タキオンの孤独 13
気がつけば――俺はベッドに腰掛け窓の方を眺めていた。見慣れた部屋、触りなれたシーツの感触。景色は夜。
ああ、これは夢か幻だ。すぐに気付く。窓辺にあいつが居る。
「俺も死んだのか」
問いかけるつもりの言葉は、いざ出てくれば、いじけたような響きになってしまう。まったく、恰好がつかない。
「お前はまだ死んでおらん。しかし、すぐに死ぬ――今この瞬間、我らの時間は引き延ばされておる。たった一度、刹那の猶予だ」
「何の事だか……」
猫の言葉は難解で俺には理解できないが、それは今に始まったことじゃない。妙に穏やかな気分だった。疲れきって帰ってきて、着替えもとらずベッドに飛び込んだ時のような充足感すらある。
猫は勝手に続ける。
「お前が助かる方法はたった一つ――“相克者”になるのだ。難しい話ではない。ただ受け入れればそれでよい」
「お前はどうなる」
「我はすでに死んでおる」
「俺のためにか」
「我は奴の抑止力として生まれた。相克者を見つけるために生きてきた。であるからして、我は我のために死んだ――お前のためではない」
「そうか――」
はっきり言って、すでに迷いはない。猫がどんな理由をくっつけようと、こいつは俺を庇って死んだ――その事実は揺るがない。だから、迷うことは許されない。なにもピンと来ていないのだが、それでも猫の言う相克者というやつに俺はなる。ところで、
「結局、俺は何をすればいいんだ」
それくらいは教えてもらわないと困る。しかし猫はさらっと、
「好きなようにやればいい――」
とだけ言うのだった。
*
「ああ、なんと忌々しい――何故こうも上手くいかない――私は貴台の召喚術師――あいつさえ居なければ私が世界最高峰と呼ばれていた――だというのに、何故、何故こうも……」
影絵の兎の術者は依然として姿を現さない。今や焦りと苛立ちで乱れ切った声だけが変わらず天井の方から響いてくる。
部屋を埋め尽くしていた影兎の群れ、そのほとんどがエイモスたちの追跡に駆り出され、残っているのは五羽のみとなっていた。
部屋の隅でへたり込む少年を囲うように並び、銘々耳を畳んでみたり、頭を振ってみたり、生々しく動いているが、攻撃を仕掛けてくる素振りはない。術者が待機命令を出しているのだろう。さっきまでの迫力がまるでない。しかし、
「――――」
包囲網は手薄である。あるいは逃げられるかもしれない。少なくともエイモスが現れる前よりは確実に状況が緩和されている。だというのにレター=パーケイトは、虚ろな目を空中に漂わせている。状況を動かそう、という気迫がまるでない。まさしく糸の切れた操り人形と化していた。
恐怖に晒されすぎた――レターという男は元から精神的に強い人間ではない。それこそ、巣穴で震える兎に例えても言いすぎではない。自由気ままにのらりくらり生きる猫の対局と言ってもいい。
このまま事が進めば、さらなる恐怖に晒されることになるだろう。召喚術師はきっと容赦しない。
そうした場合、彼の精神は崩壊してしまうと思われた。彼はそれを甘受するしかないと思われた。
しかし、その時だった。開け放したドアの向こう、廊下の方から少女の声が聞こえた。
「ちょっと、何よこれ――」
その瞬間、レターの瞳に光が戻る。
(今の――声は――――)
壁に空いた穴を見て驚きの声を上げたノーム=ラッカーが恐る恐る部屋の中を覗き込む。
「な、なに――ウサギ? って、レター! どうしたの?」
彼女の顔にさらなる驚きが浮かぶ。
(いけない――いけない!)
危険を察知する能力が頭の中でとびきり大きな警笛を鳴らしている。レターを崩壊させる更なる恐怖が訪れた――そう思われた。
一番ドアに近い場所に居る兎。後ろ足で首を掻いていたと思えば、ノームの姿を見た瞬間、竹が弾けたように駆けだす。
「伏せろ、バカ!」
「えっ、え?」
目を白黒させるノーム。あなまりに突然で反応することはできない。
「クソッ―――」
彼自身どういう理屈で動くことができたのか分からない。待機している兎たち、ひいては、それらを操っている術者すら反応できない。何かの拍子に歯車が噛み合ったかのような、突飛な動きだった。
床を蹴ってノーム目掛けて飛び込む兎。
その動線に割り込むようレターも床を蹴る。
――ノームの眼前、影の兎とレターの拳が交差する。
壁を壊したときと同じように、兎は自爆する。その威力は決して弱くない。巻き込まれれば人間の体など易々と吹き飛ぶ。しかし、
「キャ――」
「――――っつ」
二人は爆風に煽られ廊下を転がる。だが、苦悶の喘ぎ声を洩らすことができる状態なのだ。服には焦げ跡がつき、衝撃によるダメージが体に蓄積しているが、それだけで済んでいる。
(うまく――いった……!)
額に深い皺を刻みつつレターが体を起こす。
彼は危険から目を反らすことができなかった。それだけの勇気がなかったのだ。しかし、それが身を助けた結果となった。
彼の危険感知能力は、その危険の“程度”まで識別することができる。剣を見れば腹の底が僅かに重くなる程度、老夫婦宅で発見したぬいぐるみは冷静さを失うほど――など、かなりの鋭敏さを誇る。
エイモスに飛びかかった兎を見たレターは、ほとんど無意識のうちに、その危険度に違和感を覚えていた。
――爆発の寸前、兎から感じる危険が増幅した。
更に詳細に言えば、壁に衝突する“寸前”変化した。じっとしている兎はそれほどでもないのだが、爆発する寸前、とんでもなく大きくなる。
本当のところ、彼は重要な要素にほとんど気づいていない。
兎には実体がなく、物理的接触が不可能であること、よって爆発から“逃げる”以外の方法がないこと。物理的接触が不可能なのは兎の方も同じであり、それに伴って衝突を引き金に爆発しているわけではないこと。逆に、気づいていたら兎を殴るなどという策には出なかっただろう。
レターは兎が最も大きな危険を放ている瞬間を狙って拳を打ち込んだ。それは、一番兎の存在を認識しやすいから――という程度の理由しかなかった。
だが、それがおそらく唯一兎の自爆を弾き飛ばす方法だったのだ。
彼の感覚はまさしく的を射ていた。影兎は普段はほとんど無害であり、攻撃手段を持たない。目標を定め、攻撃指令を受けた場合のみ破壊機構を得る。それも、爆発する寸前に備わる――つまり、爆発する一瞬のみ実体化するということだ。
この仕組みが召喚魔法“影絵の兎“のみそだった。アンタッチャブルな生物爆弾、対処法がない――と錯覚させることこそ、最大の武器だったのだ。
思い通りに事が進んだ、という興奮を覚えつつレターがノームの手を引っ張り起こす思いがけず部屋から抜け出すことができた。この期を逃す手はない。
「いそげ、ノーム! すぐに追ってくる」
「――なんなのよ、もう!」




