いつかまた、あのパンを
エルフ×探偵×魔法ミステリです。
日常と事件が交差する、連作短編風の物語になります。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
「調理工程を見たいとのことでしたが、フェアリーカカオブレッドの仕込みで良かったでしょうか?」
店主は、特徴的な尻尾を持つ狐由来の獣人で、キサラという名の小柄な女性だった。調理学校を卒業して間もないと聞いていたから若いだろうとは思っていたが、予想よりもずっと若く見える。
「はい。できれば最初から見させていただければと思います」
「では、まずプリファーメントと呼ばれる発酵工程から始めます」
前日からゆっくり発酵させることで風味が深くなり、ほんのり甘みが増して生地がしっとりする、と説明しながら、キサラは小麦粉と水、少量のイーストを慣れた手つきで混ぜ始めた。こね終わった後、先生は生地を少量口に含む。
「次にフェアリーカカオの下処理です。香りを最大限引き出すために、カカオを刻んで軽くローストした後、ペースト化します」
キサラがカカオをローストし始めると、部屋中に香ばしい匂いが充満した。調理工程を間近で見るのは初めてだったが、これほど香りが立つものとは思っていなかった。これだけで好きな人には堪らなくなってしまうかもしれない。
ペースト状になったカカオを、先生がまた少量口に含む。私も少し分けてもらった。チョコレートと違って甘さはほとんどないが、聞いていた通りフルーツっぽい酸味があり、嚙むとナッツや花のような香りが鼻を抜けていく。
食べ物のことならさぞ嬉しそうにするだろうと先生の顔を見ると、何か気に入らないことでもあるように渋い表情をしていた。
「次にパン生地に使うコーヒーを抽出します。生地に練りこむので、普通より濃いめに淹れます。冷ましてから使うので、次の工程へ移ります」
「最後にフィリングです。カカオペーストとバター、砂糖でクリームを作ります。一晩寝かせると味がなじんでなめらかになります。これで大体の仕込みは終わりですが、何かご質問はありますか?」
「そうね……さっきから疑問に思っていたのだけど、あなたはなぜ、混ぜたり刻んだり抽出したりするときに、食材へ魔力を流しながら作業するのかしら?」
キサラの手が止まった。
「……え?私は魔力を流したりしていませんけど……そもそも流し方がまだわかっていなくて、魔道具を使うために覚えなきゃとは思っているのですが」
私には仕込みの間、魔力が流れているようには見えなかった。魔道具や魔法を使うときはそれなりの魔力を感じるが、微量だと私には判別がつかない。それほど微かなものが、ずっと漏れ続けていたということなのだろうか。
「……無意識、ということかしら。魔力は誰でも持っているものだけど、無意識に流し続けるなんて聞いたことがないわ。普通そんなことをしていたら魔力が枯渇して、凄まじい疲労感が来るはずなのだけど」
「そう言われましても、流していないものは流していないので……」
先生が黙り込んだ。
先生は新しい魔力の使い方や未知の現象を否定しない人だ。今も、調理という特定の状況下でだけ無意識に魔力が漏れ出すという可能性を、静かに検討しているのだと思った。
「……コーヒーの方はもう冷めたかしら。さっきのカカオペーストと一緒にいただけます?」
先生は二つを交互に、何かを吟味するように少量ずつ口に含んだ。私もコーヒーを少し口に含むと、一気に頭が覚醒するような感覚があった。これまで色々な飲み物を飲んできたが、こういった感覚は初めてだ。それにカカオの幸福感が重なれば——この店が人気になるのも、今日の騒動も、なんとなく線がつながってくる気がした。
「もしかして、コーヒー豆もフェアリー産なのですか?」
「よくわかりましたね。カカオだけでなく、コーヒー豆も妖精族の方と契約させていただいています」
「なるほど……原因がなんとなく分かりました」
「え?原因とは?」
店主のキサラはきょとんとした顔をしていた。店員から何も伝わっていなかったのか、あるいは大したことではないと思われていたのか——どうやら今日外で何が起きていたか、まったく知らないようだった。
私が今日の騒動を順を追って説明すると、キサラの表情が少しずつ変わっていった。最初は信じられないという顔で、だんだんと青ざめていき、話し終える頃には声も出なくなっていた。
「そんなことが……それで、私の使っていた食材に何か問題があったのでしょうか」
「原因は妖精族が育てた素材の方ね。推測だけど——カカオとコーヒー豆を、妖精族が何らかの魔力を使って育てていた。それをあなたが無意識に魔力を流しながら加工したことで、成分が増幅、もしくは変異した。結果として、食べた人の覚醒や幸福感が異常に作用してしまった」
「……麻薬のような、ということですか」
キサラの声が小さくなった。
幻覚などは起きていないのかもしれないが、自分の意思を制御できなくなるほどの依存性が生まれていたとすれば、それは確かに危うい。善意でパンを焼いていたのに、気がつかないまま人を傷つけていたかもしれないという事実が、彼女の表情に静かに落ちていくのが分かった。
「そうね。ただ、これから成分なども含めて正式に調査することになるわ」
「私は……どうなるのでしょう」
「調査結果次第、ではあるけれど。少なくともそれまでは、店を閉めてもらうことになります」
先生は「大丈夫」とは言わなかった。法に抵触していた場合、意図的かどうかに関わらず罰せられることもある。軽はずみな言葉をかけないのが先生の誠実さだと私は思っているが、キサラにとっては沈黙よりも辛い答えだったかもしれない。
「楽しみにしていたパンを食べられなくて残念でしたね」
事務所への帰り道、私が言うと、先生は少し肩をすくめた。
「まぁ仕方ないわ。魔力制御を覚えて、またお店を開いてくれることを祈るしかない」
カカオやコーヒーの成分そのものに問題があるわけではないから、調査にそれほど時間はかからないだろうとのことだった。ただ、妖精族の素材を扱うには魔力制御が必要になる。それまでは、あのパンを食べることはできない。
「もう口が甘いパンを求めてしまっているから、違うパン屋に向かいましょ!」
「仕事に戻るというのも悪くない選択肢ですよ」
「む~り~ぃぃぃ。甘いものなくては頭が回らない~~」
甘いもの依存症ですね、と言いかけて、やめた。食べる直前で事件に巻き込まれたせいで、私自身もあのパンへの未練が断ち切れていないことに気づいてしまったからだ。
結局私たちは二人して、別のパン屋へと足を向けた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
来週はGWのため、お休みするかもしれません。
一応、次回更新は5月5日(火) 20:00更新を予定としますが、投稿できなかったら申し訳ございません。
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