第一話 残業するのは当然?
あと数分で夕刻の鐘が鳴る。懐中時計で確認したライラ・リッセンは、持っていたペンを机に置いた。
白薔薇騎士団の執務室は、無事に仕事を終えた充実感が漂っている。
「もうすぐ定時だぞ」
「今日の夕飯は何にしようかな」
皆がそれぞれ世間話をしながら執務机の上を片付けていると、廊下から最近聞き慣れた気配が近づいてくる。
廊下に面した磨りガラスの窓に見覚えのあるシルエットが映ったと思ったら、ドアがノックされる。
「どう「失礼します!!」
一番ドア近くの下座にいるライラが言い終わる前にドアが開き、数日前に異動してきたグレン・イシュルナーが元気に入室してくる。
彼はライラの直属の部下になったばかりだ。彼の逞しい大柄な身体は、同じ騎士として恵まれた資質であり、女性のライラにとって羨ましい限りである。
さらに彼の端正な顔つきと力強い黒色の双眸は、それだけで迫力がある。先日ライラを振った元カレもイケメンの類いだったが、静かで線が細い儚い雰囲気を持っていた。存在感のあるグレンとはまるで正反対である。
「リッセン第二隊副隊長殿! グレン・イシュルナーです!」
グレンが両足を揃え、姿勢正しい格好で、敬礼を取っている。
清潔感のある黒い短髪と、皺のない制服は騎士のあるべき姿の見本そのものだ。
ライラが敬礼を返すと、両手で持った書類を勢いよく差し出してくる。
「経費精算書をお持ちしました! ご確認よろしくお願いします!」
ライラは分かりやすくため息をつき、物言いたげな視線をグレンに向ける。
「イシュルナー卿、あなたには時刻を確認する習慣がないようね。もうすぐ定時なのは理解しているの?」
「お言葉ですが、経費系の書類は迅速に処理するべきではないでしょうか!? 以前私がいた黒鉄騎士団では当日中にと指示がありました!」
「確かに金銭が絡む書類は、優先度が高いわね。しかし、今は月の半ばで、月末までに処理を終わらせれば良いものを定時間際に提出する理由にはならないわ」
「まだ就業時間ですので大丈夫かと考えておりました!」
「今、私があなたからその書類を受け取れば、何かしら手間が発生して、定時で終わらない可能性は考えなかったの? 残業が無駄に発生してしまうでしょう?」
「残業に何か問題がありましたか!? 騎士として職務を優先する当然だと思っておりました!」
ライラは思わず眉をひそめる。
「大問題よ! 就業規則に残業は事前に上役に申請しなければならないし、賃金が発生すると書かれているわ。自分の勝手な判断ではできないのよ。残業代を請求しなければいいと思うかもしれないけど、それが常習化して、自己犠牲が当然となったら他の人が困るのよ」
グレンの前の職場の非常識さにライラは内心呆れていた。
間違った規則を教えられたせいで、グレンまでも無配慮な仕事のやり方を覚えたからだ。
ライラたちの会話を聞いていた周囲の同僚たちも苦笑いを浮かべている。
「申し訳ございません! 自分の認識が甘かったです!」
グレンが来てから驚かされることばかりだが、思いのほか細かく説明すれば納得してくれる素直さはあるのが救いだ。
「分かればよろしい。組織において、時間の遵守は当然と心得なさい。明日その書類は提出するように」
「はい、承知いたしました!」
二人の会話が終わった直後、終業を知らせる鐘が鳴る。
「お疲れ様、卿も帰りなさい」
「はい、失礼いたします!」
敬礼をすると、グレンは来たときと同じように元気よく戻っていった。
ライラが安堵して肩の力を抜くと、豪快な笑い声が背後から近づいてくる。
「ハハハハ! 彼はなかなか癖があるな! 副隊長に任せて正解だったよ。この調子で教育を頼むよ!」
他人事のように面倒くさい仕事をライラに振ってきたのは第二隊隊長のルイス・ハミルトンだ。
二十歳のライラが、二倍も人生経験豊富な彼に敵うはずもなく、彼の手のひらで上手く転がされている。
頼りない上司よりはマシではあるが。
「隊長、彼がいた黒鉄騎士団とうちでは就業規則は違うんですか?」
「いや、同じだよ。まぁ、その就業規則はうちの王女殿下が団長になる直前に改められたばかりなんだよね。古株な人はなかなか馴染めないのかもね」
黒鉄騎士団の団長をライラは思い出す。
かの団長は目の前にいる隊長よりも年上だ。二年前に血筋と諸事情で白薔薇騎士団に就任した第三王女ウィラミナとは違い、実力で登り詰めた御仁だったはず。
「(頑張りたいと存じます……)古株だろうと就業規則は守るためにあるんですよ、隊長……」
騎士になるまで家名すらなかった元平民のライラは、言葉を選んで慎重に返答した。
「いや副隊長、神妙な顔をしているけど、本音がだだ漏れだからね!?」




