Ⅲ-2
ポーン、と間延びした呼び出し音が室内に響く。
「……来客か?」
部屋の主は外出中で、ローザが戻ってきたのならば呼び出しベルを鳴らす必要はない。
ローザの来客ならば自分が応対するべきでなく、…………いや、そもそもクロにはオートロックマンションがどのような仕組みなのか分かっておらず、ローザの家の間取りも覚束ない。
つまりは応対するしない以前の問題であった。
クロは早速携帯端末を取り出し、登録したローザの番号をディスプレイに表示させる。しかしあと指先を少し動かすだけでローザに繋がるという段階になって、クロは思い留まる。
「困ったらすぐ電話? 子供か俺は……」
クロは携帯端末をズボンのポケットに突っ込み、玄関を開ける。そこには当然誰も居らず、冷たい空気だけが無遠慮に部屋へと入り込んでくる。
クロは訝しみ扉を閉めようとするが、再び呼び出しの電子音が鳴り響く。
クロは閉じかけた扉を開けて再び近くを確認する。そして十秒ほど悩んで初めて、自身の誤りに気付く。
「ああ、オートロック」
クロは以前に誰かが話していたオートロック化されたマンションの利点を思い出す。玄関ではなくマンションの入り口で来訪者を留める仕様から、居留守は簡単に使える。けれど、どうにも、この来訪者が普通の来客だとクロには思えなかった。
だが、まあいいかとクロが扉から背を向けた瞬間を狙ったかのようにポケットに押し込んだ携帯端末から電子音が鳴り響く。ローザかと思い慌てて画面を表示してみると、そこにはまたもや見知らぬ文字の配列が映っている。
クロは少しだけ悩み、ディスプレイに表示された通話ボタンを押す。
「もしもし……?」
「――――さん、で合っていますか?」
不意に電話先から囁かれた本名――それも黒田の家の養子になる前の名前に、クロは思わず身震いする。知られる筈がない名前を相手は知り、知らない相手からそれを伝えられる。まるで相手が自分の隠し事を――自分すら知らないことを、余さず喋り出しそうな恐怖すら感じてしまった。
幸い電話先の相手は知らないからか必要以上は喋らず、更にクロも知る人物であった。
「ああ、突然すいません。僕はティモシー・久世、昨日会いましたよね」
「ティム? ああ、昨日は色々世話になった。何か用事が……いや、何故お前がこの番号を知っている?」
「共通の知人から。少なくとも、彼もキミのことを知っていました。名前も電話番号も彼から教わったんですが……」
一瞬、何かの罠でないかという考えがクロの頭を過る。電話で気を引き、もう一人が仕掛ける。人通りが少ないとはいえ普通の喫茶店に二度も鉛玉をぶち込み、深夜のホテルで堂々と仕掛けてくる連中が、本当に他国の軍隊を恐れるのだろうか?
そんな思考を一旦隅の方へと押し退け、目の前にある簡単な疑問の解消を選ぶ。
「共通の知人とは誰だ?」
もし電話の向こうのティムが、もしくはティムに偽装した誰かが答えに詰まるようならば、それは疚しさの露呈と同義。答えに詰まらなくても十全の信用を向けるには早いが、そこまで疑ってかかる必要はない。どれだけ石橋を叩いても、渡らなければ同じなののだから。
「共通の知人? ニキです。ニコラウス・ルーパー・マクマンベトフ。長い割に覚えやすい名前、そして神出鬼没で物知りな彼です。…………、知り合いですよね? ちょっと彼から預かり物があって、それを渡しに来たんです」
ティムの口から出たニキの名前に、クロは別段驚きはしなかった。
ニキはこちらと接触したがっていた。前回は碌に会話も進まず、満足に情報交換をする間もなく通話を終えてしまった。故にこれから、何かしらの接触があると踏んでいた。まさか数回顔を合わせただけのティム経由でとは思いもしなかったが、それもまだ許容範囲内の出来事だ。
自分たちへの襲撃とニキへの追跡、その大元が同じならニキ自ら接触するのはあまりに危険が大きいからだ。こちらの襲撃者の目的もニキだと仮定するなら、接触するのはこちらから、ニキの追跡者を排除しながら行うのが一番理に適っている。
けれども無関係な筈のティムを巻き込むのは、流石にやりすぎだ。
リスクを最低限まで下げて利益を回収する。二十一世紀初頭の麻薬の密輸組織とよく似た手口だ。税関で普通の観光客の手荷物に危険物を紛れ込ませ、仮に失敗したとしても捕まるのは観光客で、成功したら莫大な利益がそのまま組織のモノになる。多くの善人を泣かせ、多くの悪人を笑わせた手口――それをニキは使っている。
だが、善悪について持論を投げるほどクロは立派な人間ではない。
「ニキと会ってから、視線を感じてはいないか? 具体的には尾行されたり、監視されたり」
問題があるとするなら、ティムが道中で襲われてクロとローザに届く筈の情報が奪われる危険性を考慮していなかったこと。一手間違えていたら途端に詰みまで手が伸びて、その状況はまだ打開していない。
「尾行も監視もいませんよ。それより早く降りてきてください。ここは寒い。私はずっとマンションの前で待ってて、震えてるんです」
呼び出し音を鳴らし続けていたのは、ティムだった。この場所を何故知っているか怪訝に思うが、すぐに既視感で上書きされる。買ってすぐのクロの電話番号を知っていたニキに教えられたと考えれば、強引だが説明もつく。
「……ひょっとして、信用していない? 疑り深いのは結構ですが、僕も無償で協力している訳ではないんです。ニキからはそれ相応の対価――お金じゃないですが、私の欲しいモノを貰っています。キミにこれを渡さないと、ニキに申し訳ないです」
クロは疑っていた訳ではない。――――ただ、信用する材料が足りなかっただけ。
「分かった。すぐ向かう」
クロはそう電話先に伝え、通話を止めてコートを羽織り扉を開ける。そしてコートに仕込ませた投げナイフの場所を確認しながら、ローザにどのように説明すればいいのか考えながら、正面入り口に続く階段を降りて行った。
ローザが自室に戻ったのは飛び出してから約二時間後、待っていたのは無表情のまま数枚の書類を睨むクロだけであった。テーブルには辞書やローザがこの街に来て暫く活用した地図に携帯端末、そして筆記用具などが王様に謁見する家来のように陣取っていた。
「クロ、今戻った。遅れてすまない」
「おかえり、ローザ。そんなことよりこれを」
戻ってすぐのローザに、クロは自分の持っている書類の一つを渡す。
「何これ?」
「地下鉄の路線図だ。廃線と予定図も含めて記されているから絡まって見えるが、紐解いてみれば簡単だ」
見ると路線図には赤黄青に色分けされ、縦に一から六、横にAからFの三六区画に分けられている。それらがどういう意味を持つか分からないローザは書類をクロに返す。
「これはニキから渡されたものだ。これに見覚えは?」
書類の代わりにクロが寄越したのは一枚の写真、そこに移っているのは綺麗な金髪に黒い眼帯を付けた優男――そのアイスブルーの瞳は南国の海のように透き通り、同時に底なし沼のような危なさを秘めていた。
「これは、昨日の…………」
「ティムだ。ティモシー・久世、あいつがニキの遣いでこれを持って来た」
その断言する口調にローザは同調することはなく、クロと同様に疑問を向ける。
「ニキの遣い?」
「写真の裏を。俺はその絵に見覚えがある。ローザは?」
写真を裏返すとそこには赤の法衣を来た男が描かれている。現実の対象を写し取る写真と違ったその絵柄を、ローザは見た覚えがある。
「タロットの……」
「『法王』のアルカナだ」
クロの言葉通り、ローザは幼い時分にニキに写され、同様の絵柄を見せられた覚えがある。その時は余計なことを考える余裕もなく、ただその出来事を記憶の隅に留めておくだけであった。
「俺も似た経験がある。浮かび上がったアルカナは確か『運命の輪』……、まあ俺のことはいい。それよりニキのこれが占い的な意味を持つのなら、『法王』のアルカナが示す意味は興味深い」
穏やか。忍耐力。向上心。慎重。義理堅い。
クロは携帯端末で調べ、既に覚えた事柄をスラスラと口にしていく。
「中でも”友人を助ける”という項目は、信用を裏付けに足ると俺は判断した」
「なるほど。ティムがニキの遣いをしたのは納得……理解した。でも、ニキはその書類を見せて私たちに何をして欲しい?」
クロはローザの疑問に深く頷き、本来最初に伝えるべき最初の一言を口にする。
「ニキが今夜だけ、ここで待っている」
現在の時刻は正午を少し過ぎた辺り、元気のない冬の太陽が誰かに強制されているかのように僅かに顔を覗かせている。クロとローザはとある目的の為、再び市街に繰り出していた。
「……着替える必要はあったのか?」
今のローザは昨日のように簡素な服装ではなく、そして白を基調としたコートにキャスケット帽子、ハイネックのセーター、そして短めのホットパンツに黒いタイツという美脚を強調し、けれども腰から下が酷く寒そうな格好をしていた。
「あの服装は軍人然とし過ぎて逆に浮く」
「俺の服装は昨日と同じだ。偽装の効果は期待出来ないと思うが……」
クロは気まずそうに頭を掻く。ローザの努力は認めるが、これだけ魅力的な格好で街中を歩けば逆に視線を集めるだけだ。けれどそれを伝えても意味がないことは、シロとの付き合いでよく理解していた。クロは何も言わず、ただ足を進める。
「待ってクロ、ちょっと速い」
思わずシロといた時のペースで歩いてしまい、ローザとの距離が開く。ローザは慌てて駆け寄りクロの右腕を掴む。腕を掴んだまま上目遣いで見上げるローザと目が合い、クロは納得する。
「なるほど。シロとは身長差が――――」
「身長が、なに?」
ギリッと右腕を握る手に力が籠る。痛み自体はまるでないが、圧力だけは十分に感じられた。
シロとローザでは十五センチは身長差がある。当然足の長さも歩幅も違う。良く言えばスタイルが良い――悪く言えば大柄な欧州系の人間にとって、この小さな身長は何かしらの劣等感を植え付ける理由に十分なり得るのだろう。
再び歩き始める前に、ふとクロはローザに手を差し出す。
「歩き辛いなら、手を貸すが?」
ホテルで襲われた後、夜の雪道を歩いていた時のようにクロはローザに手を差し伸べる。今は辺りが暗くなければ雪も降っていない。形だけの気遣いと最低限の謝罪――ローザが断ると予期しての申し出であった。
「うん、ありがと」
ローザは差し出された手をギュッと掴む。てっきり今までのように断ると踏んでいたクロは呆気に取られる。そして周囲の男から羨望と嫉妬を集めながら、逆にローザに手を引かれて歩き始めた。
インターステラー見てきました
かなり良かったです個人的に今年のベスト3に余裕でランクイン
お勧めです、超長いけど




