第三十三話 紙一重
キィィィィン!! という鼓膜を劈くようなタイヤのスキール音が、廃倉庫のすぐ外で鳴り響いた。
乱暴にブレーキを踏み、砂利を撒き散らして停まった一台の覆面パトカー。
「……クソッ」
俺は奥歯を噛み締めた。
本物の模倣犯は別にいる。その事実を消化する間もなく、廃倉庫の入り口に、西園寺鏡介のシルエットが浮かび上がった。
「終わりだ。葛城湊」
西園寺の声が響き渡る。
彼はスライド扉の影に身を隠しながら、両手で構えたニューナンブの銃口を真っ直ぐに倉庫の奥へ向けた。
俺は咄嗟に彩花の腕を掴み、背後の一ノ瀬さんへ鋭く顎をしゃくった。
無言のまま、三人は音を殺して薄暗い倉庫の奥――山積みになった建材の影へと滑り込む。
「武器を捨てて出てこい、葛城湊、それにいるんだろう?一ノ瀬玲奈、そしてコピーキャット。お前らがそこにいるのは分かっている」
西園寺の声は、入り口付近から動いていない。
当然だ。彼は俺たちを、昨日アパートを血の海にした猟奇殺人鬼だと思っている。こんな薄暗くて障害物だらけの廃倉庫に、無防備に突っ込んでくるような三流の刑事じゃない。
彼は今、暗闇からの奇襲を警戒し、死角を一つずつ潰しながら、じりじりと壁伝いに進んできているはずだ。
その「プロとしての慎重さ」こそが、俺たちの唯一の勝機だった。
入り口の看板には『葛城工務店・第二資材置き場』とあるが、そもそもここは、倒産した町工場(鉄工所)だった物件を、親父が居抜きで安く買い叩いただけの代物だ。
高い天井には錆びたクレーンレールが走り、だだっ広い土間には、工務店の足場用単管パイプや、大量のベニヤ板が無造作に立て掛けられている。西園寺にとって、ここは死角だらけの最悪な迷路だ。
だが、俺にとっては庭だ。
どこに何が積まれていて、どの隙間なら大人が通れるか、12年前から完全に頭に入っている。
(……こっちだ)
俺は声を出さず、彩花と一ノ瀬さんに手振りだけで合図を送った。
壁際に立て掛けられた、高さ二メートルを超える石膏ボードの山。その裏側に、人一人が横歩きでギリギリ通れるだけの「隙間」がある。
俺たちは息を殺し、石膏ボードと壁の隙間へと滑り込んだ。
埃とカビの匂いが鼻を突く。
彩花が小さく息を呑み、足元の空き缶を蹴りそうになった瞬間、俺は彼女の肩を強く抱き寄せて動きを止めた。
ジャリ、ジャリ、と。
西園寺が砂利を踏む足音が、石膏ボードのすぐ向こう側を通り過ぎていく。
距離にして、わずか数十センチ。
西園寺の構えた強力なマグライトの白い光が、石膏ボードの隙間から漏れ、俺たちの顔をチカチカと照らした。
心臓が破裂しそうだった。
彩花が俺の腕の中で小刻みに震えているのが伝わってくる。一ノ瀬さんは両手で自分の口を塞ぎ、必死に呼吸音を殺していた。
「……どこに隠れた、ゴースト」
西園寺の低い声が、すぐ真横で響く。
俺はサバイバルナイフを逆手で握り込んだ。万が一見つかれば、光を潰して強行突破するしかない。
だが、西園寺の足音は、俺たちがさっきまでいた「革ソファ」の方へと遠ざかっていった。彼が倉庫の最も奥深いエリアのクリアリング(安全確認)に入った証拠だ。
(今だ!)
俺は二人の背中を押し、隙間を抜けて工場の裏手へと走った。
そこには、かつて俺たちが『勝手口』として使っていた、トタン壁の下部の壊れた通気口がある。
身を屈め、蜘蛛のように通気口を潜り抜けて外へと転がり出た瞬間だった。
バンッ!
鋭い銃声と同時に、俺の頭上のトタン壁に穴が開いた。金属の破片が耳を掠める。
(なんて恐ろしい野郎だ......)
潮風が顔を叩く。
そこには、一ノ瀬さんがいつでも出せるよう頭を向けて停めておいたワゴン車があった。
「乗れ!」
俺は後部座席のドアを開け、彩花を押し込んだ。一ノ瀬さんが運転席へ滑り込み、俺も助手席へ飛び乗る。
「……出せ!」
俺の合図と同時に、一ノ瀬さんがアクセルを床まで踏み込んだ。
ワゴン車のエンジンが爆音を上げ、タイヤが砂利を蹴り飛ばして猛烈なスピードで発進する。
「待て……葛城ィィッ!!」
エンジン音を聞いた西園寺の咆哮が、倉庫の中から響き渡った。
だが、遅い。
彼は倉庫の最深部まで入り込みすぎた。迷路のような建材の山を全速力で引き返してこようとするが、足場が悪すぎる。
リアウィンドウから振り返ると、工場の裏口から飛び出してきた西園寺が、遠ざかる俺たちの車に向かって凄まじい形相で銃を構えるのが見えた。
だが、距離はすでに開いている。発砲音は聞こえなかった。
数秒後、猟犬の姿は、巻き上がる土煙の中に小さく消えていった。
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午前10時45分。
警察の緊急配備網が敷かれる前に、俺たちは幹線道路を外れ、入り組んだ工業地帯の裏道へと逃げ込んでいた。
車内には、重く、焦げ付くような沈黙が漂っている。
聞こえるのは、一定のリズムで響くエンジンの駆動音と、彩花の微かな息遣いだけだ。
俺は助手席から振り返り、後部座席の女を見据えた。
阿久津誠二が守り抜いた娘であり、こんな最悪の事態を引き起こした張本人。
「……さて」
俺は静かに切り出した。
「追っ手は撒いた。隠れていたし、あの距離と土埃だ。西園寺に俺たちの顔はハッキリと見られていないはずだ。だが、俺と一ノ瀬さんの共犯関係や名前は完全にバレている。全国指名手配されるのも時間の問題だ」
最悪の状況だ。身の振り方を根本から見直さなければならない。
「まぁしかし、その前にお前の話だ。阿久津彩花」
俺は淡々と言葉を続けた。
「お前が俺を探し出そうとした理由は、分かった。だが、なぜあんな猟奇殺人鬼の真似事みたいな犯行声明文を送ってきた。お前のそのポエムのせいで、俺たちがどれだけ最悪な勘違いをしてあの場所に突っ込んだか、分かっているのか」
「ポエムって何よ。私はただ、裏社会の人たちに舐められないように、業界の隠語っぽく書いただけよ。次の獲物を連れて、って書けば、“味方の同業者”だって分かるでしょ?」
彩花がムキになって言い返してくる。
「それに、あれを送ったのは今日の早朝よ。昨日の夜に起きたアパートの殺人事件なんて、私はニュースで見るまで全く知らなかったわ」
「……まじかよ」
運転席の一ノ瀬さんが、思わず声を漏らした。
俺は目を細めた。
奇跡的な悪運。致命的なタイミングの重複。
バラバラだったパズルが、俺の脳内で最悪の形に組み上がっていく。
彩花が俺に接触を図ろうとした、ただの背伸びした暗号文。
それと全く同じタイミングで、何者かが俺たちの手口を真似て起こした本物の猟奇殺人。
俺たちを誘い出した狂人は、後ろの席でふんぞり返っているこの娘ではない。
俺たちの“芸術”を汚し、血の海を作った模倣犯は、今この瞬間も、どこかに潜んでいる。
この街のどこかに。




