タキオンの孤独 14
「ああ、もう。もう少し早く走れないのかよ」
「ちょっと待ってレター」
「なんで私まで……」
「おばさんはともかく、なんでお前までバテバテなんだよ」
「だってえ……」
「坊ちゃま、そんな口をきいていたら振られてしまいますよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだって!」
肩で息をする二人をレターは呆れた目で見ていた。
屋敷からかなり離れた――しかし、とてもじゃないが安心とは思えない。敵の魔法使いはどこまでも追ってくるだろう。そんな気がしてならないのだ。
レターは屈みこんで息を整える二人から目を離し、今通ってきた暗い道を振り返った。そこに恐怖の気配はない。追ってくるのをあきらめたのだろうか。
「…………!?」
――と、レターが突然目を見開き、通りの反対方向を振り返る。
(な、なんだ――誰だ――――これは、影兎なんかと比べ物に……!)
危機感に起因する恐怖が蘇る。標本になってしまったかのように体が固まり、額に冷や汗が垂れた。
薄く夜霧が満ちた道の向こう――次第に人影が浮かび上がってくる。
(ど、どうする――)
すぐ向こうに危険な誰か――反対方向に逃げれば影絵使いに鉢合ってしまうかもしれない。かといって、脇道はない……。特殊な感覚を持たないノームとメイドは危機が迫っていることに気づいていない。最善の行動が分からずレターは動けない。
――しかし、その明るい金髪が見えた瞬間、レターは自分が何か勘違いをしていた、ということに気付いた。いつの間にか危機感も去っていた。
「――エイモスさん?」
「レターか。よかった、無事だったんだな」
エイモスは安心した面持ちで軽く手を挙げた。静かで落ち着いた雰囲気である。
レターもほっとしたように息をついて、
「エイモスさんこそ無事でよかった……追いかけて行った兎たちを倒したんですか」
言うと、エイモスは、
「ああ、まあな――」
と短く答える。
(――――?)
レターはその態度に違和感を覚える。
彼はエイモスに対して「物静かで、どこか投げやりな男」といった印象を持っていた。それは今も変わらない。変わらないのだが――、
(なんだろう、この違和感――どこかで知っている――?)
その違和感が“共感”から来るのだということをレターは自覚できない。そのロジックは彼の失った記憶がなければ氷解できず、また、失われているからこそ違和感の域を出ない。
――エイモスの微妙な変化。それは水面下で結晶化した“覚悟”に起因するものであり、レターもかつて吸血鬼事件の折にまったく同じ精神的変化を経験しているのだった。訳も分からず心強いと感じていた。覚悟を固めた人間は強い――という真理を無意識下で意識しているのだ。
そのため、遥か後方にタールのような粘着質の危険を感知したとき――レターは全く動揺しなかった。近くにエイモスが居る。そう思うと、もう怖くないのだ。
「エイモスさん――」
「ああ、何となく分かるよ」
示し合わせたかのように背後に移動したレターとエイモスを二人の女が不思議そうに見つめている。
エイモスは頭を振って呟く。
「まったく、面倒だ――なあ?」
レターは返事をしなかった。何となく自分に言っているわけじゃないんだろうな――と思ったのだ。
*
『やる気を出さんかバカ者――お前は相克者になったのだぞ。自覚というものを持ちなさい』
まったく、このしゃがれた声はどこから聞こえているのか――コイツの体は死んだはずなのに、まるで健在じゃないか。細かい疑問を言い出せばキリがないな。
『それで、結局、敵は何者なんだ。召喚師というのはどういう人種なんだ』
声に出さず問う。すると、頭の中に声が響く。
『そんなこと我が知るか――というより、敵を枠にはめようとするな、愚か者。思うままやればよい、お前を縛ることができるのはお前だけだ――それが相克者というものだ』
『相克者ってのは、とんだアナーキストだな。まあいい――言われなくても、ってやつだ。俺はいつだってできることしかできない。そんな人間だ』
『うむ、それでよい』
”その猫は死んでしまった”長い、そして文章じゃないか――しかし、コイツはこの言葉が気に入ったようで、それを自分の名前とした。まったく不吉な名前だ。ヘヴンが静かになったので、前方に視線を移す。
不思議と気後れはない。本当になぜかは分からない。
道の真ん中に現れた篝火のような影。それは、次第に輪郭の枠線を濃くしていき、気だるげな足音が聞こえ始めた頃には人の形になっている。
ボスの登場にしては地味だな。それに、ボス自身も地味だ。
くたびれた鼠色のスーツを着た白髪頭のおじさん――そうとしか形容できない。おじさんは、どこかぼんやりとした顔で睨むでも微笑むでもなくこちらを見ている。そして、落ち着き払った上品な口調で言った。
「私は私を邪魔する者に容赦しない――女子供であれ、それは変わらない。さあ、死にたまえ」
こんなもの大したことないさ――と自分の財産を見せびらかすような、淡白な物言いで殺すと言ってよこした。不気味ではある。
その瞬間、隣のレターが体を固くする気配を感じる。
直後――召喚師の背後に漆黒の澱のような巨大な物体が落下してきた。地面で一度波打つと、伸び返るように跳ね、空中で円形を形作る。次の瞬間、形状が劇的に変化する。
幾つも突起の生えた蛇のような頭部。それが繋がるのは、やはりジグザグと突起だらけのトカゲの体。柔らかい挙動で開かれた蝙蝠の翼が闇夜を更に黒く染める。
複雑な形だが、それを呼ぶに相応しい名前はすぐに見つかった。
(兎の次はドラゴンかよ――何でもありだな)
闇より黒い竜――それは、影兎と比べ物にならない大きさでもって、俺たちを見下ろしている。
レターが無言で一歩後ずさる。背後ではノームとメイドらしい女性が息をのむ音が聞こえた。
ドラゴンの足元で召喚師が――くっくっくっ――と肩を揺らして笑いだす。そして、陶酔したような笑いを浮かべ、バッと手を広げる。
「さあ行くがよい――我が最強の召喚影“影絵の竜”よ!」
そのセリフを合図にドラゴンが羽ばたきを始める。とてつもない風圧、埃を巻き上げ、その影の巨体が地面から遠ざかって行く。
「え、エイモスさん――まずいですよ。あれは、出鱈目です……早く逃げましょう!」
このレターという男は何かを感じる能力を持っている節がある。この焦りは、そこから来ているのだろう。
しかし、なんだ。こうして腕にせっつかれるとコイドみたいだな。そういえばアイツとしばらく会ってない。この件に片が付いたら、たまには俺の方から遊びに誘ってみるかな。
『呑気なものだな。目の前に敵、背後に守るべき弱者――恐れはないのか』
言われて、ハッと我に返る。俺は何を呑気に――しかし、どうしてだろう。まるで怖くない。きっと、部屋に一人でいる時よりリラックスしている気がする。
『俺は変わったのか』
何の気なしに問うてみる。ヘヴンは呆れたように鼻を鳴らしてから、
『例えば、あるライオンが突然猫になったとする。その日から呑気に昼寝することはできなくなる――怯え、隠れることを覚える。しかし、そいつの好物は依然シマウマの肉だ。楽天家も治らない。つまり、そういうことだ』
まるで訳の分からないことを言った。それはどういう意味なのか――取りとめなく考えてみる。
――そんな時だった。
空高く飛翔したドラゴンが一度大きく仰け反り、反動をつけて一際大きく羽ばたく。同じく勢いよくしなった頭部、上下に裂けた巨大な口から、体と同じ色をした炎のように揺らぐ影の火球を吐き出した。
その火球はこちら目掛けて落ちてくる。おそらく、兎の爆発とは比べ物にならない威力を秘めているだろう。
――何とかしなければ。
反射的に右手を斜め上に突き出す。射光を遮るような仕草。
レターは腰を抜かしてへたり込んでいるようだ。後ろの二人もきっと眼を剥いているに違いない。
しかし、俺は「シマウマの肉ってのは、普通の馬と違う味がするのだろうか」そんなことを考えていた。
水中から水面を観察している気分だ。どこかずれていて、不確か――そんな感覚。
――そして、火球が俺の掌に触れる…………。




