうなってしまうのだろうか。
彼女とは違い落ち着いた様子のアレクも僕に尋ねてくる。もっとも、目線は高いまま見下すように、ではあるが。
「それに、お前には聞きたいことがいくつもある。シースト家は彼女に一体何をした?政略結婚のつもりだろうが目的は何だ?今更武器商会が聖女を抱え込んでどうするつもりだ?それにお前の……」
アレクはまだ質問を続けたそうだったが、その言葉を遮ってオリヒメが声を荒げた。
「こちらにはヤーコ様がホンモノの愛に出会えたというあからさまなデマしか入ってこない!そんなの誰が信じられるか!?」
「ぼ、僕だって知らない!僕だって断ったんだ!僕だって……むぐっ!?」
彼女は僕にも全てを語らせなかった。力を入れたせいか、爪が頬に突き刺さる。
「嘘をつくな!」
「う、嘘じゃな……」
彼女の目つきがさらに厳しいものとなる。それが感情の表れというのは握力が物語っていた。
「それなら何故、指輪交換の時に卑しく笑った?ヤーコ様とキスしようとした!?」
「そ、それは……」
……見られていた。だがあれは、そんなつもりで笑っていたわけじゃない。
そう弁明したいところだったが、おそらく聞いてはくれない。それどころか、物理的に話もさせてくれないだろう。
力任せに僕を壁へと叩きつけたオリヒメが、髪を払いながら見下してくる。
「往生際の悪い男だ。醜いのは容姿だけではないようだな。わかっていたことだが」
「……」
僕は何も言い返せなかった。彼女の言っていることは間違ってはいないのだから。
「とりあえず、場所を変えるぞ。いつまでもここにいるのは得策とは言えない」
アレクがため息交じりに荒ぶるオリヒメをいさめた。
彼女は舌打ちすると、今度は僕を乱暴に引っ立てようとする。
「い、嫌だ!たすけ、助けてくれ!」
僕は抵抗するが、彼女の力は想像以上に強く全く振りほどけそうにない。
「いいから大人しくついてこい」
「嫌だ嫌だ嫌……ギャッ!?」
僕があくまで抵抗を続けていると、目から花火が飛んだ。どうやら彼女に殴られたらしい。
左の耳から、ノイズの元が落ちた。
そんなこと気にもせず、或いは気づきもせずに彼女が僕の胸倉を掴み、凄む。
「……いい加減にしろ。私は今猛烈に気が立っているんだ。何ならこの場で殺してやってもいいんだぞ!?」
「よせオリヒメ、気持ちはわかるがそんなことヒデオもヤーコも望まない」
「そんなことわかっている!わかってはいるが……」
アレクセスに宥められて苦しそうな表情を浮かべるオリヒメ。彼女の聖女への忠誠心はホンモノだ。だからこそ、僕への復讐と彼女への忠義で揺れ動いているのだろう。
「ええそうです、わたくしはそのような事を望んではおりません」
――唐突に、声がした。
それは彼らの背後、つまり僕の前方から聞こえてきた。
暗がりの中よく見えないが、その声の主は明らかだった。
何かを引きずるような音と共に、徐々に明らかになってくるその姿には見覚えがあった。
――聖女だ。
「ヤーコ様!どうしてここへ!?」
「ヒデオはどうした?一緒じゃないのか?」
彼女の戦友でもある二人が尋ねる。だが聖女は答えない。
不穏な空気が流れる。
「というか、お前……何を引きずっているんだ?」
アレクセスが訊いた。確かに彼女は右手に何かを持っていた。それが廊下をひっかき不快な音を立てていたのだ。
稲光がほとばしる。
その瞬間確認できた。彼女が持っていたのは、背の高い燭台。その先端が床に触れての音だった。
同時に、彼女の漆黒のウェディングドレスが所々破れて白い肌が露わになっていたることも確認できた。
僕を拘束していたオリヒメがごくりと喉を鳴らす。
「ヤーコ様……まさかご自身で報復を?」
「ええ、今回ばかりはさすがのわたくしも腹に据えかねておりますので」
陰影の中、聖女は薄く微笑んでいるようにも見えたが逆にそれが凄みを増していた。
「ヤーコがここまで怒るとはな……」
「ヤーコ様……何とおいたわしい……」
アレクは呆気に取られ、オリヒメは聖女を直視できなくなったのか目を瞑り顔を反らした。が、僕からすれば今はそれどころじゃない。
「逃……逃げ……」
「そうはさせん。貴様は代償を支払うべきだ」
やはりオリヒメは僕に全てを言わせようとしない。決めつけ、僕を抑えつける力を緩めない。
「だ、だからそうじゃなくて……!」
とはいえ僕としても必死だ。何とか、何としてでも彼女達にわかってもらわなくては……!
しかし、僕の思いとは裏腹に、オリヒメはまたしても僕を締め上げ、声を出せないようにする。
「どこまでも小さな男だ。今更そんな言い逃れが通用すると思うか?」
鼻を鳴らす彼女。同様に、だが本当の意味で鼻を鳴らして大きく息を吐いたのはアレクだった。
「もうよせオリヒメ。ヤーコも落ち着け。何もお前自身が手を汚す必要は……」
王子の言葉が急に途切れた。代わりに響いたのは鈍い音。
「……は?」
僕の方を向いていたオリヒメは何が起こったのか理解できなかったようだ。だが僕は見ていた。彼女が――聖女がアレクの顔面を燭台で打ち払ったシーンを。
オリヒメが振り返った時は、ちょうど聖女が頭上高く燭台を振りかぶった時でもあった。
「あぶねえ!」
僕は絶叫しオリヒメを突き倒した。
ドスンッ!
そして丁度彼女の頭があったところに燭台が思い切り振り下ろされる。
「へ?……へ?……へ……!?」
オリヒメはやはり現状を理解できないようだった。
「言ったではないですか、腹に据えかねてるって」
聖女が彼女を見下ろした。いや、見下した。その目には聖女らしき慈愛の光は欠片も灯っておらず、まるで汚物を見るかのような侮蔑の色がべっとりと染みついていた。
「お、おおお、落ち着いてください!私です!オリヒメです!あなたを助けに来たんです!」
彼女の尻もちをついたままの弁明に、聖女が小首を傾げる。
「……助け?式を……ようやく念願叶ったわたくしの晴れ舞台を台無しにしたあなた方が?」
「そ、それは無理やりやらされてたのでしょう!?」
オリヒメの叫びに、今度は目を剥く聖女。
「誰がそんな事言いました?わたくし、ちゃんと宣告した筈です。ホンモノの愛に出会えたと」
「な……何を言って……」
「もう少し、もう少しでわたくし達は一つになれると歓喜に打ち震えていたというのに……」
オリヒメはあんぐりと口を開けた。さも悔し気に涙を流す聖女の姿を見て。
「貴様ぁ!ヤーコ様に一体何をした!?何がどうなればこんな!……こんなトチ狂うようなことがある!?」
ハッと我に返ったように、オリヒメが血相を変えて僕に食って掛かる。
だから僕も同様にまくしたてた。これまで言いたくても言わせてもらえなかったことを、一気に。
「だから何もしてない!言っただろ僕だってこんな事望んでないって!僕は……僕は英雄譚の大ファンで英雄×聖女が推しカプなんだ結ばれるのはこの二人であるべきなんだあああああ!」
「………………は?」
再びオリヒメが愕然とした。まるで、全く違う星の言語を聞いたかのように。
「ヒデオが花嫁を奪いに来てるって聞いて!きっとこれで上手くいくって思ったのに!それが何でこんなことに!!!」
「まだそんなことを仰ってるんですか?」
僕の喚きを止めるように、聖女が跪き僕の頬を挟むようにして手を添えた。
「過去も未来も、わたくしが愛するのはあなた様ただ一人。彼のことなど初めからどうとも思っていないとあれほど説明したではありませんか?」
「嫌だあああああ!僕の夢を壊さないでくれえええ!お前は僕みたいなポッと出のしょーもない悪党と結ばれるべきじゃないんだああああ!」
顔面中涙と鼻水、そして涎まみれになるほどの魂の叫びも、聖女には全く届かない。
「それは無理なご相談です。あなた様には、約束を果たしてもらわねばならないのですから」
「だからそれは親父が勝手に決めた事でっ……!」
先述した通り、この婚約自体親の意向に過ぎない。だから僕に約束どうこう言われても困るということをこっちも散々説明したのだが全く取り付く島もなかった。
そう、この瞬間も。
「あら?頬を怪我しておられますね?いけません、今すぐ手当をしなければ」
彼女の手には血がついていた。どうやら先ほどのナイフを投げられた時か頬を掴まれた時、或いは殴られた時に切れていたらしい。
聖女とは輝士たちとはまた別の、いやより高位の存在。そんな彼女は輝術――いわゆる超能力を使える。その慈悲深い力はこれまで幾度に渡って輝士たちの危機を救ってきた。
そんな有難い能力を僕のかすり傷一つのために使わせるのも気が引けたが、それ以上に気が引ける……いや、血の気が引いてしまう事態が起こる。
れろ……ねちょ……ちゅう……
「「ひ、ひいいいいっ!?」」
彼女は僕の傷口に口をつけ、なめ回した挙句吸い出し始めたのだ。
僕とオリヒメのドン引きに気づいたのか、聖女はうっかりしたとでも言わんばかりに悪魔――もとい悪戯っぽく微笑んだ。
「あらいけない、手ではなく唇を当ててしまいました。でも、夫婦ですから何の問題もありませんよね。ふふっ」
センスの欠片もない聖女ジョークも既に完全に凍てついた場の空気の中では常温のように生暖かかった。いや、それは僕の頬の感覚だったのかもしれない。とぼけながら舌なめずりした彼女の唇は僕の血で真っ赤に染め上げられていた。
「だ、だから言ったろマズイことになるって後悔することになるって!お前らが悠長に僕の相手なんかしてるから!さっさとこの女を無理やりにでも攫って行かないからああああ!」
「そ、そんなん……!そんな意味やなんて思うわけないやん!?」
精神的に耐え切れなくなった僕がついつい八つ当たりで怒鳴り散らすとオリヒメの口からこれまで出たことのない方言が漏れた。どうやら彼女も限界を迎えこれまで通りのキャラを維持することが困難になったのだろう。
と、そんな涙目で腰を抜かしたままのオリヒメに聖女が燭台の先端を撫でながら声をかけた。
「オリヒメ、せっかくですからあなたが見届けてくださいな。先ほど邪魔された誓いのキスを、今ここで執り行います」
「……キ、キスぅ?この男と、ここでぇ……?」
「ええ勿論」
間髪入れずはっきり断言され、オリヒメは目を白黒口をパクパクさせることしかできなくなった。どうやらだいぶ壊れてしまったらしい。
「だ、駄目だ!早くこいつを止めてく……っ!」
とはいえこの場で頼れるのは彼女しかいない。そう思って何とかオリヒメを正気に戻そうとしたものの、聖女のある動作に気を取られてしまうことになる。
「――――――――――――……」
「……い、今何て?」
彼女が何かを僕の耳元でささやいたのだ。だが何を言ったのかわからないので聞き返すと、今度は口が塞がれた。聖女の右手人差し指で、しーっと子供を諭すように。
「照れ屋さん。でも、そういうところも大好きです」
聖女はにっこり笑う。さっき言ったのはそれか?いや、どうも違うような……そんなことを考えていると彼女が僕の口に当てた指を唇に沿わせる。まるで、リップクリームを塗るかのように。
実際、濡れた感覚がした。舌で確認してみると、鉄の味。
彼女のその指は赤く染まっていた。僕は唇も切っていたのだろうか?……いや、違う。燭台の先端の一つからほんの少し血が滴っていた。これはさっき彼女自身が触っていたところだ。つまりこれは、聖女の血。
「一体何を……」
だが彼女は俺の問に答えることなく、まるで彩司のように誓約の言葉を紡ぎだした。
「健やかなるときも病めるときも、今世も来世も、未来永劫二人が永遠に愛し合うことを――」
しかしそこから続けられる文言は、とてもではないが真っ当な結婚式で唱えられるものとは思えなかった。
「――互いの血に誓って」
「いやっ……」
背筋に悪寒が走った僕は、何とか逃れようと身をよじるものの、結局強引に口を塞がれてしまった。今度は彼女の唇によって。
稲光が光る。轟く音も、これまでの中で最大だ。
だから、耳から落ち床に転がっていたイヤホンが何を喋っていても聞こえやしない。
失敗だった。結局逃げ切れなかった。あえて警備の隙を作り、手引きした英雄たちに聖女を回収させるという計画は、かくも無残な結果となって僕に突きつけられることになる。
長い長い……体感では数時間は及んでいたのではないかと思えるほどの長く深い誓いの果てに、ようやくヤーコは顔を上げた。
「さあ、約束通り、わたくしをもらっていただきます。愛していますよ、チーグ様」
口中を血と唾液に染めた聖女がうっとりと、そしてにんまりと笑みを浮かべたその顔は、まるで魔女のようだった。
「あ……アア……あ……」
僕の声が言葉にならなかったのは精神的なショックからか、それとも単純に口内が血と唾液でまみれていたからか。
だが彼女は満足げに頷くと、僕を優しく抱擁した。
「どうか、わたくしをあなた色に染めあげてくださいな」
「…………ア……」
僕は薄れゆく意識の中で、これだけは自分に言い聞かせた。
(僕は絶対、アきらめねーカらな……絶対、お前とヒデオをくっつけてみせるからなああああ)
――これは、どういうわけかバグってしまい男の趣味がトチ狂ってしまった聖女の目を何としてでも覚まさせ真のパートナーたる英雄との純愛を貫かせたいカプ厨である僕ことチーグ・シーストの奮闘記でもある。




