タキオンの孤独 15
優しい母と、忙しい父――片田舎の小さな町で生まれた彼にとって、両親が世界のすべてだった。母は、内気すぎるわ、と時折彼の将来を心配した。父は、なに直に男らしくなるさ、と大きな手で彼の頭を撫でた。彼は二人のことが大好きった。
しかし、親を愛する半面、彼は寂しがるということをしない子供でもあった。声をかけなければ自分の部屋で一日中一人遊びをした。積み木を整然と並べるのと、絵を描くのが大好きだった。寝食を忘れるほど打ち込む子供だった。
そんな彼が六歳になったある日、人生を大きく変える出会いが訪れる。
その日も彼は画用紙に絵を描いていた。部屋の中心に陣取り、窓から見える風景を事細かに写生していた。しかし、ちょうど窓枠で分けた左半分の景色を描き終えたところで白い画用紙が切れてしまった。写生が楽しかったのか、彼はどうしても続きを書くのを断念できなかった。なんとしても今日中に書ききりたい――そんな思いに囚われた。そんな時に限って母は出かけていた。父親は日が落ちるまで仕事から帰らない。家じゅうを探し回り、納屋まで物色したがちょうどいい紙は見つからなかった。
そこで彼は禁を破る決意をする。入ってはいけないよ――小さなころから言い聞かせられていたので、父の書斎に入るのは初めてだった。小さな部屋の四面の壁は全て本棚。部屋の中心には引き出しがいっぱいついた机が置かれている。どこを見ても本、本、本――本棚に収まりきらない本が床や机の上にも積み重なっている。紙とインクの匂いに満ちた部屋だった。
彼の子供心は大きく高ぶった。自分が画用紙を探しに来たのだ、ということをすっかり忘れ、本の背表紙を眺めることに執心した。歴史の本や学術書など、子供が読むような本は一冊もないが、本のタイトルを読むたび彼の空想は加速度的に広がっていった。それが楽しくて仕方ないようだ。
――と、しばらく後、本棚と本棚の隙間、狭く目立たないスペースに積まれた数冊の本が彼の眼に触れる。
『現代魔法に至る歴史』
魔法――その単語は彼の好奇心に更なる火をつけた。
*
「な、なんだと――」
召喚術師は己の眼を疑った。
七十年に及ぶ研究の粋を集め生み出した最高傑作――影絵の竜。その影獣が繰り出す影の火球は、理論上、世界最高の魔道兵器“戦車”を打ち倒すことができる威力を持っているはずだった。だというのに、
「貴様――何をした!」
鮮やかな金髪の少年が着弾寸前の火球に触れたように見えた。すると次の瞬間、火球が消えた――まるで空間の裂け目に隠されてしまったかのように、何の余韻も残さず消えたのだ。
召喚術師はギリギリと奥歯を噛み、少年を睨んだ。
対する少年は不思議な顔をしていた。どこか投げやりで、しかし確固とした意思を持っているような――そんな複雑な表情だった。
*
彼が最初に魔法を披露したのは十歳になった頃だった。遠くに置いたランプに一瞬で火を入れた彼を見て、母は悲鳴に近い驚きの声を上げた。
その晩、彼は生れてはじめて叱られた。仕事から帰ってきた父は強い口調で我が子を問い詰める。私の書斎に入ったな――あれらの本を読んだのだな――何冊読んだ――どれとどれだ。次々と浴びせられる質問に彼は泣きながら答えた。書斎にあった魔法に関する本を全て読み、そこに書かれていた魔法を全て覚え、使えるようになった、と。両親が別人に変わってしまった。本気で思うほど、その晩彼は怒られた。鍵のかかった部屋に一人で寝かせられた。
そして、翌日――朝早く起こされた彼は、父に手を引かれ馬車に乗った。
当時、魔法は差別の対象だった。魔法都市と五大国の長く暗い戦争の余韻が残っており、魔法の無い世界を目指す勢力まで存在した。その影響力は強く、人前で魔法を使えば殺されてもおかしくない、そんな時代だった。
彼は十歳の時点で世界とは相いれない人間となってしまっていた。歴史学者である彼の父の書斎に置かれていた魔道書――それは、魔法都市が滅び衰退した魔法文化の中で、最先端の技術書だったのだ。それを全て覚えた彼は実質最先端の魔法使いの一人になった。そして、それは忌み嫌われる存在になったのと同義だ。生きて行ける場所はごく僅かである。
魔女の都の庇護下にあり、唯一魔法が容認される場所――ブーズステュー公爵領地。父は彼をそこに連れて行った。研究機関の役人に彼を会わせ事情を説明すると、役人は二つ返事で彼を研究室に招いた。その日から彼は魔法研究者となった。
両親に会えない寂しさはあったが、それを埋めて余りあるほど研究室での生活は彼を夢中にさせた。元より研究者体質だったところに、最良の環境と、物を教えてくれる他人――スポンジが水を吸収するかのように、彼は寝食を忘れ学び、魔法使いとしての才能を開花させた。
故郷を離れ五年――十五の春。彼はルドラカンド一の魔法使いとなった。
世界の半分を手中に収めたという最強の魔法使い“スターウェイ=ランキャスター”が操ったという、濃密な魔力の塊――通称“影”と呼ばれる超高等魔法。伝承の中にのみ存在したそれを彼は再現することに成功した。それはほかの誰にもなしえなかった快挙だった。
動物の姿を模した影を操ることから、彼は“影絵召喚術師”という名をもらった。若かったので地位は平凡なものにとどまったが、それでも彼の実力は他を凌駕していた。
天才と持て囃され、嫉妬する者も多かった。しかし彼はその名に恥じぬ働きでもって自分を正当化し続けた。それは、幸せな月日だった。自分が世界最高峰の魔法使いであるという事実は決して揺るがないのだと信じて疑わなかった。
――しかし、彼も盛者必衰の理から逃れることはできなかった。
後に世界最高峰の魔道技師となるバスウッド=カーペンターがブーズステュー公爵領地に現れたのだ。
バスウッドは次々と新しい魔法を開発、実用化に成功し、魔法が否定される世界そのものを変えてしまった。まさしく歴史の転換点といえる業績であった。
彼の身辺は一転する。誰も彼もがバスウッドを褒め称え、その部下となった。これまで研究機関を牽引してきた召喚術師のことなど忘れてしまったかのように……。
彼はそんな暮らしから逃げ出した。生まれた初めて味わった辛酸の味はとても耐えがたかった。
人気のない森の中に隠居した――これが彼の初めての挫折だった……。




